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四季おりおりの日記・・つれづれなるままに

なんと-e.com公式ブログ「なんとコラム」


2007年03月29日
まず銀閣寺を建てた人として有名な足利義政。その将軍の妻としての地位を利用して、男性に先駆けて高利貸しを始めた富子さんです。

日野家は公家の名門で、富子は16歳で正室になった。
しかし、その頃数多くの側室がおり女の戦いが始まる。
20歳で男子を産むがまもなく死に、5年後に夫の弟義視を跡継ぎにする。まだ2人は若かったから子の出来る可能性があるのに、あえてそうしたのは側室に男子が産まれ富子は阻止したかったらしい。

しかし義視が元服した頃、富子は男子を産んだ。
よくあるパターンです。
富子は地団太踏んだに違いない。
それ以来富子はわが子義尚を将軍につけるべく狂奔する。数年後の応仁の乱の元凶でしょうね。
義視は追い出され、義尚が将軍になってしまった。
富子がなぜそんなに躍起になったかというと夫義政が頼りにならなかったからだ。
義政は一流の文化人ではあったが、将軍としての政治力は0だった。
夫は当てにならない。何がなんでもお金を貯めて実力をつけようと言う腹だった。
応仁の乱の時両軍にお金を貸し恩を売りわが子の味方をふやしたい。高利貸しで儲けたお金で米を買占めさらにボロ儲け。
ますます夫は辟易して、夫が家を出、別荘を建てる。それが銀閣である。家出のお陰で文化遺産を残してくれたことになる。
しかし、その可愛い息子も父親似の道楽者で父の側室に手を出し派手な親子喧嘩をしている。
しかし義尚も25歳の若さで病死。又跡継ぎ問題で夫と喧嘩になる。
結局またまた、義弟の義視をかつぎだす。
夫が亡くなると義視は富子の言う事を聞かなくなる。
晩年は幸福ではなかったようだ。
莫大な財産を残したが、逆に空しさを感じる。

富子さんの生き方は現代と共通するものが多くある。
自分勝手で子を甘やかす。
しかし夫が頼りなく、子やお金に生きがいを見い出したのか、同じ女性として哀れみも感じる。
皆さんどう思われますか?

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2007年02月11日
新聞によると、大手の書店ツタヤともう一社がレンタルビデオがコンパクトになり、スペースが空いたため、漫画本を貸すことになったそうです。2泊3日で1冊80円です。

漫画喫茶も近くにあり利用されてますが、ずらりと並んでいると、逆に辟易します。
やはり読みたいのを1,2冊ゆっくり選んで、早く家で見ようと帰るのが楽しみのわけです。

私が子供の頃、漫画が唯一の娯楽でした。
買うと高いので、近くの貸本屋で少し立ち読みしながら選ぶわけです。そのころは、月刊誌や小説もあり、芸能人の写真を見たくて、明星、平凡が大人気でした。
発売日も早く行かないと、先を越され、2泊3日で戻るのを待っていました。付録のみ売っておりブロマイド、歌の本がすぐ売り切れです。姉妹の上から順番に回し読みし、返しに行くのも末っ子の役、それがルールでその代わり、借り賃は出してもらえます。

そのほか、少女ブック、少女クラブ、なかよし、りぼんの月刊誌もよく借りました。
少年雑誌は、少年ブック、クラブ、漫画王、冒険王
ぼくら、などまだ、あったと思いますが忘れました。
立ち読み防止のため、本棚に金網が張ってある所もあり、そこは余り人気がなく、多少の立ち読みは多めにみてましたね。

私の親戚も小間物やの一角に、貸本を営んでおり遊びに行くたびに読まさせてもらい、何日かかけて100数十冊を読破しました。好奇心旺盛な年頃なので、こっそり大人の漫画も読み、おませな少女になりました。
「そんな漫画が好きなら、毎日読んでいいからうちの子供にならんか?」
とも言われ、結果的に籍こそ入れませんでしたが、子供のように可愛がって貰い、一昨年相次いで亡くなった時、喪主の役割をし形見もたくさん貰いました。漫画が結びつけた縁ですね。

漫画のお陰で、漢字の読み書き、ヒロインの顔や服を描くことが好き、下手ですが文章を書くことも・・
娘も息子も漫画大好き!

