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したたか酔えよ、クッキリ醒めよ

なんと-e.com公式ブログ「なんとコラム」


2008年07月18日
 経済学の初歩の初歩から、まずは。
 価格決定に関するお話。「商品の価格は需要と供給とのバランスで決定される」というものです。誰でもご存じかと思います。
 ある商品がある価格で売っているとします。そこに、それを欲しがる人が多くなったとしますと、もしくは商品の供給量が少なくなったりしますと、価格は上がる。反対に、欲しがる人が減ったり供給量が多くなったりすると、価格は下がる。価格が上がると人は買わなくなったり商品を供給する人が増えたりして、結果価格は下落方向に向く。価格が下がると、生産が手控えられたり、より多くの人が欲しくなったりして、自然に価格は上昇方向に向く。とまぁ、こんな具合です。
 このお話には、ウラと言いますか、大前提があるのですが、案外とこれについては誰でも知っているというわけではありませんね。では、その大前提とは?。その市場が、「完全市場であること」です。
 「完全市場」とは何か。市場参加者が常に同じ情報を共有し、市場の需給不均衡は瞬時に解消されるという前提です。さらには、無税など価格決定にチョッカイ出すような要因が無く、無リスクかつ自由に資金の借入・貸付がなされる、というあたりまで前提とされますってーと・・・いかにこの前提がノーテンキと言いますか“あり得ない”ものであるかが知れるというものです。結局は、学術・理論の研究の場で、対象たる市場環境を簡素化するために置かれる前提、いわば仮定に過ぎないってことですね。
 シマが大学一年生の時の授業では、「株式市場がこれに近い」なんて教授が宣いましたが、その後に証券不祥事が次々に明るみに出ちゃいましてそんな意見はお笑い草と化し、さらには最近相次いだ、NHK職員などマスコミ人や証券会社の社員が自分らのみが持つ情報でもって株の売買をして濡れ手に粟の儲けを出したインサイダー事件を見てみれば、教授のノーテンキさ加減もよく分かろうというものですナ。

 つまりは、商品の価格ってものは、無辜の民・静かなる大衆の、日常普通の行動で自動的に決定されるものではないってことです。なぜならば、そのメカニズムが働くための大前提が、我々の間では大なり小なり実現していないからです。ここまでIT化が進んでも結局情報は不均衡なままですし、外的チョッカイだって有りすぎなくらいじゃないですか。
 基本メカニズムの理想的運動そしてその実現をですよ、妨げている、もしくは、その実現とは反対の力を与え続けているのは、一体全体どんな連中なんでしょうか?。

 こんどはチョットむつかしくなって、「新自由主義」って言葉。ご存じでしょうか。
 先に述べた価格決定のお話を基礎とする市場原理主義の経済思想に基づき、財政の均衡化・福祉や公共サービスの縮小または廃止・公営企業民営化・経済の対外開放・規制緩和による競争促進・情報公開・労働者保護廃止などを一まとめにした経済政策の体系を、そしてその体系を体現し現出させる資本主義経済体制のことを指します。なんのことはない、ここ10年ばかりの我が国日本がアメリカ合衆国あたりから輸入して乗っかったやり前のことですヨ。
 これが上手に機能するためには、やはり前提が必要となってきます。上に書き連ねた事柄などが全て実行に移されねばならない、例えば民営化は促進するけど情報公開はしないとか、外国にばかり対外開放自由貿易を求めつつ国内産業には巧妙な保護政策を取るとか、そんなのがあってはならないのが一つ。そしてさらには、その社会におけるメンツの一人一人の人間像が、競争志向の合理的経済人であること、即ち経済活動に限って考えるとしてですけど、自己利益のみに従って行動する完全に合理的な(冷徹無比とも言えそう・・・)態度を取り続けられる人間であること、がもう一つです。
 特に後者の、人間の有り様ってのが曲者なことは一目瞭然でしょう。どだい、実際の人間なんてもんは、そこまで合理的でも計算高くもなく、頭良いとは限らず間違わないとも限らずクールにし通しというワケでもないからです。

 つまりは、新自由主義ってものは、それが理想的社会を必ずしも導かないってことです。なぜならば、その大前提そのものが、非常に偏っていて、状況に必ずある歪みによって初手から格差ハンデが付いてしまっていることが実に多く(その大部分は、巧妙に隠されているんですゼ)、そして、合理的で冷徹無比に行動するよりは、知ってか知らずかの内に、非合理的で直情迷妄に行動させられることが実に多いからです。
 では、歪みを温存し隠蔽しているのは、そして、無辜の民・ブツブツ言うだけの大衆をしてご都合主義な方向に方向付け押し流している連中は、一体全体、どんな連中なんでしょうか?。

 「一体全体、どんな連中なんでしょうか?」と二度振りました。一言で言えば、「新自由主義」の体勢風潮の中で、それが有利に働き、いわゆる「勝ち組」に入っている人々でしょう。
 元々経済というものは財と材の移動を伴いますが、これが「新自由主義」における流れになりますと、特定少数にばかり財そして材が両方とも偏る結果となります。前提が虚構なんですから、流れが万人にとって良く流れるワケがない。別に違法でなくとも、大前提が虚構であることを知っていて、そこを突く手法でもって攻めること肝要なようなんです。

 こんな娑婆で、「自己責任」なる言葉ばかりが一人歩きしているのは、いかがなものでしょうか?。佐賀で教員採用試験や昇進試験に合格しなかったのも自己責任なら、構造不況下で就職氷河期に晒された世代に不安定な雇用にある者が多いのも自己責任になってしまいます。原油高物価上昇、医療不安に政治不信だって、我々一人一人の自己責任になっちゃいます。漁に出ても慢性赤字に陥っている漁業者もそれは自己責任、シャッター通りになっていくのも自己責任、こうまでなっては、ホントに、成熟した社会であるとはてんで言えません。
 そもそも、全てが自己責任に帰するのならば、社会なんて必要無い。「万人の万人に対する闘争状態」でありゃ済むんです。それでは人間集団が安定しないから、敢えて社会というものが必要になる。ましてや、いわゆる「勝ち組」以外の面々=我らの内の90%と言って良いかもしれない、がですよ、他のお仲間面々に対して「自己責任」と吐いて斬って棄てるのは、本末転倒ですし天に唾するがごとき愚行でもありましょう。

 ホントなら、仮に勝ちの方の比率が10%で負けの方の比率が90%なら、選挙制度がある民主国家でありますと、負けの方が勝ちの方の支持を取り崩す選挙結果なりなんなりが出る筈のモンです。これ、価格決定論における受給バランスのお話にも、市場万能を唱える新自由主義の概念にも、ガッチリ合致してますよね。
 事実、中南米の各国では、新自由主義がバラ撒いた格差拡大によって生まれた貧しく持たない多数派が、いわゆる「勝ち組」を生んで彼らから指示される政権を、革命やクーデターなどに依らない民主的かつ合法的な結果でもって打倒しております。なんと言っても「一人一票」なんですから、この成り行き帰結こそ、市場原理的かつ市場万能主義的かつ新自由主義的であるというパラドックス!。呵々大笑。
 では、これが起こらない国というのは、はやり前提条件はおろか、前提の上に構築され推進される機能さえもまともに働いていないということでしょうか。なんと言っても国民主権の民主国家の筈なんですか、これを働かせるのは我々一人一人なワケでして、だとすればこれこそは「自己責任」であり得ます。

 「知りませんでした」では済まされない、そんな点が日常そのへんにいくらでも転がっている。それら一つ一つに目を向けて、賢くあり、そして良く生きる。現代の娑婆は、文明的でラクチンにもなりましたが、一方で、こういう態度を必然的に要請し、さもなくば落とし穴アリ地獄のごとき状況に嵌り込んだ上に周りから「自己責任!」と冷笑されるんですから・・・。




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2008年07月04日
 ナウル共和国、という国をご存知でしょうか。

 まぁ、知らなくても当然な、南の海に浮かぶ珊瑚礁の島国、れっきとした独立国ですが、ヴァティカン市国、モナコ公国に次いで、面積が小さいミニ国家、首都が無いという点に於いて世界唯一というユニークさ?を持っています。




 18世紀末にイギリスの捕鯨船(現在は反捕鯨国ですが、アメリカ合衆国と同じく昔は鯨をバンバン獲っていたんですヨ)によってヨーロッパ世界に知られ、19世紀末にドイツ領にされた直後に、ある発見によって大変重要な島と認識されるようになりました。
 その発見とは?。有態に言えば、ウンコ。グアノと言いまして、海鳥の糞を中心に、屍骸・餌の食べかす・卵の殻などが、数千年から数万年という途方もない長きに渡って堆積し化石化したものです。現ナウル共和国であるその島に大量に堆積していたのは、長年の降雨によって窒素分が流出してリン酸分が濃縮された、「燐酸質グアノ」と呼ばれるリン鉱石だったのでした。
 リンという成分、原子記号Pは、あらゆる生物に必須の元素であり、カリウム及び窒素と並んで肥料の主要成分を成すもの。農業生産の拡大の為、ナウルのみならず南洋の様々な島にあったグアノの争奪が欧米列強によってあったくらいに重要な資源とされました。
 ナウルにおけるリン鉱石採掘は20世紀初頭から始まり、領有がドイツからイギリス、そして日本の占領と移り変わりながも採掘は続けられ、大戦後はアメリカの占領の後に国連の信託統治を経て、1968年に英連邦の一員として共和国独立を果たしたのでした。

 その昔、70年代から80年代前半にナウルを旅行した人の話によると、それはそれはスゴい社会だったそうな。税金ゼロで、教育費もタダ。物価も決して高くない。当時の純粋ナウル人は3万人くらいでしたが、労働はほとんど出稼ぎの外国人労働者に負っており、ナウル人はまったく働く必要が無い状態・・・リン鉱石輸出のアガリを国民に年金として分配していたんですから当然で、「働く」という概念自体が無かったとも。三度の食事さえ中国人の経営するレストランで取るようになって料理さえしなくなり、商業も外国人経営の商店ばかり、なんと行政さえ外国人任せ、16人の国会議員のみがナウル人の就労人口とまで言われたとか言われないとか。国営航空会社はジェット機を3機も所有・・・3万人に対して3機ですよ!、でもリン鉱石以外の産業もほぼ皆無のまま・・・。
 とにもかくにもリン鉱石のお蔭で、オーストラリア・ニュージーランドを除くと、オセアニア部では最も経済的に豊かな国だったそうです。

 当然、資源には限りがあります。
 1989年に初めて産出量が減少に転ずると、あれよあれよという間に産出量は減っていき、前世紀終盤にはほぼ枯渇・・・。
 今世紀に入っては、資源枯渇=ナウル経済消滅が現実のものとなりました。一応これを見越して、南太平洋島嶼部の国々に信用貸付による投資をしてみたもののノウハウもなにもない放漫なやり口のために全て失敗。オーストラリアなどに不動産投資などを行ってきたものも、手腕・ノウハウの欠如から外国人任せのためほぼ全て失敗。
 結果、収入を外国からの援助に頼らざるを得なくなり、そのためにアフガニスタン難民をオーストラリアに代わって受け入れるという表明をしてみたり、援助欲しさに中華人民共和国と中華民国との間の国交樹立・断交を振り子のように繰り返してみたりという奇策(と言うか、場当たり的小手先の子供だまし政策)を弄するように・・・。
 そうこうしているうちにナウル島と外世界との通信が途絶したというニュースがBBC配信で世界を駆け巡り、すわクーデターか無政府状態に陥ったか、と憶測が乱れ飛びましたが、後に判明したのは、資金的な事情で通信設備が維持できなくなったというオチ・・・。

 現在は、諸外国からの援助が唯一の収入源という状態になっており、日本からも無償援助が入っているみたいです。リン鉱石は、最盛期の年200万tから、何年か前には数千tにまでになっており、去年今年あたりは、さてどーなっているのやら・・・?。

 ナウル共和国、いや「ナウル沈没」の一席は、ここらで打ち止めにしておきます。
 では、何故こんなお話をしたのかと言いますと・・・。

 昨今、アメリカ合衆国がリン鉱石の輸出を禁止したのに続いて、巨大な輸出国であった中華人民共和国も輸出関税の大幅引き上げという事実上の禁輸措置に踏み切りました。こちら
 つまり、化学肥料の原料が入りにくくなる或いは価格が高騰する、ひいては入ってこなくなる可能性が出てきたということ。現代農業において栽培されている作物の様々な人気品種は、多量の施肥を前提としているものが多いと聞きます。食料を安定的に生産しようとしても、食料自給率を上げようとしても、そのために必要な物資が不足するという事態が、あながち冗談ではなくなってきているのです。
 ナウル共和国は、頼り切っていたリン鉱石の枯渇によって、国存亡の危機に瀕しています。しかし、同様の事態が、この日本に起こらないとも限らないのです。
 日本は、原料などを輸入して、これに持ち前の技術力によって高付加価値を付け、輸出することによって現在の地位を築きました。それが、いつの間にか、多岐に渡りありとあらゆるものを輸入に頼り切るようになりました。食料のみならず、自国における食料生産に必要な成分まで・・・。
 ナウル共和国のリン鉱石よろしく、現状が好ましいまま未来永劫続くという保証は全くありません。そんな盲信は、義務教育が無かった時代における無知蒙昧な層がするならいざ知らず、現代社会の我々がするようなものでは決して無いはずなのですから。