今でも私は、現実よりもいつも遠い所を見つめている夢見る夢子さんです。

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2007年01月04日
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いいたします


息子が正月休みで東京より帰省し、娘家族を呼び上は90歳、下は4歳と4世代が揃い、手作りの料理で祝いました。
総勢10人皆元気で新年を迎えられる、幸せをひしひしと感じます。
嫁いで30年余り、仕事、子育てとあわただしく過ごしていた時期が懐かしく感じます。

そのころ私が、某新聞に投稿し掲載された記事が見つかり、久しぶりに読み返していました。

20年余り前の文です。

「お姉ちゃん!大きいのだから相手にならないの。5つも年上なのに・・」と私の金切り声に
「あっ、又私を悪者にして。本当は○○君が悪いんだよ。大きいと損だ。何も私好きで先に生まれたんじゃない。」と小5の娘は泣きべそをかいて抗議する。
私はその都度「大きいのだからと」という言葉を繰り返してきた。
弟の方が明らかに悪いのに小さいと言うことで、姉の方をたしなめてしまう。

思い起せば、10年前、仕事がたてこむと、赤ん坊であった娘を掘りコタツの枠を逆さまにした中に入れ、1人遊びさせていた。顔を見せると、抱いてくれとせがむので、隙間から覗くと、泣きつかれて寝てしまったり、今思っても、息子と比べると手をかけてやらず、可愛そうなことをした。

弟が生まれると、ミルクを飲ませてくれたりよく手助けをしてくれた。まだ幼稚園児だったのに、子育ての一端を担ってくれた娘を全面的に頼っていたような気がする。
そんな娘に対して叱る私は娘の寂しさと優しさに気づいてやれなかった。

女の子はいずれ嫁ぎ他人の中で苦労をしてゆかなくてはならない運命にある。それ故、溢れんばかりの愛情で包んでやらなくてはいけないのかもしれない。

急にいとおしさがこみ上げ、娘の寝顔に頬ずりすると、あどけない口元が微笑んでいた。(終)

今娘は3人の子育ての真最中。私が手助けしてやらなくても、1人で塾や保育園の送り迎え、そのなかでフラワーアレンジの講師、家事は少し手抜きをしているけど、逞しく生きている。
私の背中を見て、反発を繰り返しながら、1人で結婚を決め、あっというまに巣立っていきました。

今は私のよき相談相手です。


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2006年12月08日
静御前と言うと、義経の側室で絶世の舞の名手として有名です。
只、名前にまどわされ、静かで淑やかで、兄頼朝に夫を殺され薄幸な女性というイメージですが実際は少し違うようです。


その1つは彼女は白い水干、金色の立て烏帽子、袖を翻して舞う姿は男装束なのです。今で言う宝塚で颯爽と舞っていました。白拍子と呼ばれ、神前だけでなく貴族や武士に引っ張りだこだったのです。
芸を武器に、チャンスがあれば、有名人の愛人にでもなんにでもなってしまうのが当時の白拍子でした。


その時、静に目をつけたのが、義経でした。
つい前までは無名でしたが、木曾義仲を追い払い、平家を滅ぼして一躍都の大スターとなりました。

しかしそれからまもなく、兄頼朝の怒りを買い、追っ手を逃れて逃げ回ることになります。
こんなとき、プロの女性は、金の切れ目は縁の切れ目と離れていもんですが、静はそれをしませんでした。
静は一緒に逃げます。吉野の山に逃げ込む時も、最後までついていってます。が吉野は女人禁制の山なので、泣く泣く別れ捕らえられました。


尋問を受けますが、彼女が男装の麗人らしい颯爽たる態度をみせます。義経の行方を聞かれても「知りません」の1点張りで口を割りません。

ある時頼朝が鶴岡八幡宮で、静に「舞を奉納せよ
」と引っ張り出します。
この時彼女が舞いながら歌った歌は有名です。


吉野山峰の白雪踏み分けていりにし人のあとぞ恋しきしづやしづしづのおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな

源氏万歳のおめでたい舞かと思えばとかんかんに怒り妻の政子がなだめたそうです。
静は、愛する夫を殺した仇に、媚を売るもんですか。
夫を帰せと遠まわしに、タンカを切ったのでしょう。

芸能人や、水商売の人の中に時折胸のすく鉄火肌の女性がいます。静はまさにそういう女だったのです。

テレビドラマでは、ただ義経が恋しくて、恋の歌を歌った舞姫というお涙ちょうだいの筋書きでしたが、これは静の本来の姿ではないと言われています。
私の方も胸がすく思いでした。

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2006年11月11日
紫式部は平安朝中期の人で、藤原為時と言う中級官吏の娘で、結婚し1児を儲けるが死別、後に藤原道長の娘である一条帝の后、彰子の家庭教師になります。
清少納言とは同じ立場でライバルでもありました。


家庭教師に選ばれるということは、相当の学才があるわけで、父が、式部が余り器量がよくなく学問で身を立てさせるために、学ばせたと言われています。

そのころは、男性が女性の家に通う通い婚で、妻の実家は、男性の経済的な面倒も見ていましたから、裕福でなくてはなりません。ただ女性が美しいと、多くの男性から、プロポーズを受けますから、急に訪問してもらうと、かち合うことがあり、大変だったようですよ。性に関してはおおらかですね。面白いことに、母が違えば、きようだいでも結婚できましたから。

源氏物語の、源氏は藤原道長がモデルだと言われています。道長は飛ぶ鳥を落とす勢いで、平安貴族の黄金時代を築いた人で、娘を皆天皇の后にし、皇子の外祖父になるわけで、藤原鎌足の(大化の改新)子孫です。

そのころ、道長は式部の書き始めた、源氏物語に大いに関心を持っていたらしいが、式部は「いや、それだけでなく、私にも関心をお持ちでした」と日記に書いています。(結構うぬぼれが強い)
「夜中に道長に戸を叩かれたが、あけませんでした。どうせ1夜の気まぐれでしょうから」と、
でも源氏物語の「空蝉」の巻に
こんな不美人で、身分の低い、中流官吏の妻が、想いを寄せられるなんて、天にも昇る気持ちですが、返事はノーです。しかし拒否されるとますます、会いたくなるもんなのです。それゆえ一生心の中に残る女性となるわけですね。
空蝉は式部がモデルとして書いたのです。源氏への想いを、ことのほかリアルに描いてありますから。

空蝉が源氏を愛しながら、拒み続ける姿は実に感動的です。この頃の簡単に愛し、簡単に交わる話と全く違う女心の微妙な陰り、そして拒否すると言う愛の形の不思議さ美しさを、式部は描き尽くしている。

源氏物語は、プレイボーイが、女性遍歴をし、女性が嫉妬し悩み、呪っていく人、死んでいく人、それを乗り越え成長し、たくましく生きていく人とさまざまですが、いつの世も女性は強く、したたかに生きていく方が多いのが救われました。

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2006年10月28日
薩摩藩島津家のしがない支藩の娘として生まれ、斉彬の養女として13代将軍夫人として送り込まれた、篤姫。
本家の幕府への発言力や一橋慶喜の世継ぎ問題、諸々の差し迫った思惑があったからです。

しかし家定が病弱で、尋常な男性ではなく、子は産めないのは承知の上でのことです。でもこの時代はよくある話で「あの子ならやれる」と期待されたのでしょう。
しかし結婚して2年目で家定は亡くなり、23歳にして未亡人で、薩摩の思惑はすべて外れ14代は紀州の家茂に決定。次は公武合体で皇女和宮を家茂の嫁に迎えます。

しきたりの違う2人は嫁、姑としてことごとく対立すます。和宮は江戸に下っても御所風の生活を譲らず、威厳を保とうと、姑への贈り物の表書きを、呼び捨てに書いたりします。

最大のピンチ江戸城明け渡しが始まり、攻めて来たのは、実家の薩摩でしたが、頼ろうとせず「私は徳川の人間だ」と、最後まで留まり、いよいよ立ち退く時も彼女だけは身の回りの調度家具類を一切運び出さず身1つで、一橋家へ移りました。お見事です。

そのなかで、260人の女中達の身の振りかたを心配し、慶喜の跡継ぎの家達の面倒を見、洋行までさせ、近衛家に出向いて結婚までまとめている。
とにかく頭の切り替えの早い人だったらしい。