 何事も、遠くのことだ、対岸の火事だ、と楽観はしていられないということ。これが、現代社会のようです。




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2008年06月20日
 別段、酒造りには限りませんが、この手の仕事には、「勘」言うなれば「カン」というやつがつきものです。
 しかし、ここでキッチリと言わせて頂きますが、この「勘」というものに沿って判断を下すにしましても、それは毎日毎分のお話ではなく案外と時たまのことで、そしてその出所は、単なる思いつきというものでは毛頭ありません。
 経験から蓄積されたデータ(別に書類やパソコンのデータにまとまっていない、単なる個人の記憶に過ぎない場合も含めますが、蓄積されたデータであることは同じです)。「勘」が要求される時点での、これまで様々な推移の過去・その現在・予測される今後。そしてこれが酒造りの場合ですと、一年一年違う米の出来や人の動きそして気候の推移、皆含まれます。
 それらを、子細逐一まで精査しないにしても大まかな形で頭に入れておいて、ある判断を下す時に一気に引き出した上で瞬時に演算をし、最適な一手を打つ。畢竟、「勘」というものはこういうことだ、と。決して決して、思いつきでもなければ無根拠な閃きでもないのでしょう。もしそんなのを「勘」というのであれば、それはプロの仕事ではありませんでしょう。賽子ふるのと大して違いがありませんナ。

 おさらいします。ホンモノの「勘」というものは、それまでの蓄積から、往々にしてその都度瞬時に弾き出す、実は高度に理性的現実的な判断である、と。そうでない「勘」は、単なる思いつき・閃きという無責任なものに堕すのである、と。

 イロイロ偉そうに言ってますけど、このシマとて、では酒造の経験と言われれば、言いようによってはたったの10年くらいのもの。
 それでも、その間に得たものはすべて事細かにこの脳味噌のどこぞの引き出しに整理してあり、それを一瞬一瞬、逐一常に引っ張り出してきて、データとし、そのデータを基礎としてその他のデータを混合し、あれやこれやシマ風に味付けした上で、笑、「勘」を働かせているという寸法なんです。
 繰り返します。「勘」は、無根拠ではありません。無から出てくるワケではありません。むしろ、蓄積された苦労からこそ、生まれ出るものなのです。

 礎は、曖昧模糊とはしていない。だから、「勘」は「感じ」と違うのです。漠然としていて無根拠かつ無内容な、表層的でしかない「感じ」で次を決めると、大体において、意味をなさないか失敗にまで陥ってしまいます。
 「感じ」は、礎がそんな体たらくなだけではありません。他から、いや往々にして知らずのうちに自分自身で、カンタンに操作されてしまうのです。結果は、他から騙され、自らにも欺かれることに。

 例えば。
 昨今、少年による凶悪事件や不可解な事件が増えているように「感じ」ませんか?。実は、そんなことはありません。少年犯罪が最も多かったのは、『三丁目の夕日』を引くまでもなく大勢がやたらと美化しノスタルジーを感じたがる昭和30年代で、現代における発生件数は当時の四分の一です。それも、昭和30年代当時は殆ど事件としてカウントされなかった自転車泥棒などの窃盗・横領を含めて、四分の一ですわ。皆さん、これでも、青少年に対しての対策にこれまで以上の税金を投入するのを支持したいですか、「治安を良くする」なんて文言ひけらかされて・・・?。
 最近の青少年はすぐに“キレ”て、些細なことで暴力沙汰になっちゃう、と「感じ」て眉を顰めていませんか?。しかし、些細なきっかけで暴力沙汰・殺人事件になるのは、青少年が起こす件数よりも中高年が起こす件数の方が、実は遙かに多くなってきているのです。警察庁がまとめた平成18年の犯罪情勢によれば、刑法犯の認知件数が平成15年以降減り続ける一方で、暴行事件の検挙件数は10年前の約4倍に急増。そりゃ、青少年の数よりも中高年の数の方が母集団として多いからだろ、との反論も出そうですから伸び率も示しましょうか。年齢別に10年前と比較した伸び率をみると、10代がほぼ横ばいなのに対して、60歳以上は12.5倍、50代は5.6倍・・・。興味がある方は、こちら『暴走老人!』をどうぞ。これでもまだ、若者を悪者にして自身の世代の恥部を糊塗します?。
 ダイオキシンは猛毒で焼却炉からバンバン排出されてしまい、環境中に放出された内分泌攪乱物質(いわゆる、環境ホルモン)は我々を蝕んでいる、と、いまだに怖い「感じ」を持っていませんか?。両方とも、ほぼ否定されているんですよ、様々な科学者による様々な調査・実験・研究によって。そう言われてみれば、マスコミなどでも、ダイオキシンとか環境ホルモンとか、ほとんど騒がれなくなってきていると思い当たりませんか?。ダイオキシンについては、この好著『ダイオキシン 神話の終焉』でもってトドメとしておきますし、内分泌攪乱物質については、1998年に当時の環境庁が発表した67物質のリストは、とっくの昔に取り下げられております。流言飛語の類だったワケですが、これに投入された税金の額、天文学的数字の上る筈ですが、それを考えれば目眩がしますなぁ・・・。

 繰り返します。結果は、他から騙され、自らにも欺かれ、乱暴かつ単純に言えば「損ナいく」んです。

 「勘」は要りますが、「勘」はそれそのものを鍛えると言うよりはむしろ、素早く鋭く正しく判断できるようになるための礎を日々の努力でもって形成するのです。
 「感じ」ていることは必要ですが、「感じ」はむしろまず疑ってかかった方が良いようです。
 して、我々は、この現代社会に生きるのです。ただ生きるのではなくして、よく生きる、これを常に念頭に置きつつ・・・。



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2008年06月06日
 絵を描くのが不得意で、小学校・中学校の写生大会というヤツが大嫌いでした。当然、リキも入りませんから、やり前がイイカゲンになってしまい、余計センセに怒られるという悪循環に陥っていました。

 ある小学生時代の秋。刈り入れのシーズンに城端町大鋸屋地区あたりに展開して写生大会になりました。あちこちの作業風景を見て、そして神社の境内だったかで絵筆を走らせる、というんだったか・・・。
 シマは、小父さんがバインダーで稲を刈っている姿を横から捉えた構図で描きました。ですが、やる気がそんなんですから、さっさと仕上げて終わらせたくて、大地を茶色にワーッと塗ったんですよ。
 で、先生が、「ちゃんと見ていないじゃないか、そんな色だったか!」と怒るワケです。言われてみれば当然・・・稲藁が層をなして散らばっている田んぼは、茶色と言うよりは稲の黄金色に埋まっていているのですから。そう言われるまで、事実そのことに全く気付いていなかったということで、写生だというのに全くもって真面目に見ちゃいなかったことが露呈してしまってたんですね。
 大地は土だから土の色、茶色だからそれで塗っときゃいいだろ、という短絡と手抜きが、シマの目をして眼前の風景をそのままストレートに見ることを遮ってしまったのでした。

 目も含めて人間の感覚器官というのは、実は見ているようで見ていない、聞いているようで聞いていないナドナド、脳の情報処理の過程で非常に大きな影響と偏向とを受けてしまうことを学んだのは、ずーっと後のことです。

 でもしかし。その先生とて、画題が例えば「竜宮城」だったとしたらどうでしたでしょう?。烏賊を暗紫・赤紫・黒紫に描いていたとして?・・・蛸を白っぽい色や明るい茶色などで描いていたとして?・・・蟹を黒紫で描いていたとして?・・・さて、どうだったでしょうか?。
 烏賊を白く、はたまた蛸や蟹を赤く描いたら、やはり怒ったでしょうか?。ですが、烏賊は白く蛸・蟹は赤い、というのは食卓に上る段階においてであり、生きている段階においては全く違います。水族館に行けば、生きている烏賊は白くなく、生きている蛸・蟹は赤くないと判ります。図鑑を見ても判るでしょうが、図鑑は所詮写真ですから、生きているのが水槽の中で動いている、それを見るリアリティには勝てますまい。
 なるほど、「竜宮城」はおとぎ話、ファンタジーの世界ですから、その世界観をそっとそのままにしておくためにも、白い烏賊・赤い蛸・蟹というのも許されましょうか。であれば、本当の色を知ることが出来る水族館は、その対極、即ち現実感リアリティを、科学的正解を得る場所でなくてはいけないでしょう。

 先日行った某水族館でのこと。クラゲの展示にブラック・ライトをはじめとして様々な“幻想的”な色を照射しているのは、かなり過剰ですが「演出」の範疇としてよろしいでしょう。しかし、富山湾の深海に住む、蟹に、赤い光を当てて赤く見せるというのは、肉屋のショーケースじゃあるまいし、科学的事実をねじ曲げることになり、見る人々に誤解を与えるのではないでしょうか?。
 その昔、香具師が売っていた、緑色や赤色に染められたヒヨコも思い出し、それを見た時に感じた、どこかやりきれない気分も一緒に浮かんできて・・・。

 水族館って、文教施設じゃなかったんですか?。海の生き物の生態を知る場所であることが第一ではなかったんですか?。ツッコミたくなりますな。
 いや〜、もしかしたら、この現代においては、水族館=アミューズメント施設なんですかね?。まぁ、野生のイルカやアシカ・オットセイは、芸なんてしません、芸は観覧客を楽しませるために仕込まれているとすれば、アミューズメント施設という側面を持っているのも当然か・・・。
 でもでもですよ、それも程度モンでしょうよ?。水族館内の通路いたるところに記念メダルの自動販売機や海の生き物フィギュアが入ったガチャポンが並んでいました。売店では、イルカのバルーンとかいう水族館で出会える生き物を模したお土産・玩具ならまだ解りますが、なんと、水に濡れると「顔が濡れて力が出ないぃぃ・・・」となるアンパンマンの玩具までが目に付くようにディスプレイされていました。分別が幼い子供の欲求を喚起するものばかりが目に付くんですもん・・・。それに、食堂がズラリ入ったプレハブみたいなハーモニカ長屋の正面手すりには、まるで国道沿いのごとくに「ラーメン」「定食」「焼そば」「味自慢」とかいう旗が1mおきにズラリとくくりつけられて海風にはためいており、その光景は一種異様でもありました。

 科学よりも、スビリチュアルとかいうヘンな言い回しで誤魔化されている霊感商法もしくは迷信を望むような・・・ホンモノそのままよりも、自分のイメージに合った安心できるものの方を・・・お勉強よりも、面白可笑しくなきゃ・面白可笑しけりゃそれでい〜の!、とでも・・・。観覧客がそんな娑婆の申し子として訪れているのであれば、必然的にそれに合わせることも必要だとも諭されそう。
 そのような諭しに対しては、時代の趨勢としてある程度の“演出”は仕方ないと受け入れざるを得ませんか・・・。しかし、その演出に騙されない目。大事なのはコレでしょうか、例えアミューズメント方向に大きく堕してしまっている文教施設を見る場合においては・・・。

 そうですそうですそー言えば、“構造改革”とか“新自由主義”とやらはこんな所にも影響しているのカナ、その手の施設への補助金つまり税金の投入は細っているのが昨今のトレンド。存続したけりゃ、自前で儲けを出さなきゃイカン、なりふり構ってなんかいられませ〜ん、とも反論されそう。
 これに対しては、その、きょうび特殊法人の諸問題に鑑みまして、水族館を含めてその他色々を運営している財団法人の、理事長や理事の前歴と就任経緯・理由、それにそれらの方々の仕事内容に出勤状況と対応する報酬そして退職金まで公開して頂いた上ででないと、アミューズメント施設化そして金儲け主義への傾倒は、正当化も出来なければ説明し切ることも出来ないでしょう。

 いずれにしましても、水族館は文教施設であれかし!。ホンモノの色を正しく学ぶためにも!。また、新自由主義一辺倒にして弱肉強食のみ是とされるような資本主義社会における、これでもかこれでもかと皆の財布からなけなしの財を(しばしば、本人の自覚無い内に)掠め取り搾り取ろうとするワナを正しく見抜けるようになるためにも!。さらには、このような能力をちゃんと持つ正しい「自由個人」に、我々皆がそっくり成られちゃ困るようなお歴々にキッチリ対抗するためにも!。



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2008年05月23日
 
ファスト・フード


 一般的に、ファースト・フードとカタカナ書きされたりしますが、最近はマスコミを中心に“ファスト”と表記されることが一般的になってるようです。1st、のファーストと違わせたいみたいですが、前後の脈絡からそんなの混同するヤツぁ居ないと思うんですがねぇ・・・。こんなトコにつまらないこだわり見せるくらいなら、もっと主義主張を真っ直ぐに示して欲しいもんですがね・・・。おっとっと、キーボードが滑った・・・。