和宮は当時出家し京都へ戻っており、結局徳川家の面倒を最後の最後まで見続けたのは、篤子なのです。

彼女の政略結婚は結果的には不幸だったかもしれないが、彼女はただ運命に押し流されていなかった。
幕府が崩壊期にあたり、彼女は見事にしんがりをつとめ、攻めるより守るほうが難しく、女ながらこの役割見事にはたし、歴史の中の守備型ナンバー1の女性です。

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2006年10月13日
珠子さんは言うまでもなく、細川忠興さんの夫人で元細川護熙首相のご先祖でもあります。

父明智光秀が本能寺の変で主君織田信長を殺してしま
い珠子は逆臣の娘として本来なら離縁するか殺してしまうのですが、細川忠興は珠子を2年後に秀吉呼び戻されるまで、丹後に幽閉していました。

しかし幽閉事件は珠子にとってショックな出来事でした。細川家の保身のために躍起になっていた忠興に失望したのかもしれません。
人間不信、逆臣の子としての苦悩がキリスト教に近づけたのか。貞淑な妻は家族の大反対を押し切って、入信し、夫とすざましい喧嘩を繰り返しています。
仲が悪かったのかといえばそうでもなく、愛憎の入り混じった深刻な夫婦仲で言いなりにはならない、真面目で一途な珠子さんなのです。

かたや、忠興は珠子の悩みの深さが理解できない、現実的なタイプ、つまり先の先まで世渡りを考えてしまうのです。だからいつも精神的にすれ違う夫婦です。
現代の夫婦にもよくあるパターンです。
それと自分がいない間側室を作り、自分がこんな苦しんでいる間、裏切ってと言う気持ちもあったのでしょう。

それから数年後夫は東軍(徳川方)に従い、関東へ、
その間に、西軍(石田方)が大坂に残るガラシャ夫人を、人質にとらえようとしたが、これを拒み家臣に首を切らせ、館に火をはなち壮絶な最期をとげます。
いかにも彼女らしい1本気なやり方です。

しかし彼女のお陰で忠興は徳川への忠誠心を認められ、細川家は300年の繁栄の基礎をかためます。

すざましい葛藤があり、結末としては皮肉ですが、これが夫婦の醍醐味かもしれません。
信仰に青春をかけましたが、迫害と殉教の歴史に身を置き、中途半端を許さない、珠子さんと連れ添って忠興さんも、ご苦労だったと思いますが、

珠子さんもそんな屈折した愛し方で忠興さんを愛し、又愛されていたのではないかと思います。




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2006年10月01日
戦乱の世はほとんどが政争に利用される女達。しかしそのなかで、したたかに生き抜く徳川2代将軍秀忠の正室として、運命に従い逞しく生き抜くお江の方にスポットをあててみました。

父浅井長政、義父柴田勝家、母お市の方を失い、お茶々、お初、お江の3姉妹。
仇である秀吉の命で2度結婚し3度目は家康の息子秀忠に嫁ぎました。
秀忠17歳(初婚)お江23歳。6歳も年上です。
幸せなことに秀忠は稀に見る堅物で、1度だけ浮気をしたが、(保科会津藩主)お江の間にたくさんの子を儲け徳川時代正室としては初めて3代将軍家光を、娘千姫は、姉淀君の子秀頼に、末娘の和子は後水尾天皇の中宮に、ほか有力大名に嫁し、徳川家安泰に役立ちました。年上でしたが、秀忠を充分満足させる、人間的にも魅力的な女性だったのでしょう。
ここで考えさせられるのが血筋と言うものの不思議さ。
織田、豊臣が滅んだ後、敗北者浅井の血が徳川に生き続けている。もちろんお市の兄織田信長の血も。
ともあれ、敗北者の娘お江の一生は、われわれにエールを送ってくれる。
1つには、女の幸福は美貌によらないこと。
2つには、再婚、3婚を決して恐れることはない。
3つには、姉さん女房でも決して飽きられることはないこと。


なによりも数々の不幸にも運命と思い、水が器に従うように、淡々とそれを受け入れた事。
運命に押し流された哀れな女性に見えて、案外しぶとい生き方。これこそ現代にも通じる生き方です。

若い時は、母お市、姉お茶々の美貌に隠れ、ぱっとしませんでしたが、幸福な結婚生活で内面的な魅力が顔に表れ、美しく磨かれたそうです。





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2006年09月14日
向田邦子さんの好きな作品の1つに”父の詫び状”があります。
女学校に入学したばかりの邦子さんが父の転勤のため編入試験を受けることになります。あいにく盲腸手術の直後で、体操を免除にとお願いしました。