 英語を借りているこの語、単語だけ拾えば「速い食べ物」ということになります。短時間で作れる、あるいは、短時間で食べられる、そんな手軽な食品・食事の総称ですね。
 しかしながら、これが単に「速い」では、いろいろな考え方も出来ます。収穫した時点から食べるまでか「速い」のか、調理するのが「速い」のか、食べる時間が「速いのか、などなど。
 でも、この「ファスト・フード」と言う場合は、すでにそんなことど〜でもよくなっています。端的に言えば、合衆国資本が創り出したシステム上にあり、チェーン店やフランチャイズ方式によってハデに売られていて、安価で手軽に食べられる、高カロリーでえてして栄養バランスが非常に悪い、そんな食品・食事だ、地域性が希薄でコスト安に大量生産される《工業製品》みたいになっているシロモノだ、ってことです。全てとは言えませんものの、かなりの部分において、「ジャンク(クズ・ゴミ)・フード」と重なることから、死に至るのが「速い」食べ物という定義もあるんだそうな・・・笑・・・って、笑ってらんないんスけど・・・。

 では、「スロー・フード」であります。皆様におかれましても、耳にしたことぐらいあるでしょ、この言葉?。
 Fastに対してSlow、つまり速いに対して遅い。ですがこの字面を単純に受け止めると、実は大きな間違いを犯すことになります。
 スロー・フードって、調理に時間をかけた食品・食事だと思っている方、居ませんか?・・・と、シマの妻がそうでした!、こんな身近に勘違いしてたヒトいたよ・・・。違います。ゆったりとした気分で、コミュニケーション取りながら時間をかけてゆっくりと食事を取ることだと思っていませんか?・・・そんな短絡思考じゃコマリマス。アメリカ資本の大チェーンに対抗する運動だ、と思っている方、居ませんか?・・・そういう捉え方も幅をきかせていますが、基本原理からの飛躍も甚だしいですな。

 おさらいしておきましょう。スロー・フードとは、その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動であり、そして、その食品自体を指す言葉であります。食の大国、イタリアで始まりました。
 『人は喜ぶことには権利を持っている』というコンセプトを発表し、また、同年パリで開かれた国際スローフード協会設立大会でのスローフード宣言を経て、国際運動となったそうです。
 この運動における具体的指針は、『守る 教える 支える』に立脚しています。それ即ち、『消えゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品・酒類を守る』『子供たちを含め、消費者に対して食と味の教育を進める』『質のよい素材を生産・提供する小規模生産者を、産物を購入することで助ける』というこです。
 これは、近年の意味における『地産地消』にもつながり(1980年代の立ち上がり時期におけるこの言葉は、現代のそれとはかなり異なるニュアンスと全く違った目的とを持っていましたケド)、現代の意味における『食育』にも通じ(食育基本法としてお上から法律として押しつけられなくともジョーシキの筈なんですが、この言葉も、明治期に初めて出てきたときにはニュアンスが異なっていましたネ)、地方地域の独自性と個性とを尊重し、はたまた昨今の食に対する不安不信とも絡み合って、まぁ全体としては良い方向に我らを導いてくれると考えられます。

 繰り返しますよ。
 輸入野菜や調理済み品をブッこんで、なんとかの素みたいなもので味付けをし、2時間コトコト煮込んだからといってそれはスロー・フードではありません。
 ハンバーガーだから牛丼だからといって、パンでハンバーグその他を挟んだり牛肉とタマネギとを醤油味で煮て御飯にブッかけたりというスタイルそのものを否定するのは、スロー・フードではありません。
 この現代日本では、多少の手間を祓うためにオカシくなった食材・食品を使わないだけで、そして安く売るために見た目はそのままでも本来の姿在り方からかけ離れてしまった調味料・食材・食品を使わないだけで、そしてあとはフツーにしていれば、かなり立派なスロー・フードになりうるんではないでしょうか。
 そこに要るのは、正しい知識と判断、そして真っ当な価値判断。「食費は削っても携帯電話代は削れない」なーんてぬかすその正反対を・・・。「腹さえふくれりゃいい」というバカ単純の正反対を・・・。結果は、必ず自分と、そして次の世代つまり子供らに返ってきますよね、福音と出るか、首を絞めると出るか、はてさて・・・。

 そんなこんなでの、スロー・フード談義なんですが・・・。
 ファストかスローかという前にですよ、何でもかんでも、足下を見ないままに、速い遅いみたいな単純単細胞な二項対立でだけ眺め考えて判断するのは、やはりマズいようで。トンでもない国民生活を数年の内に呼んでしまった「郵政民営イエスかノーか」一点に巧妙にもすり替えられてしまった選挙という例を引くまでもなく、白黒丁半カンタン単純に割ろうとする考えは短慮に過ぎますし、結果として危険と損と荒廃とを招くのです。

 我々は、こういう点でも、いや、どういう点でも、「スロー」である方が良いのです。熟慮するために遅い、って意味と、「スロー・フード」の概念としての「スロー」を両方含み、もしかしてその二点を超えた領域においてでも、です。
 でないと、喜ぶ権利さえも、いつの間にか巻きあげられてしまいかねませんから。



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2008年05月09日
 これはもう5年ほど前のことになるのですが、成政酒造が借りている倉庫の大掃除をしたところ、箱に入った一升瓶二本が発見されました。勿論、未開封で中身入りです。
 この倉庫、真夏には室温40度になってもおかしくないような作りをしています。そんなところの奥底にほったらかしになっていたその酒・・・成政ではありませんでしたが・・・の製造年月を見てみましたところ、既に製造年月より8年を経過しておりました。
 瓶の外から見るだに色が強くなっており、そして瓶の底には藻のように澱が沈殿しています。シロートさんがみたら肝をつぶすような代物でした。

 シマを含めて成政の社員は、そんなことで肝をつぶしたりは致しません。社に持ち帰り、当然のように開封してみました。なぜならば、酒の質は大きく変化しているに違いないものの、それが必ずしも劣化と決めつけるべきでないことを知っているからです。色が付いてきても問題が無いことを知っており、そして、澱なんぞは糖分やタンパク質・アミノ酸が複雑に絡み合って分子量を大きくし析出してきたものに過ぎない、つまりは酒の成分が単に目に見えるようになったものだということを知っているからです。端的に言えば、見てくれがどうあれ製造年月から長期間経過していたものであれ、飲めるものであることを知ってるからです。

 注いでみますと、色は飴色と言いますか、薄口醤油のよような色。イエイエ驚くことはありゃしません、紹興酒は常にそんな色してるじゃあないですか。鼻を近づけますと、強烈な老ね香と言いますか熟成香、これはアタリマエか。そして口に含む・・・その風味、一番分かり易く言えば紹興酒のようでもあり、仁丹のようでもあり。日本酒というものから完全に転じて、全く別の醸造酒に変容しておりました。
 温度環境は激烈であったものの、日本酒の大敵である光を全く喰らっていなかったのも幸いしましたか。逆に言えば、そんな過酷な温度環境に長期間おかれても、未だに強靱な酒としての筋を通している、この事実に感動を覚えたものです。

 世には、様々な長期熟成酒と呼ばれる酒があります。本来「古酒」という言葉は、ある冬に醸造した酒つまり新酒が、醸造年度を跨ぐことになる7月1日以降に区別して呼ばれる呼ばれ方ですが、最近は何年も貯蔵して色や熟成香が強くなってきて初めて古酒と表示されていることが多いです。時に、古々酒とか、大古酒とも呼ばれていますね。
 富山県内の他の蔵元からも発売されていますし、岐阜県の某醸造元からは随分前からそんな茶色い酒が小さくカワイイ瓶に入れられて売り出されております。

 繰り返しますが、酒の製造年月は、瓶詰めされた時点をさすだけのこと。十年前に醸造されて十年間タンクでずっと貯蔵されていた長期熟成酒も、今月にタンクから引っ張り出してきて瓶詰加工すればその製造年月は「2008年5月」になります。日本酒の製造年月については、何ヶ月程度の差なぞ全く気にする必要なんてありませんよ、皆さん。
 シマ個人としては、このような長期熟成酒は、好みの範疇から外れます。個人的な好みとしては、好きではありません。しかしあくまで好みの問題で、その希有な変容を大喜びできき酒した社員もおりましたし、そんな酒こそ料理酒にうってつけであることはよくわかるのでした。

 そこで発見された二本の内の一本は、つい最近まで蔵にそのままありました。つまり、開封後も何年もそのまま居続けたわけです。
 その間、少しずつ減っていきましたよ。蔵見学にいらした方などに、勿論お断りをした上で、サンプルとして舐めて貰ったりしていたのです。
 味も香りも別物ですから、お客様の反応は様々ですが、出るのは賛否両論。いよいよもって酒というモノに対する評価は、個人の好み趣向嗜好に左右されるものである、と思い知ったものです。
 「公民館の台所下から出してみて年月みたら半年前のやつやって、そんなん古っして飲めんと思とった・・・」「酒、古っしなったら、酢になる思とった・・・」こんな誤解を修正されていた方も何人もいました。半年程度なんて、酒の熟成期間に比べれば短いもんですよ。それに、酢になんかなりません、酢酸菌でも植え付けて酢酸発酵させなきゃ!。

 皆様におかれましても、蔵の奥底や台所の床下収納などから、五年前十年前の酒が出てきても、どうかそのままストレートに捨て流してしまわないで下さい。光さえ喰らっていなければ、もしかしたら自前で高価な古酒を育てたことになるやもしらんのです。
 もしくは、いつもよりちょっと高めのお酒を買って、冷蔵庫の野菜室の底にでも寝かせて、一年二年と忘れてみて下さい。その期間の後には、麗しい古酒となって皆様を迎えてくれることでしょう・・・製造年月から何年たっていようとも!。
 こういう楽しみ方もアリなんです。東京には、こんなお店も・・・『酒茶論』

 尚、「温古知新」じゃなくて「温故知新」だろ!、というご批判は甘んじて受け入れます。
 その理由は、弊社もお世話になっている会社『秋田今野商店』さんに掛かる額の書にして、同社が毎年発刊し無料で配布されている論文誌のタイトルが「温古知新」であるからに他なりません。
 何事でも、常識にとらわれて、早トチリなさいますな・・・。



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agitato 〜激しく |  コメント(1)|  


2008年04月25日
 その昔、高校の古典の時間に出てきた物語。陣中に魚の干物を売りに来ている女がいて、その干物が旨いもんだからけっこう繁盛していた。ある時山中で、兵たちがその女を見かけ、また旨い干物を頼むぞと声をかけようとしたらそそくさと逃げていく。これは怪しいと捕えてみたら、女が落とした籠からヘビがうじゃうじゃと出てきて、魚の干物とは真っ赤な嘘でそれはヘビの干物だった、そんなのを兵たちは食べていた、というオチ。出典は忘れてしまいました。

 成政で働く若いのが高校の修学旅行で中国に行った時の話。
 その先の食事で、なにやらクルリンとカールした揚げ物があり、皆が旨いわイケるわと食べている、しかしそれがなにかと先生がなかなか答えてくれない、と。
 半分ほどなくなったところで、「ヘビだ」と言われてみんなビックリ。本人は、元々未知の食べ物には手を出さない性質のため怪しんで食べずにいて、その故に「セーフ」だったそうです。
 中国では、一般的なものかどうかは知りませんが、ヘビも食べますものね。毒蛇は頭を落として、スープにもするとか。妊婦が食べると体が温まってよいとかいう話もどこかできいたことがありますが、これはうろ覚え。

 さて、現代ニッポンに戻りましょうか。

 シマは、アナゴが大好きです。大学入学とほぼ同時にアルバイトを始めた東京四谷の鮨屋でその味を教えてもらいました。
 その店では、アナゴは生で仕入れて自店で割き、煮て味付けをしていました。余談ですが玉子焼きも自店でちゃんと焼いていて河岸で買ってくることをしていませんでした。店の味と言うか腕を見るのに、玉子とアナゴを取れというのは、これが理由なのであります。
 この理由で、この現在でも常日頃から、「アナゴが食べたい食べたい」と思っていて、地元のスーパーでもアナゴ蒲焼パックを売っているのを見、ついついですが、手には取ります。年に一度くらい、血迷って、買ってしまいますが・・・。
 裏返すと、原材料に「いらこあなご」とあって・・・いらこあなご、ってなんだ?。どーも、四谷の鮨屋で食べていたアナゴ、つまりマアナゴとは違うらしいんです。だって、四谷でのあの味とはホント遠い、遠すぎなんですもの、それらパックは・・・。
 調べてみますと、アナゴというのは日本近海だけでも随分種類がいるらしい。食用には供されてもそのままでは美味しくないので魚肉練り製品用になるやつとか、姿形が綺麗でその生態が面白いから観賞魚になってるやつとか。
 その過程で引っかかってきたのが、マルアナゴ、というやつのお話でした。南米ペルーあたりから輸入されてくるそうで、実はこいつ、ウミヘビだ、というではないですか!。事実、現地では全く食用にされていないそうです。
 爬虫網有鱗目ヘビ亜目ウミヘビ科に分類されるウミヘビとは違い、マルアナゴと和名が付けられたこいつは、あくまで魚類で、硬骨魚網ウナギ目ウミヘビ科に分類されるんだそうな。よって、沖縄で食されるイラブーとは違って、ちゃんと魚は魚〜。なんでも、初めて商社によって日本に持ち込まれた際に、魚の命名の大家とかいうセンセが「マルアナゴ」とつけたらしいんです。仲間には、こんな連中がいます。なかなかみんな、エキゾチックなカワイイやつらですなぁ。

 今から20年ほど前の四谷の鮨屋。女将が、「最近はアナゴも高くなっちまったねぇ〜」とこぼしていました。最近では、産地・季節や大きさによって変動が有るようですが、卸でキロ何千円と、安くはありませんね。それに、資源も減ってきているのかもしれません。
 なのに・・・回転寿司へ行くと、大きなのが乗っかったアナゴ、2貫一皿100円とか200円とかそんなの。うーん・・・。

 中国でも、同級生言うにはそのヘビは美味しかったそうです。また、古典の物語においても、その“干物”は美味しくて評判だったそうな。回転寿司のアナゴも、皆さん美味しく食べていらっしゃいますネ、それがマルアナゴか何アナゴか知りませんけど。

口に入れて、美味しければよし。
終わりよければすべてよし。

ま、それもまたよし、ですか。

このシマは、やはりですね、そういう安直な諦念とは、常に距離を取っておきたいと思いますが。



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scherzando 〜おどけて |  コメント(1)|  


2008年04月11日
 製造年月、賞味期限、そして消費期限。昨今の偽装問題や食の安全に関するお話で、必ず出てはくるものの、単純ではない問題です。

 さても、逮捕された偽装オヤジ(例の、肉屋ですヨ)が、「消費者なんて、消費期限と賞味期限の違いさえ判っていないんだから」とのたまいました。「オメーが言うなよ」と怒る前に、実はそのオヤジの言うとおりなんじゃないかと疑ってみましょう。

 
では、おさらい。


 消費期限とはなにか。
 定められた方法により保存した場合、腐敗・変敗その他の品質の劣化に伴い安全性を欠くおそれがないと認められる期限を示す年月日のことで、製造日を含めて概ね5日以内で品質が急速に劣化する食品に付けられます。例を挙げれば、弁当、サンドイッチ、惣菜、生菓子類、食肉、生麺類、生カキ等で、必ず期限内に消費する必要があります。でないと、直接的に健康被害さえ出かねないということですね。

 では、賞味期限。
 定められた方法により保存した場合、期待される全ての品質の保持が十分に可能であると認められる期限を示す年月日。ただし、当該期限を超えた場合でも、これらの品質が保持されていることがあるものとされていまして、製造日を含めて概ね5日を超えても品質が比較的劣化しにくい食品に付けられています。つまりは、製造者が意図した風味が保たれる期間のことで、仮にそれを過ぎたら直ちに食べられなくなるとか食用に耐えないくらいに不味くなるとか健康被害が出るとこいうものでは全くありません。

解りましたぁ〜。


 日本の食糧自給率、これが異常な低さであるとよく叫ばれています。知っていますよね?。ところが、ゴミとして廃棄されている食料品全体の金額は、とある計算ではですよ、ななななんと、日本の農業生産の総額に匹敵するんだそうです。金額ベースだけで言うなれば、我々日本人、日本全土で生産された農産物の金額分、捨てている!。で、足りないってんで、輸入しているのです。信じられますか?。
 これは、食糧自給率の低さが異常であること以上に、異常にして非常な事態だと言わざるを得ません。

 仮に賞味期限切れの材料を使って別の食品を作ったりしても、別に問題ナイということになりますな、上記の厚生労働省の見解からすれば。折角まだまだ安全な食品・食材なんかを、消費期限ならいざ知らず、賞味期限が切れたからと、ゴミとして捨てるのが正しいのでしょうか?。腐ったり変質したりしたものを使ったという話では無いと言いますのに。
 これは聞いた話ですが、小学生か中学生が社会見学て大きなスーパーを見学した際、質問の時間があって、売れ残ったものはどうしているのですか、と質問した子がいたそうです。スーパーの店員さんか店長さんかは、売れ残りを再利用したり売ったりするのは店としての信用に関わると意気込んだのでしょう、大型のゴミ箱を開けて中を見せ、「全て廃棄処分しています」と答えたそうです。これは良い勉強になったでしょう、我々日本人がいかに食べ物を無駄にしているかということを、目と耳と鼻とで直接的に感じたに違いないでしょうから!。
 例えば、昨日の売れ残りのコロッケを解体して今日のタネに混ぜ込んでコロッケにするなんてのは、十二分に安全で上手かつ賢いやり方ではないでしょうか?。ゴミは少なく出てきて食べ物は無駄にしなくて済み、十ニ分に安全だ・・・少なくとも、前日夕方に買ったアジフライを次の日の弁当にそのまま再加熱もせずに入れるなんて奥様のやり口よりも余程安全ですよね、菌学的には。魚屋さんは、朝獲れの魚をその日は丸のまま並べて客を待ち、その日売れなかったら翌日内臓を抜いたり切り身にしたり刺身にしたりして客を待ち、それでも売れ残ったら今度は焼き物にしたりと調理をして客を待つものでしょう。これは、商売としては当たり前のことの筈です。

 最近、スーパーでレジ袋が有料化されまして、皆さんエコバッグやカゴを持って買い物なさいます。レジ袋を無駄に消費しないことは、確実にエコなことでしょう。しかしここでもう一つ、食べ物を無駄にしないこと、それも感情的・直感的な思いこみでもって、食べ物を生産・製造している方々に対し、神経質すぎで無用な無駄をプレッシャーでもって強いないこと。これも考えてみないといけないと思うのです。

 我々の社会が、効率とか便利さのために、大量の食べ物を廃棄している。これは、ビョーキとしか思えません。ご家庭において、冷蔵庫の中の食品も調理した食品も、捨てることなく無駄なく使うのが良しとされるならば、社会全体でも同様の方向に行かないとマズいのではないかと日々思う訳なのです。
 その分のツケは、知らず知らずの内に、結局我々消費者が払うことになるんですし・・・。


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esitand 〜ためらい気味に |  コメント(0)|  


2008年03月28日
 例えば映画やテレビでしたら、総天然色からフルカラーになって、この現代ではハイビジョンとかなんとか、無限とも言えそうな色数と階調とで見られるようになってきています。
 しかしその一方で、そういった対象を見ているのと同じ目のクセして、そもそも人間の目というものは眼前にあるものをそのまま見ているのではなくて脳味噌というフィルター兼情報処理装置を介して見ているんですから当然といえば当然なんですが、本来あるべきものをそのまま素直に見ていないことの、なんとマァ多いことでしょうか。

 これが日本酒相手となりますと、急に皆さんの目がモノクロームにして階調貧相になる、失礼ながらホントそうなんですよ。
 え、そんなことナイはずだって?。では、これからこの嶋が、お酒の色についての一席を設けますので、しばしおつきあいのほどをよろしくお願い申し上げます。

 今から20年以上前のことです。商品名など詳しく覚えていませんが、無色透明なコーラが発売されました。そうです、コーラの味コーラの香りなのですが、色が全く無いというものです。
 物珍しさで買われたようですが、すぐに姿を消しました。その後各メーカーが間隔を置いて透明コーラを市場投入したものの、いずれも失敗しています。
 コーラの茶色なんて大方、所詮カラメルで付けられた色に過ぎないと思うんですが、はやりコーラにはコーラの色が無いとダメなんでしょうね。それが証拠に、世界的メーカーC社そしてP社は当然として、インドにあったカンパ・コーラとかサムズ・アップも、ちゃんと茶色い色をしていました。

 想像してみてください、無色透明なビールを。想像してみてください、無色透明なワイン(赤・白・ロゼ問わず)を。想像してみてください、無色透明な紹興酒を。そもそも、醸造酒というものは、必ず色を持つものなのです。
 皆さん、蔵見学をしたり新酒のニュースをテレビ映像で見たりした時に、ただいま搾ってマスという液体は、無色透明でしたか?。山吹色もしくは黄金色とでも形容できる色が付いていませんでしたか?。生まれたその時から、日本酒には色があるのです。

 お酒というものは、ある一定の時を置いて熟成させてやらないと、味わいの深さも奥行きも立体感も出ません。この熟成は、お酒の色濃度の進行も伴います。
 時間がたてば、色が濃くなる。これは、酒造会社の蔵内で熟成させている間も、はたまた製品として瓶詰めされて市場に出てからも、同じことです。ですから、お酒の製造年月を見て、それが見た時点よりかなり前でしたら、その間に色も強くなってきているのは当たり前ですから、この理由において「古い酒は色付いてくる」というのは嘘ではありません。ですがこの場合の古い・新しいは結構ナンセンス。考えても見てくださいよ、醸造し搾って処理後に貯蔵を開始してから、半年・一年、場合によっては二年三年と熟成させてから日本酒は出荷されます。日本酒の製造年月は、それを瓶詰加工した時点に過ぎません。2007年11月と2008年3月の製造年月を持つ上撰成政は、同じ頃(この場合だと、2006年12月から翌月にかけて)に醸造され、ほぼ同日(2007年3月下旬)に熟成貯蔵が開始された原酒から詰められているという例を引けば、前者が「古っしい」酒で後者が「新しい」酒でもなんでもないことがお判りいただけると思います。

 さらには、色は取ることが出来ます。そうです、まるで黄ばんだタオルを漂白して真っ白に戻すことが出来るように、それが天然のいろだろうが新酒の青々おとした山吹色だろうが熟成酒のしっとりとした薄琥珀色だろうが、脱色することは実は簡単。やり方:活性炭をぶち込んでそれに色の成分を吸着させ、しかる後に濾過をして活性炭を色成分と共に分離する・・・
 色だけを吸着してくれればそれで良いのですが、そんな強い選択性はありません。どんな工夫をされた活性炭でも、色や異臭を吸着してくれると同時に、失いたくない味や香りも多かれ少なかれ削ぎ取っていってくれます。
 活性炭使用は悪ではありません、品質を保つための有力かつ効果的な方法です。よって、これを問題視する気は毛頭ありません。女性に「化粧はダメ、すっぴんでいろ」と言うようなものですからね。しかし、厚化粧が下品になるのと同様、活性炭を使いすぎると、本来あるべき風味まですべて失って、味スカスカにして平板平凡な味になってしまうのです。そんな、敢えて誤解を恐れずに言うならば甲類焼酎に近づいたような味を「辛くっちゃ」と仰って喜ばれるのなら、それはそれで個人の好みですからネ、お任せしておきますけど。

 成政のみならず、近年の地酒蔵の製品は、色も風味もタップリと残してあります。風味を犠牲にしてまで、時代遅れの珍妙な常識に迎合して脱色するを潔しとしておりません。
 活性炭を全く使用せずに3年も常温で熟成を進めた原酒を、最低限の濾過をして加水調整した後に瓶詰めした弊社の特別純米酒『魂を醸す』に至っては、瓶の外から見るだにうっすらと曇っていて水のように透明ではなく、また、緑色の瓶の中にあってすら判るくらいに熟成による色が残っていまして薄口醤油と見紛うばかりですが、これが冷やでよし燗してなおよしです。

 良い酒は、無色透明水のよう・・・これはすでに前世紀の常識であり、新世紀の日本酒にはそぐわないものであることを、金沢国税局新酒鑑評会の品質評価方針内容の一文でもって補完し、今回のお話を終えたいと思います。
 『酒は色があって当然との認識を、経営者や製造担当に持ってもらう必要があります。評価もそれに沿ったものでなければ、と考えます』


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agitato 〜激しく |  コメント(0)|  


2008年03月14日
 鎌倉時代の宗教界における巨人にして、永平寺開祖、道元禅師。中学校の社会科でも習う人です。
 道元禅師は、当時中国南部を治めていた宋(南宋)に、仏法を求めて渡りました。命がけの航海の後に着いた彼の地・現在の寧波において、それはしかし上陸の前のこと、鮮烈な体験をしたといいます。
 日本からの船に、味の良い日本産椎茸を求めに来た老僧がやってきました。若き道元は本場の仏法に少しでも早く触れたかったのでしょう、その僧に茶をふるまい、話を聞きたくて引き止めたのです。しかし、その僧は寺で修行僧全員の食事を司る役職にあり、翌日に迫った大切な日のために急ぎ戻らねばならないと応えます。道元はつい、そんな食事の世話なぞ他に出来る僧も多いでしょうから是非とも、と逸ったそうな。老僧、カラカラと笑い、「東の国からやってきた立派なお方、まだ仏法のなんたるかをご存知ないようですな」と述べて去ったとか。
 その後宋国の名だたる山々を巡り、ついには天童山に至って真の師を得、十五世如浄の法を漏らさず継いで印可を授かった後に帰国し、その後の歴史を形作ってゆくのですが、この上陸前の一事は鮮烈な記憶として禅師の胸に残りました。

 只管打座・・・ただひたすらに座る、というのが曹洞宗ですが、これは座っていればそれでオシマイという意味では毛頭ありません。坐禅に限らず、焼香礼拝といった一見形式的な作法も、平常の作務も、それこそ日々の食事も、共に絶対価値の水準に高めるのが道元禅師の禅でありましょう。
 私たちの行住坐臥(ぎょうじゅうざが・・・歩み、留まり、座り、臥せる、つまり日常の行為全て)という普通の作法以外に仏法の極意はない、と随処に説示されております。すべての立ち居振る舞いが坐禅に一致するというお示しは、「つまりは仏法=日常生活、同体ではないながら不二ではない、一挙手一投足一瞬一事万端仏意であるのだ」とシマは服しております。

 「食べる」ことというアタリマエにしてフツーのことを、現代の飽食社会にある我々は、時には邪魔くさく面倒くさく思い、時にはいい加減に考え、しばしば「腹さえ膨れりゃいいだろ」「安くつけはそれでいいや」などと考えがちではありませんか?。

 シマは、酒という嗜好品である飲料を造りつつ、「食べる」という一事について思い巡らさない時はありません。「食べるという一事」・・・アタリマエの一事ながら、それを等閑にするということは即ち、仏意を蔑ろにするがごとく文化的退行なのではないかとつらつら考えちゃうワケです。
 よく言われる、グルメ、というお話ではありません。高いもの珍しいもの=美味しいものとして、食べたり憧れたりするということと、食べるという一事について考え実践していくことは、同じではないのです。

 食べ物全て、元々は命あるものです。そうです、肉や魚だけでなく、野菜もキノコも全て生きていて、生き物は生きているものを口にして命を繋いでいっている。であるならば、米一粒、鰯一本、菜っ葉一枚と言えども「ありがたい」ものに違いありません。
 であるからこそ、そのポテンシャルを最大限に引き出して食べてやりたい。自らのみならず、他にも食べさせてやりたい。それこそが、頂いた命への最大の賛辞であり礼儀であると信じているのです。
 この故に、食材を選ぶとか、切る煮る焼く混ぜるその他諸々の調理も、そして盛付けに至るまで、全ての面において、注意を払って対処してやるようにしているつもりです。別に難しいことばかりではない、例えば菜っぱの味噌汁を作る時、化学調味料入り出汁の素に頼らず、煮干しを水から煮立てて後で取り出すことで出汁を取り、菜っぱは火を入れすぎないようにして青々さと味とを殺さないようにし、味噌を入れてからは煮立てないようにして味噌の香りを生かす、ホント例えばこんな程度のことなんですが・・・。
 そして、自分の考えを他人に押付けるべきではないのを承知の上で、敢えて、「食べる」という行為を考え直してもらうためにも、それに最近導入された「食育」に絡んでも、皆さんにもそうあってもらいたいと思うのであります。
 まぁ、正直難しいことでもないと思うのですが、カンタンでもありません。ましてや、忙しい現代社会ですからねぇ・・・。事実、ウチの山ノ神にすら、なかなか伝わらずにいるんですからナ、苦笑。
 でも、諦めません。あたかも呼吸をするごとく自然に出来るよう、身に付けてしまえば深く考えることナシに体がそう行動してくれるようになるものです。また、食べることに常に注意を払い続けることは、そのやり前、必ず他にも役に立つに決まっていますし。

 冒頭に挙げたエピソードは、道元の著書『典座教訓』(てんぞきょうくん)に出てまいります。「典座」とは、寺での食事を司る責任ある役職で、高僧でないと務められませんが、いかに道元禅がこのへんを重要視しているか知れようというもの。
 この他にも、食事に関する著書として、『赴粥飯法』(ふしゅくはんほう)もありまして、仏意に適った食物摂取のあり方について道元は事細かに残されました。興味のある方は、是非どうぞ。


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esitand 〜ためらい気味に |  コメント(0)|  


2008年02月29日
 誰でも、失敗することはあります。

 一生懸命やってたにもかかわらず、注意してやっていたにもかかわらず、上手くいかないことって、ままあるものです。

 それはそれでアタリマエのことで、その失敗を反省し教訓にして、手直し改良の糧として呑み、そして次に生かしていく。これが、「進歩」ってもんです。

 学校で試験がある。実力テストでも中間テストでもなんでも構いません、それで、例えば85点取れたとしましょう。ここで、「100点以外は0点と一緒、完璧以外は不完全だから同じ」という非常に厳しい言い回しがあることを一応念頭に置いておく事にします。
 85点は、悪い点数じゃないかもしれない。前回70点だったのが今回85点、15点のアップだった人もいるでしょう。一方、前回はもっと高得点が取れていた人もいるかも知れない。そんな人にしてみれば85点はカンペキから遠いのみならず大大大の大失敗ということになりましょうか。

 ここで大事なのは、100点と85点の間の15点だということ、これって案外と忘れられがちです。
 「85点取れた、ヤッター」もしくは「85点に落ちた、あ〜あ・・・」と、答案に丸バツ点数付けられてセンセから返された時に一喜一憂し、それが一喜にしろ一憂の方にしろそれでオシマイであってはいけない、ということです。
 取れた85点は、油断さえしなければ次回もそのまた次も解ける問題から取れる点数の筈。勉強すべきは15点の方で、次にその問題その点数分が出たときには絶対に取りこぼさないようにしなくてはいけません。取れた85点よりも、取れなかった15点が重要だ、というのはこの意味においてです。

 そうです、生徒学生諸君、テストが終わったら、取れなかった分間違えた分はその晩の内に解いておくこと!。こうして反省をして、失敗を繰り返さないように穴を埋めていく。これが勉強これが進歩であります。来年再来年そのまたさらに先、本番の試験はこの時期必ず巡ってきますからね。

 対して、その15点分をそのままにしておくことは愚かしいことですが、さらにダメなのは、15点取れなかった原因を他のせいにすることでしょう。「自分の勉強したところが出なかったから」「問題が意地悪だ」「その日は風邪気味だったんだ」「朝寝坊した」とかなんとか、自分のせいに考えるよりも他に理由を探した方が気分がラクなのはその通りなのですが、そのラクなのに逃げては進歩もなにもないばかりか、後退・退化にすらなってしまいます。

 それにしても。
 メタミドホス餃子を出しちゃったカイシャは、自分らが最大の被害者だ、と言い放ちました。また別の話で、有毒成分が検出されたカツが出たのは、それは日系の関連会社が仕入れをしたその仕入れ検査体制に不備があったからで、つまりは日本の側の責任だとの発表が公にありました。禁止農薬の蔓延や過剰散布による残留そのものについては、無責任でいいらしいネ。
 そこのお上は、公式発表で、自国での混入の可能性は無いと断言、日本は食品の安全に敏感すぎるんじゃないかとの疑問まで呈してきてくれました。確かに我々日本人ってば、いつもは鈍感なくらいに大して考えもせず「なんとなく、オッケー」と勝手に信じ込んでいて、なにかコトがあったら過剰反応して意味無く過敏になったりしますね、素直に反省しなきゃナ。
 しかし、恐ろしいことになったものです。日本の食卓が、いつのまにかこんなのの上に乗っかるようになっている・・・。
 メタミドホス餃子で唯一重症にまで陥っていた女の子が、無事退院したそうです。心から「よかったね」と思います。


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con melancolia 〜憂鬱に |  コメント(0)|  


2008年02月15日
 以前、『杜氏という仕事』著者でいらっしゃる藤田千恵子氏が麹の取材で蔵に見えられたときに、同行のカメラマンと共に述べられた意見が、「そもそも賞味期限なんて定めるのがおかしい」というものでした。
 これはなにも賞味期限という情報がイケナイという意味で仰ったのでは毛頭ありません。何しろ我々は日々食物を口にしないと生きていけないワケですから、それならば「食物」というものにもっと真摯に真面目に向かうべきで、我々自身が自分の能力として「それが食べられるか否か」を判断する感覚を涵養すべきではないか、賞味期限なる数字や他人様にのみ頼ったり任せたりするのでは、生物として我々人間の衰退ではないのか、という檄なのであります。手短に言えば、そんなの本来自分で判断すべき問題でしょ、人任せ数字任せ科学任せにしていてはいけないんじゃないのかしら、というご意見だったのです。

 平成の御代も既に20年、世界経済からご近所世間に至るまでのこの娑婆全体が、より複雑かつより希薄、より神経質かつよりいい加減、より情報過多かつより秘密主義的になってきていますね。我々個人の一分一秒において必要とされるのは、「リスク判断」なのではありますまいか。コトの大小深浅は別として、常にリスクを考えて物事を判断することを常識とすべし、と言っているのです。

 例えば。
 軽四よりも普通乗用車の方が、乗り心地良く走りも快適で、事故の際にもより安全であることは言うを待ちません。しかし、燃費・価格・維持費・駐車スペース・利用目的などなどを勘案して、軽四を選ぶ人は沢山います。様々なファクターを天秤に掛けて、軽四にするか普通車にするかを、判断し選択していることになります。軽四を買って乗っている人は、燃費が良くて維持費も安く、小回りが利いて扱いやすい、などということと同時に、万が一の事故の場合は安全性に劣るということも「納得」し「理解」しているハズですね。四六時中それを気に掛けているかどうかは別としても・・・。
 クルマを買うというのは、大きな出費ですから、色々悩んで迷ってと考えが巡るのは当然です。ではしかし、日常の些細な出費なら、そんなことまで考えなくてもいいのか?。上記しましたように、もうそうではないハズ。特に、毎日毎食口にするものであるならば、尚更のことです。

 価格維持費共に安くて燃費も良くて小回りが利く軽四の利点を謳歌?して乗っている人が、では事故にあって大ケガをしたとしましょう。「あーあ、普通車だったら、もつと軽いケガで済んでいたかもなぁ」ぐらいは思うでしょうが、「何でもっと頑丈じゃないんだよ!、頑丈だったらケガしなかったかもしれないのに!」とか、「後方の衝突安全性がもっとあってしかるべきだろ、それがちゃんとしていたらここまでのケガにならなかったのに!」とか文句垂れるとしたならば、さて皆さん、どう思われます?。「軽四はそういうもんでしょ、知らない方がオカシイよ」「ハァ? 自業自得でしょ、何言ってんの!」「そんなこと言うくらいなら最初から普通車にしときゃ良かったんだよ!」あたりが返ってくるでしょうね。

 食べ物だって、同様なのではありますまいか?。なにも昨今大騒ぎになっている中国産ギョーザのことを殊更に言いたいのではありませんが、当然念頭に置くことをお許し下さい。
 便利で手軽で、安い冷凍食品がある。特にこの「安い」が曲者で、安いことには必ず理由があるのです。大体、あんな遠くで作られて行程中ずっと冷凍されて来て、それでさえ「安い」なんて、不自然ではありませんかね。さておき、その理由・・・ここにリスクという語を当てはめても良いでしょう。
 え、大手がキレイにしつらえた製品だから、リスクは無いはずだ、と?。甘いと思います。事実、甘かったんですよね。メタミドホス餃子は極端な例と思いたいところですが、水・食料のほとんどを中国本土からの輸入に頼っている香港では、今から20年以上前に既に輸入野菜による食中毒が頻発し、『毒菜』という語まで生まれているのです。 参考:『食卓に毒菜がやってきた』中国産食品の安全性
 当然、中国当局も日本の企業も、食品の安全のために様々な対策を講じてきましたし、この今も必死に尽力されている方や機関も多いことでしょう。しかし、最終消費地から遠ければ遠いほど、監視と管理が難しくなるのは避けられないでしょう。特に、価格圧力が常に働いている状況下では、低価格化のために安全性が犠牲にされる方向にズレが発生する危険が常に存在すると考えなくてはなりますまい。
 勿論、中国産の食品だけに危険性が存在するというのではありません。日本においても、果物などに禁止農薬を使用したことが相次いで表沙汰になる事件があって、この南砺市も揺れたのではなかったですかな?。そうでなくとも、価格圧力に常に晒されている結果、コスト削減のために挽肉や生菓子その他様々な食品に偽装が行われたのではなかったですかな?。
 そもそも、繰り返しになりますが、遠くからエネルギー使ってやってくる食品の方が安いなんてなのは、本来的であり得るのですかね?。切磋琢磨によってより高みを目指すのが「競争」の本来の意味なのに、いつの間にかコスト削減や価格低減に血道を上げるようになった、その結果なにがどうなってきてますか?。そこらへんには必ず落とし穴が・・・?。

 食の安全にも、コストがかかるのです。ここに、リスク判断が必要になってきます。自分の判断で、自分の行動に、どこで線を引くか。ココです。ここなんです。

お任せします。


 ご自分で、懐具合・価値観ともよくよくご相談の上、判断して下さい。

判断を停止してはいけません。


 「そんなこといちいち気にしてなんかいられないよ」と仰る向きには、「それ相応のリスクを自己責任で負ってネ」と微笑んで差し上げましょう。危険を回避する責任を放棄していながら自らの正当性をのみ声高に発するのは、自動車事故のときにも通りませんけど、食の安全という場においても通りますまい。

 よく叩かれたものです。日本人は平和ボケなんだ、と。水と安全はタダで手に入るものだと思っている、と。もう、こんな娑婆ではありません。ごくごくアタリマエに、リスクを考えて物事を判断する。一昔まえなら考えられなかったような危険が飛び出てくる可能性のある、それがこの現代。結局我が身我が家族我が地域を守ってくれるのは、法律でも制度でもなく、我々自身がリスク判断を忘れないことなのではないでしょうか?。

 折角の情報化社会です。垂れ流しに入ってくる情報に辟易する・踊らされる、というのでは情けないし本末転倒。自ら、知る。知ろうとする。昨今の娑婆世界では、知らないことは損、知ろうとしないことは痴、知らず知ろうとしないのに他にばかり完璧と責任を問おうとするのは貧にして罪・・・如何なものでしょうか?。

 今回、例として軽四をまず挙げ、食について言及しましたが、これはそれだけに留まりません。娑婆の全ての事柄全ての場面に当てはまることです。
 最後に軽四の名誉のために申し添えておきますが、このシマも、乗っているのはと言いますと、冬軽四に他シーズンは原付です。


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2008年02月01日
 日々の晩酌を彩る肴を買いに、そうでなくとも食材の買出しに、シマはよくスーパーに顔を出します。

 様々な肴を懐深く幅広く受け入れることが出来る日本酒ですが、それでもやはり魚が酒肴の王道でありましょう。本格焼酎の蔵元すら、魚と合わせるには日本酒に勝てないと兜を脱いでいるくらいなのですから。

 ある日のこと。スーパーの魚屋・魚コーナーの冷蔵ケースをつらつらと眺めていましたら、天神講の頃だったこともあって、鯛が目に付きました。活きのいいのもあれば、干物に加工されたものも多々。
 その干物がパックされた上に貼られた表示のシールをよく見てみて驚きました。産地が、「アンゴラ産」と表示されていたからです。ちなみにもう一枚シールが貼ってあり、それには「生地加工」とありました。干物に加工されたのは富山県内ってことになります。
 そうして見てみれば、確かに鯛なんですけど、どこか面立ちが違うような・・・。目が、日本近海の鯛よりもギョロリ大き目のような気がします。鯛にも、向こう独特の顔というものがあるようですな。

 世界一魚を食べる国民、日本人。全世界七つの海から魚を輸入していますから、それがアンゴラから来ていたからといって別段驚くほどのことは無いのかもしれません。
 しかし、それでも、です。アンゴラ。こう聞いて、それがどこにあるか、分かりますか?。スーパーでそのパックを眺める人100人中、居たとして1人でしょう。

 サッカー好きなら知ってますよね、並み居る強豪国を撃破して2006年ワールドカップに初出場を果たした国として。ホラ、スーパーで売っている魚の干物と、サッカーとが繋がりましたネ。

 貴女が婚約指輪として貰ったダイヤモンド指輪。そのダイヤモンド、もしかしたらアンゴラ産かもしれません。
 このダイヤモンドという資源にまつわる利権と、海岸部に大量に埋蔵されている石油利権があり、ポルトガルから独立こそしたものの、冷戦時代には社会主義一党独裁政府側・反政府側にそれぞれソ連とアメリカ合衆国とが付いて、いわゆる代理戦争となりまして、内戦は泥沼化しておりました。この内戦が終結を見たのは、今世紀に入ってからのことなのですよ。
 内戦の負の遺産として、一説には1000万個ともいわれる多量の地雷が激戦地後に残されており、未だに毎日毎時間同国内のどこかで地雷による被害が出ている状況です。
 このような非人道的な兵器である対人地雷、全面禁止とする国際条約が発効しております(通称、オタワ条約)。
 勿論、日本はその締約国の中の一国で、滋賀県にある自衛隊の施設で最後の在庫が爆砕処理されたニュース映像も華々しく流れました。
 しかし、アメリカ合衆国・ロシア・中国は締約国となっておらず、この今も世界の国々に『悪魔の兵器』対人地雷を大量に輸出しています。対人地雷廃絶に尽力したダイアナ元皇太子妃も、草葉の陰でさぞかしお嘆きのことでありましょう・・・。

 「アンゴラ」と表示を見て、「ふーん」だけで終わってしまう人も多いかと。でも、ちょっとその先を考えてみれば、前記した程度の事ぐらいスススッと出てくるというものですし、仮に出てこなくても、ちょっとの手間と時間で調べることも可能です。
 なにも今回のアンゴラの話だけではなく、常に疑問と探究心とを持ち続けたほうが、結局は面白く悦しい日々時間が持てるというものですよ。
 特に、受験生を含めて、児童生徒諸君!。それナシでは、この先の人生、どーしよーもないものになっちゃったり、資本主義社会にカモられて銭使わされてオシマイになっちゃうよ。心して、考える態度を芽生えさせ、養い、開花させ、そして日々鈍らせること無く使い続け、鍛え続けるようにあれかし!。


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2008年01月18日
 そもそも、「発酵食品」と知らずに、もしくは「発酵食品」と強く意識しないで皆さん食べているものが非常に多いのですが、その一方で、発酵食品である筈なのに発酵によって味が作られていないというものが非常に多い昨今にも、もっと強く目を向けて貰いたいと思うのです。

 例えば、漬け物。漬けることで、乳酸菌をはじめとした様々な細菌に働かせて、味を出し保存性を高め栄養価の保持さえ期待するというものの筈なんですが、字面の「漬け」だけ唯そのまんまというものが多いんですよね。ここでは「漬け」の代わりに「浸け」の字を当てましょうか。浸(ひた)す、という意です。
 刻んで浸けて揉むだけですぐ食べられる、というフレコミのものが、“漬け物の素”なんだそうです。
 そう言えば、お隣韓国におけるキムチ論争というのもありました。味付浸汁に浸けただけのものはキムチでは無い、ちゃんと時間をかけて発酵させないとダメだろ、という論争でしよね。

 さらに例を挙げると、ここでまた繰り返しちゃいますが、醤油。杉桶で醤油醪に櫂を入れて・・・なんてのは昔話で、醤油の素のようなものを買ってきてそれに様々添加物加えて醤油として瓶詰めし売っているのの、いかに多いことか。ウソだと思うなら、原材料表示をご覧になりなさいな。「本醸造」と書いてなく、原材料も「大豆・小麦・塩」以外もしくは他をタップリ使った醤油ばかりですよ、この北陸では。また、仮に「本醸造」としても、積算温度をかけて短期間で仕上げられてていたりするものも多いのです。

 お酒だって、ありますあります、「合成清酒」ってのが。戦後の物資不足の時代ならいざ知らず、こんなのがこの現代でも生き残り売られているという現状、誠に信じ難いのですが、リサイクルされて成政に戻ってくる一升瓶に時々混じっていますから、この界隈でもやはり多少は流通しているのでしょう。
 「合成清酒」というのは、醪を発酵させて造るのではなく、その一部もしくは全部を、日本酒の成分比率をマネて、アルコール+糖分+酸味料+調味料の混合物で置き換えたものです。
 ホラ、飲み屋さんなんかで、お銚子に入れて出されちゃうと、中身の銘柄はお店任せですよね。この界隈に、そんな酒を涼しい顔して出しているお店の無いことを祈るばかりですが・・・。

 まぁ。昔は「化学調味料」と呼ばれ、今は「うまみ調味料」と呼ばせたがっている(誰が、ですって?・・・そんなもん、その業界がでしょうが)グルタミン酸ナトリウムも、ある種の菌による醗酵によって生産されていることは事実です。しかしながら、最終的には水酸化ナトリウムというアルカリで中和しますから、やはり「化学的」な処理が必要なことは確かで、天然醗酵による味とは区別しておくことにします。尚、水酸化ナトリウムで中和するという手法は、法律でちゃんと認められていますので念のため。
 最近は、例えばラーメン屋さんでも、様々な食品でも、「化学調味料無添加」、俗に「無化調」と短縮されているのを散見します。それはそれで良いのですが、じゃぁ代わりに何が入っているかといいますと、蛋白加水分解物(大豆蛋白を塩酸で分解して、しかる後に水酸化ナトリウムで中和して得るというアミノ酸様のもの)とか別の化学的なモンだったりしまして、むしろ矛盾ですらあるのではいかという場合もあります。
 化学調味料や蛋白加水分解物そしてその他の添加物を、否定するつもりは毛頭ありません。ただ、それらは、天然でもなく本来でもない、便利だけどホンモノとはいえない、手軽だけど自然とはいえない、それを知っておくべきだと思うだけです。知った上で使うのは、それはその人の選択なのですからね。
 ただ、そういうものは、えてして大量にハデに使われがち。天然の味素材そのものの味微妙な味複雑な味が、添加物の大量使用に取って代わられますと、その強い味に慣れてしまって、それが無くては美味しいと感じなくなる、そんな危険を孕んでいます。これでは、あるべき姿からは遠ざかってしまうでしょう。

 識字、という言葉があります。字を知っている・字が書ける、ということになっています。ちなみにそのラインは、自分の名前が書けるか否かというものだ、もしくはものだったと聞いたことがありますが、これがホントだとすればかなりギリギリな基準ですね。
 横文字「リテラシー」を和訳したものが「識字」なんですが、最近ではこのカタカナ日本が様々に利用されるようになっています。例えば、「メディア・リテラシー」とか「金融リテラシー」とか。原義には無かったのの、ある分野の事象を(読む、という行為も含めて取り入れ、理解し、整理し、そしてその上で活用する能力一般、これをリテラシーと称する場面が増えているということです。
 読み書きが出来るだけでは、道具を持っているに過ぎない・・・道具は使いこなしてこそ道具。発酵食品の表示一つ取っても、それが試されているのですよ。読まない、もしくは読んでも理解しようとしない、分からなくても調べようとも聞こうともしない。子供の学習態度がこれでは、フツーの親御さんは心配して叱りも導きもしまょう。しかし、大人の日常がこれでは、叱り導いてくれる人もいなければアタマ堅くなってて言われりゃハラ立つってことになりがちで、いつの間にやら誤魔化されケムに巻かれてしまいます。
 まこと、現代における『識字』の意味は、自分の意志で判断を下すための情報を自らの力で得、識別し、理解して、その上で行動するということだと思うのです。この、新たにして必須である現代常識、目に見えない菌がもたらしてくれる発酵食品からも教えられるというものです。

 地に足しっかりつけて、その上でしっかりと見据えないと、偽装とは申しませんがホンモノとは言い難いシロモノを掴まされてしまう可能性が多い。これが、発酵食品なり漬け物なりで済んでりゃまだマシで、ともすればエビ養殖への投資話やらヘンな電子マネーやら怪しげなヒーリング・サロンやらにも一本線で繋がっています。菌は黙して語りませんが、現代とはそういう娑婆なのであります。


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2008年01月04日
 手元に、6本の真空管があります。いずれも同じ型番RE134を持つ、ドイツ製のもの。製造年代は1930年代から1940年代前半という、今から70年も前のシロモノです。一応、真空管試験機で動作確認済みということになっています。



 この時代は即ち第二次世界大戦前・中であり、出力僅か1W以下というこの小型出力管は、当時のドイツ国民必携のある製品に広く使われておりました。
 その製品の名をドイツ語でVolksempfänger、和訳すれば国民受信機とでもなりましょうか、意訳をすれば『国民ラジオ』となりまして、この方が通ると思います。

 では、『国民ラジオ』とは何か。当時政権を握ったナチスは、国民教化のための宣伝を行うに当たって、ラジオという新メディアの重要性・必要性を強く認識していました。当時の普通のラジオは概ね250帝国マルクもする高嶺の花だったのですが、国策として大衆に安く提供すべく国家プロジェクトとして生み出されたのが『国民ラジオ』だったのです。先の画像をよくよく見てみれば、鷲に鈎十字というナチスのマークが入っているのが分かりますよね・・・。
 1933年8月に発売されたVE-301の価格は、一般ラジオの三分の一以下という76帝国マルクに抑えられ、さらに安価なモデルDKE38に至っては35帝国マルクというものでした。ここにおいてドイツ大衆皆々が、家庭に職場にラジオを備えられるようになったのです。
 安いものにはワケがある、これはいつの時代でも当然。国民ラジオは、その受信能力が地元放送局のものに限られ、廉価モデルに至ってはダイヤルも無くて特定の電波しか受信できないというものでした。
 当時のドイツでは既に外国放送を受信することは違法となっていましたが、こうして普及した『国民ラジオ』から流れるのは、当然のことながらナチス政権に都合の良いことばかり。そうして独裁体制を確立し維持し強化して、膨張政策を取るまでになったナチス支配下のドイツという国の、その後の悲劇的成り行きにつきましては、既に歴史的事実として皆さんもよくご存知の通りです。

 ここで念を押しておきますが、国家社会主義労働者党いわゆるナチ党は、革命やクーデターによって政権を奪取したのではなく、日向に影に暴力こそ使用したものの、選挙で合法的に政権を取りました。つまり、当時のドイツ国民大衆一般による、「民主的」手続きを経て誕生したのです。
 人気取り政策の一つが、ラジオという情報と享楽娯楽とを与えてくれるメディアとなれば、そりゃ人気も上がるというものです。しかし、それを喜んだのもつかの間、『国民ラジオ』は情報統制の前に国民を欺く手段となり、ついには・・・。

 全ては、時を越え場所を越えて、つまりはこの現代の我々住まう日本にも、案外ヤッパリ当てはまるカモなんて。
 それは別に今の国の政策云々の話だけではなく、生活のありとあらゆる場面でその鎌首を擡げてくるのです。

一、それはまずは享楽・便利・効率・自由・華美などを装って、甘言にまみれて現れること。
一、それを享受しているつもりが、いつの間にかそれに乗せられるようになり、それ自体が手械足枷重石になり、ついにはそれに操られるようになること。
一、結局は、一部にとってのみ都合の良いような塩梅に、カネ使わされ、時間を盗られ、型に嵌められてしまい、身動きならなくされてしまうこと。
一、恐ろしいことに、そんな悲惨さを悲惨とも感じない内に、それがフツーかつジョーシキとさえ叫ばれつつ、全ては進行していくこと。


 並ぶRE134を眺めながら、思うのです。いつかこいつらでアンプを作って、歌わせてやろう、と。その歌は、自身が好み選んだ音楽であって、決して政策でも公約でも空手形でもデマゴーグでもプロパガンダでも「売らんかな」商業主義でも儲け話詐欺でもない、ってんでなくてはなりません。
 なんとなれば、ただ今我々は、日本社会がグイッと大回頭してそのすぐ先に置かれていて、その昔RE134が煽動したようなしくじりを繰り返しているヒマなんか絶対に無いハズだからです。

 年頭におきまして、「ただ生きる」のではなくして「良く生きる」べく、思いを新たに・・・。

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con melancolia 〜憂鬱に |  コメント(0)|  


2007年12月28日
 日本酒を含めてお酒というものは全て、菌類の力を借りてアルコール発酵を行い、酒というものの重要成分であるアルコールを得ています。

 醗酵という天与天禄は、なにも我々にアルコールをもたらしてくれるだけではありません。南砺市の名産品の一つである、かぶら寿司・ニシンなどの米糠漬けや麹漬けの旨みは全て醗酵によってもたらされますし、そうでなくとも毎日食べている家庭で漬けられている漬物は当然のこととして、忘れられがちなのが日本の味の根幹を成す味噌と醤油も、醗酵によって味を得ております。納豆は言うまでも無く発酵食品の雄ですし、ホンモノの酢は酢もと醪(酢にするために特別な按配で造られた日本酒様のもの)を酢酸発酵させて造るものです。

 マァ、大変残念なことに近年、大量生産・効率的生産のため、いや、コストを削って安く生産するため、本来の醗酵というプロセスに頼らずに、化学調味料(姑息なことに、「アミノ酸等」と表示されていることもしばしばです)や酸味料・甘味料、大豆のタンパク質を塩酸で加水分解した後にアルカリで中和して造るという、聞いただけでもオドロオドロしい「蛋白加水分解物」なるものが台頭し、醗酵で得られている味・旨みのフリをしつつ実はそういった後付けの添加物による味が主になっている、なんてシロモノが大手を振ってまかり通っています。ウソだと思われる方は、醗酵食品や調味料の原材料表示をご覧ください。
 おっと、この辺は今回の主題から外れますから、ここでヤメにしておきます。


 このシマが成政酒造を見学にいらした方々をご案内するときによく使うフレーズは、日本酒の原材料をわざと問うて「米」「麹」とかの答えを得てから、「では、麹って、何でしょう?」です。
 冒頭に挙げた食品に調味料に、これほど麹の世話になっているにも係わらず、では麹とは何ぞやと問われると、パッと答えることが出来ない方々ばかりです。これでは、「国菌」とも呼ばれている麹菌が泣きますね。と言っても、このシマも、成政酒造に入る前は同様でありましたが・・・。

 麹といいますのは、学名Aspergillus Oryzae(アスペルギルス・オリゼ)と呼ばれるカビの一種を、米を始め麦や豆などの穀類の表面及び内部に生やしたものです。



ではなぜ、こんなカビの力を必要とするのかといいますと、カビそのものが有用なわけではなく、カビが生産する酵素が有用なのです。
 一説には50種オーバーとも言われる種類の酵素を麹は生産します。その主なものに、糖化酵素・液化酵素・蛋白分解酵素・脂肪分解酵素などがあります。
 日本酒ですと、蒸米の澱粉質を液化酵素が溶かしてくれ、糖化酵素が分解してくれて、こうして初めて酵母のエサとなるブドウ糖が出てきて、そのブドウ糖をエサに酵母がアルコールを生産するというしくみを主に、米の蛋白質を麹の蛋白分解酵素が分解して旨みの素となるアミノ酸を生成してくれます。
 また、豆や魚などの蛋白質が蛋白分解酵素によってアミノ酸に分解されることによって、味噌や醤油そして魚の麹漬けのあの妙なる旨みが出てくるというメカニズムでもあります。勿論、麹自体や豆・麦の澱粉質がブドウ糖に分解されもして、味噌や醤油の甘味が出てくるのが本当で、決して糖類を添加するのが本道ではありません。←繰り返しますが、醤油なんかの原材料表示に注目ネ

 そして、麹とタッグを組む酵母菌Sacchromyces cerevisiae(サッカロミセス セレビシュー)の出番。ブドウ糖をエサにアルコールを生成する他、数々の有機酸を生産してそれが日本酒の味・旨みになっていきますし、日本酒の香りの成分も酵母が造ります。




 味噌や醤油においても、酵母菌の働きあってこその味の生成がされます。

 麹菌が生産する様々な酵素、そのバランスを、こちらが思うような按配にしてもらうために、こちらとしては麹菌の生育状況各段階における温度・湿度・酸素供給など外的条件を調整してやります。酵母によるアルコール発酵とて同じことで、温度や糖度などの条件をうまく調整してやることによって、こちら側の意図した味に仕上がるようにしてやる。つまりは、菌が、こちらの意図したように働きやすいように条件を整えてやるのが酒造りにおける造り手の仕事なのであります。
 これは、他の発酵食品とて同じこと。家庭での白菜漬けだって、乳酸菌が上手く働いて良い味を出してくれるように塩加減や温度などを考えてやりますね。

 一方で、菌なんてのは目に見えないものですから忘れがちになりますが、そのへんに有象無象イロイロたくさん居ますんで、その中でこちら側が意図する方向を邪魔するヤツも居るわけです。
 麹菌と枯草菌(つまり、納豆菌のことですよ)は成育条件が似ており、麹を造ろうとしてヘタ打つと枯草菌を繁殖させてしまい、納豆のような麹「ヌルリ麹」「すべり麹」になっちゃうと大失敗。この故に、納豆は酒蔵内ではタブーなのでした。
 また、漬物を美味しくしてくれ、ヨーグルトを造るのは乳酸菌ですが、この乳酸菌が酵母菌の増殖に勝って酵母菌を圧倒・淘汰してしまうとなりますと、これは完全に失敗で、いわゆる「腐造」ということになります。現代でこそ科学の力でもって酒造のメカニズムが判っていますからそうならないように様々な手立てが講じられているのですが、人間の経験と勘のみにまだ頼っていた明治時代には、醗酵か順調に進まないことは至極身近なことであったようです。くわばら、くわばら・・・。
 世間的には有用な菌でも、特定の場所では蛇蝎のこどく嫌われるのであります。こういう不都合な菌の増殖を抑えて、有用な菌のみに働いてもらうように仕向ける。これが、それが家庭での白菜漬であろうが日本酒であろうが、醗酵を進むるための技術なんですね。

 ま、技術も経験も勿論あっての醗酵ですけど、はやり主役の菌類の、人智を超えた働きの神妙さには敬服するばかり。発酵食品が天与天禄であるのもむべなるかな、であります。
 皆さん、折角の、贈り物のようなものですよ。季節感をしっかりと感じさせてくれるものも多いことですし、是非是非、様々な発酵食品を、成政の日本酒も勿論含めまして、この年末年始この冬に、大いに食されてはいかがでしょうか?。

 では皆様、発酵食品と共に、良いお年を・・・


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allegramente 〜快活に楽しく |  コメント(0)|  


2007年12月14日
 この今も苦笑を持って思い出すのは、中古家電がある年の4月1日から売買できなくなるという法律に関するドタバタ劇。そうです、PSE法というヤツで、ホント失笑を誘う体たらくな上に、行政側自らが法律の抜け穴を捻り出すという奇策(信じられん、日本はやっぱり法治国家じゃないようですな)により、音楽機器などのビンテージ品は中古販売が続けられることになり、さらにはリサイクルショップなどでの中古品売買も当面続けられるようになりました。
 成政酒造の私そして営業は、方やオーディオ・ファイル方やミュージシャンという立場から、当然PSE法による中古品の売買規制には大大大の大反対であり、「アンチPSE法のデザインでTシャツを製造し販売してみよう」というビジネス計画?まで持ち上がりましたが、これは余談。

ビンテージ・・・


 本来はワインの当たり年くらいでしか使用されなかった言葉でしたが、製造中止になった昔の良い品の中、ジーンズなどの服飾品や音楽機器、果てはオモチャなど骨董領域の品々にまで、ビンテージものという冠が付くようになってきています。インターネット・オークションででも「ビンテージ」で検索をかけると、それこそ何万という品物が引っかかります。へ〜、こんなんもビンテージと呼ばれて市場にあるんだ〜、と驚いてしまうこともしばしばです。
 オーディオの世界にもちゃーんとあります。戦前から50年代60年代あたりまでに製造された真空管は、市場では「古典球」「ビンテージ・チューブ」と呼ばれていますし、70年代以前の真空管アンプの中には、マッキントッシュ(パソコンではありません)やクォードといった外国製高額を中心として、現在ビンテージ品として流通しているものが多々あります。近年ベストセラーになった新書『下流社会』でも、ロハス(LOHAS : Lifestyles Of Health And Sustainabilityの略で、健康や環境問題に関心の高い人々のライフスタイルとされる)を彩る小物として真空管アンプが入ったくらいで、ビンテージ品にしろ現在製造中のものにしろ、真空管アンプの需要は大変堅調とか。

 では今回、その延長としてのお題、「ビンテージ・ユニット」の一席ということで、しばしお付き合いを頂くことにした次第。

 スピーカーというものがなければ、音が出ません。テレビでもパソコンでも、お知らせ音を出す洗濯機や電子レンジにも、スピーカーが付いています。
 音楽領域では、その音を出すパーツ単体・・・フレームに磁石と振動板が付いているそれ・・・を、箱型の完成品スピーカーとは区別して、「スピーカー・ユニット」と呼びます。そして、1930年代からおおむね1960年代にかけて製造され、世紀も変わったこの現代においても未だマニアの間で需要のあるものを総称し「ビンテージ・ユニット」と呼ぶのです。
 それらの製造スパンは、音楽信号を増幅してスピーカーに送り込む役割をするアンプという機器が真空管式であったのが当たり前の時代とほぼ重なります。つまりは、真空管アンプで鳴らされることを前提にした設計思想をまとっている訳で、トランジスタ式アンプに合わせた設計が当たり前になっている現行のスピーカーしか既に世には無い昨今、真空管アンプの人気が高まり出すのと同時にビンテージ・ユニットもポピュラーになるのは、当然と言えば当然でしょう。
 パイオニアやダイヤトーン(三菱電機)、今は無きコーラルといった国産品にもいくつかありますが、そこは舶来品の大好きな日本人のこと?、ビンテージ・ユニットと呼ばれるもののほとんどは、アメリカもしくはヨーロッパ製。特にアメリカのJBLやALTECの名前は、さほどオーディオに興味が無くともご存知の方が多いのではありまんせんか?。しかし、嶋が近年凝りだしたのは、ドイツを中心としたヨーロッパ製のユニットです。
 旧西ドイツのTELEFUNKEN、SIEMENS、SABA、ISOPHON、LORENZ、GRUNDIGあたりから始まり、旧東ドイツ製のSACHSENWERK、STERN RADIO、FUNKWERK、EPW、EGWときて、勢い余ってフランス製SUPRAVOXオランダ製PHILIPSにチェコスロバキア製TESLAまで。ドイツ・フランス・アメリカのインターネット・オークションで競り落とす他、海外のツテから画像つきメールがオファーとして届きます。
 それらのほとんどは、真空管ラジオ(現代でいえば薄型大型テレビにも比せられるような高級品だったであろう、事実工芸品のような立派な造りのものばかり)に搭載されていたものか、映画館で音響設備に使われていたもの。つまりは、全て中古品です。
 いつの間にか自宅の物置は、半世紀くらい前に製造されたスピーカー・ユニットのお家と化しました。その増殖速度の激しさに、親父も妻も息を飲みました。

 鳴らしてみると、そのメーカーによって、また型番によって、出てくる音がかなり違うんですよ。当然予想されたことではありました、これは大変楽しい。勢い、次が欲しくなって、買って届いて、音を聴いて感心したり驚いたり納得したり感動したり踊り出したり時がたつのを忘れたり時にガッカリしたり。試飲無しに日本酒を買って、封を切って後のストーリーに酷似。全国の銘酒テイスティング同様、大ハマリです。
 なるほど、測定器などにかければ、現代のスピーカーの方が性能が上なのは言うまでもありません。しかし、我々が聴くのは「音楽」であって「音」ではないはず。性能が良いからといってよい音が出るとは限らないんですな〜。CDに入っている音が、ちゃんと『音楽』として再生される。その生々しさ・芳醇さ・軽やかさ・説得力・典雅性・音楽性は、現代のスピーカーではなかなか得難いものなのであります。
 モチロン、敢えて言わせてもらいますけどネ、mp3プレーヤーからの音なんてものは・・・以下略。

 しかしながら。お酒は飲めば無くなりますが、スピーカーは違います。全てのユニットを常時聴けるようにしておくことなんて無理な話。ましてや、娘が生まれ父親になった日には、そんな趣味にばかり走っている訳には(特にスペース的に)いきません。堪能した後、個々の音を記憶にしかと留め、一部を残してあとは売却を開始しました。お陰さまで、買いコスト程度は回収できることがほとんど、さすがは舶来品。まるで「売り立て」ですが、それは今も続いています。←今もまだチマチマと買っているせいもあるんだけど、汗。

 いやはや、それにしても。

 設計・製造から半世紀以上を過ぎて尚ご当地で、そして地球の裏側においてまで珍重される製品。当時の技術者らはそこまで思いもよらなかったでありましょうが、今さぞかし喜びもし、驚いてもいることでありましょう。草葉の陰で嬉し泣きしている方々も多いと思います。
 なんでもモノを造る以上は、かくのごとくの品質と性格とを併せ持たせたいものです。仮に、半世紀先には絶対に存在しないモノを造るに当たっても・・・。


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2007年11月23日
 当コラムへのデビューにおいて、個人の趣味のことなんか書きなぐってしまいましたので、今回は真面目に、お酒の話といきましょうか。

 暑いときには冷たい飲み物、寒いときには温かい飲み物。これは、世間一般アッタリマエの嗜好でありましょう。無碍に否定はいたしません。
 事実、気温が下がってくると日本酒の売れ行きが良くなる傾向は、近年低迷状態にあるとは申せ、日本酒消費の固定パターンとして通っております。

 さぁ、燗酒です。お燗、しましょ。

 とにかく。
 お燗をするのは安酒だ、熱くして誤魔化して飲むやり前だ、とかなんとかいう古臭いアタマから、もう二十一世紀に入って何年にもなるんですからネ、そろそろ脱却脱皮リフレッシュしていいんじゃないかしら、と。

 モチロン、どんなお酒でも燗をすればよいってもんじゃありません。燗に向かないお酒というものがありまして、例えば果実様の芳香高いタイプは暖めると香りがおかしくなりがちですし、若い生酒も基本的には向きません。
 成政のラインナップに於いても、向く・向かないがあります。ご希望があれば別の回に詳しく述べても構いませんし、成政酒造にメールを頂ければ個人的にもお答えできますが、ご近所の酒屋さんに相談してもらうというのもよろしいかと。美味しいものを探そうとするその発端・コミュニケーションから、さぁゲームが始まっている。こんなスタンスは如何、と言ってるんですよ。

 人間の舌というものは、舌に乗せたものの温度によって、甘・辛・酸・渋・苦の五味プラス旨みの感じ方が変わってきます。良い例が、缶コーヒー。同じ缶でも、冷たいときと温かいときとでは、味が全然違っているのがハッきりと判りますよね、フツー?。日本酒でも同じことが言えるのです。
 概ね、温度を上げてやると、渋・苦が隠れて、辛味が丸く心地良い切れ味になり、甘みが穏やかでありながら深くなり、酸味が旨みの方向に寄り、そして全体として旨みが増す傾向があります。
 お酒が造られてすぐの段階、まだまだ若い状態から、半年一年そしてそれ以上の熟成を経て出荷される製品まで様々ですが、若い状態の香りよりも、熟成が進んでから出てくる熟成香の方が、暖めた時の崩れが少ないどころか、むしろ活き活きとしてきます。熟成が進んだ日本酒は往々にして色が付いていますが、気になさらないように。色を抜くのは実はカンタンで、活性炭使えばイッパツですが、それは同時に味や香りも多少抜けてしまう原因でもありますから・・・。繰り返します、色が残っているのを気になさらないように。わざと残してあることが多いのですよ、この新世紀においては。

 燗のつけ方は、お任せします。ホントだと電子レンジは避けて頂きたいのですが、手軽にできる方法として否定はしませんものの、加熱ムラにはご注意を。湯煎にかけるか、電気の酒燗器でいくか、直火でいくか。シマは、直火でやってます。こちら↓。
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 他人もしくは家族につけてもらうのもいいですけど、ここはひとつ自分でやってみましょう。さすれば、温度も自分で自由にキメられます。30度?、40度?それとも50度?。間を取りますか?。同じお酒が、違った味に楽しめます。

 不思議なもので、燗酒の方が量を過ごしにくいです。また、ゆっくりゆっくりと飲む中で、美味しい肴もよりよく味わえるというオマケ付き。愉しく呑める条件満載です。

 また、燗をすると、熱膨張して酒が増えるというのも嬉しいかな?。

 燗をするのは、日本人の智慧と言って良いでしょう。暖めるという一手間で、飲み物がクルクルと表情を変え、その一つ一つがそれぞれに魅力的だ、なんて『遊び』が面白くないワケないでしょ。暖めるのに適したものを探すところから、最後の一滴を干すまで。そうです、これはゲーム、楽しい『遊び』なんです。
 手間をかけるエネルギーと時間を、無駄だの邪魔くさいだのと取るか、それとも、愉しく悦ばしい『遊び』と採るか。新世紀に生きる我々が、試されているといっていいんじゃないですかね。

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2007年11月09日
真空管。


 前世紀初頭に産声を上げ、軍用品として普及が始まり、電気が一般化し家電製品が普及するにつれ日常生活の場にも現れるようになり、しかしついにはトランジスタそしてそれに続くシリコン半導体に取って代わられてしまった、電子デバイスのことです。
 現在、好んでこのような古色蒼然としたデバイスが使用されるのは、はっきり言って音楽用のみと言って良いでしょう。音声信号増幅装置、通称「アンプ」と呼ばれる機器には、しばしば、そう、未だに、ポワッとした灯りが見られるのです。
 「好んで」ですって?。嘘ではありません。
 高度経済成長期のラジオ・テレビ・ステレオ体験がおありの方は、「なんで今更真空管なんだ?」と訝る節もありましょう。それは十分理解できます。消費電力が比較的大きく、不安定で、切れたら換えなくちゃいけなくて、と、時代の進歩により生み出されたトランジスタ以降の製品の方が勝っていると考えられるのも無理からぬ話。しかしながら・・・成政酒造の私と営業の二人は、片やオーディオ用(CD聴取用)片やギター用と、真空管アンプでなくちゃならないと信じ切っているんですよ。

 近年、mp3のダウンロード販売を含めても、「音楽」の売上が顕著に落ちています。伸び悩む可処分所得が携帯電話代とかに大きく食われるこのご時世、致し方ないと言えばそう。これまでならば音楽消費を活発に行う若年層が、音楽に現金を投じなくなってしまってるのです。
 では、なぜ、若年層以外の層が、音楽を消費しなくなったのでしょう。これは、統計にもしっかり表れています。若い頃あれほどレコード・CDと音楽にお金を使ったのに、20代も後半に差し掛かり、30を越え、40そして50と年齢を重ねるにつれ、急激に消費カーブは落ちてゆくんですな。家から消えた家電には、ステレオセットというのがちゃっかりと入るようになって・・・。
 確かに、家族構成・生活サイクルが変わり、住宅ローンに子供とお金がかかるようになれば、CDなんぞにお金を遣っていられなくもなりましょう。これは第一の理由として十分説得力アリ。私も妻子持ち、よく解る。ホント、よく解りました・・・。
 しかしながら、ここで、第二の理由として、しかもかなり納得のいく理由を挙げたいのです。それは、「音」そのものに飽き・疲れが出るから、というもの。ここで言う「音」とは、現代においてはごくごく”普通”である、トランジスタが増幅して出してくる「音」のこと。味覚の変化と同じように、聴覚も年齢を重ねるにつれて変化し、若い頃には良いと思った音が、後には耐えられなくなったり願い下げになったりするものなのだ、ということなんですね。

 実はこの私、近年使い出した真空管アンプが、真空管初体験ではありません。20年程前に一度購入したときがありまして、その時はCDプレーヤーとトランジスタ式パワーアンプとの間に入れるものでした。弦楽器や女声が美しく艶やかに響き、一目惚れならぬ一耳惚れ?で即金購入したのを覚えています。
 一度オーディオにはブランクがありまして、そして再会した真空管の音。今回は何に驚いたか。その「音の生々しさ」にです。繰り返します。「生々しさ」に。
 これ、上手はより上手に、ヘタはよりヘタに再生してくれるという恐ろしさも持っていました。これまでそんなこと思いもしなかったのに、「K保田S紀って、こんなに歌ヘタクソだったかぁ〜」と、妻と顔を見合わせてしまったくらい。一方で、ホリー・コールの声などは、あんなにも色っぽくクッキリと再生されるというのに。
 驚きという心持が入手時の興奮を越して平静になると、こんどは「音楽を聴くのが楽しくて楽しくてしょうがない」「聴き疲れしない」という事実が静かにハッキリしてきました。
 それまでは、弟のお古の、事実年式は古いがそれなりに高価なトランジスタ式アンプ(重さなんて30キロを越えている)を使っていて、しかしあんまりCDを聴かなくなっていた。聴いても、1枚2枚でお仕舞い。購入枚数もめっきり減ってしまっていた。それが、一変したのであります。

 ピアノ協奏曲。ピアノソナタ。ヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリンソナタ。オペラ。ジャズ・ボーカル(ホリー・コール、ジョー・スタッフォード、ペギー・リー、ビリー・ホリディ、サラ・ヴォーン、中本マリ、etc)。往年のロックその他(エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、オーティス・レディング、トム・ウェイツ、etc)。

 勿論、私の可処分所得とて厳しさは皆様以上(晩酌するための酒代が大きいんですがネ・・・キレイなオネーサンの侍る処で飲むのに比べりゃ微々たる額にしても?)。インターネット・オークションとアマゾンのユーズド(中古)を通しての中古CDを主軸に、廉価な直輸入版ばかり。晩酌を終えて自室に戻り、ほろ酔い加減のまま、流れてくる音楽に耳を傾けながら、本をめくったりパソコンに向ったり二歳半の娘の相手をしたり。はたまた、娘が寝てしまった後、寝酒を少々嘗めながらフッとした気分で聴いていたり。
 酔い心地も酒の味も、一層豊かに満たされんばかりとなる・・・。佳き酒佳き酔い心地に、真空管が奏でる、楽しくて疲れない音楽は、本当に佳き相棒となる・・・。身も心も、軽やかになる・・・。

 音楽業界さん、真空管アンプの普及に力を入れてみればいかがなものかしら。すればCD売れますよ、もっと。
 そして皆様方におかれましても、流行の「癒し」とか「リラクゼーション」をここで云々する気はないものの、真空管アンプを導入してみられてはいかがなものでしょ。な〜に、安いものは自分ではんだ付けして組み立てるキットが2万円以下。他にも、個人が会社を設立して自作の真空管アンプを販売している処が沢山あり、インターネットで検索でもすればバンバン引っかかります。ちなみに、現在の私のアンプも、メーカー製ではなく、マニアによる自作品や個人工房製作の品。

エレキット
オデオ
Valves' World

 ご家族の反対がありそうですか?。導入してみたら、自分が気に入るよりもむしろ奥様・娘様に好評、ということが多いとか。
 真空管製品の寿命が短いのは昔の話。真空管そのものが貴重品になりつつある現在(中国やロシアで生産されているが、一般に古ければ古いほど音が良いのが真空管)、真空管は消耗品というコンセプトでの回路設計は消え去っている。最大定格の8割動作で使えば、人間様より長持ちだ。

 こうして、今宵も、フィラメントに火が入る。パチンとスイッチを入れたら、透明なガラスの中のオレンジ色がゆっくりと明るさを増してゆく。真空管は、立ち上がり後音出しまで少し待たねばなりません。そのしばしの間、今夜も、仄かな灯りをじっと・・・。


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