試験の朝早く、母は脂汗をかき、うなされている父を起こすと、父は編入試験の夢をみていたそうです。あれほど頼んでおいたのに免除にならず、父は「この子は病み上がりだから私に代わりに走らせてほしい」と願い出て他の女学生と一緒に走ってみるが、足が前に出ず、七転八倒していて母に起こされた。と言うことです。
試験が受かったもので、祖母が「お礼をいいなさい」と言い、何で夢なのに〜と思うが、父の鉄拳がとぶので手をついてお礼を言ったら、笑い上戸の弟が福助頭をふるわせて笑いをこらえていた。
もうおかしくて涙が出ました。

それと、保険会社の支店長をしていた父の客が多く
家で持て成すわけですが、冬は長靴が濡れており
「新聞紙を入れておくように。男物の靴は少し離し、女物はきちんとくつけるように。」「なぜ?」と聞くと「早く寝ろ」と言われた。
私も今ならわかります
父の客とは、外交員と代理店で朝方まで飲みその吐しゃ物を、情けない思いで拭いていると、すまないねの言葉もなし無言で見ており、その後手紙が来て、巻紙に
"このたびは格別な働きで"と言う一行に朱線が引いてあった。それが父の侘び状でした。

御巣鷹山の飛行機事故で25年前に亡くなられましたが、存命なら77歳です。その父親の年代はみなそうでした。本当は感謝しているのに言えない、テレくさいのでしょう。テレ隠しに威張り散らしている。でも家族は分かっているのです。父の優しさを、寂しさを

邦子さんは、寺内貫太郎一家・7人の孫・だいこんの花など父を主役にしたドラマをよく書かれました。
父への詫び状”なのかもしれません。
早くに亡くなった父に重ね合わせ見ていました。
その中で今は死語になった、到来物、三和土、上がりかまち、ご不浄、などがよく出ます。

なつかしい昭和、向田ワールドは、私たちが失いしものを思い起こさせてくれます。


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2006年08月31日
         
猫の恩返し



5年ほど前のことです。
毎日かすかに猫の鳴き声がし、どこにいるんだろうと気になってましたが、日中は、あたりがざわざわしているため聞こえません。
夜になると悲しそうな声が耳につきます。その声の出所をつきとめようと、何回となく床や畳に耳をすりつけると、客室の床下からより大きく聞こえます。ここだと確信し翌朝、畳をまくり板を外すと丸い深い穴があるのを見つけました。
懐中電池で照らすと、そこは昔の井戸でその中よりか細い声が聞こえ、奥を照らすと2つの目玉が光っており驚きました。光の先に目をこらすと、白い骨らしきものが4,5体あり、すべてを察知しました。縁の下を走り回っていて落ちたのでしょう。
この近くは猫が多く日中、お寺、駐車場、空き地と、ごろごろしており、夜の猫の鳴き声も珍しくないのです。
井戸の側面には、駆け上がろうとした数多の爪あとが残り生々しいものでした。
早速、縄の先に籠を結わへ、鰹ぶしを入れ下へするする下ろしましたが、食べようとせず毛を逆立てただ、うなっているだけです。鳴き声がして10日ほど経っているでしょうか。気力も失せ立ち上がれず、主人が梯子を掛け7,8メートルの底にいる、猫を抱え上ろうとするのですが、どこにそんな力があるのか暴れ爪でひっかかれ、逃げるのです。猫にしてみると、ひどい目に又合わされると思ったのでしょう。
何回かひっかかれて、痛いのをこらえひしと抱きかかえ梯子を登ると、もう1度腕をひっかき一目散に逃げて行きました。やせ衰えて、骨と皮の状態で目だけが怖いくらいにランラン輝いていました。
「折角助けてあげたのに、やっぱり、わからんのやね。」と腹がたちましたが、今まで気がつかず井戸を塞いでおかなかったこちらに非があるのは明らかで・何匹かの猫を犠牲にしてしまい、可愛そうなことをしてしまったと、手をあわせました。

それから猫のことはすっかり忘れてしまっていたのですが、1,2ヵ月後、台所の窓よりこちらを覗き込んでいる猫と目があい、声をかけると逃げていきました。
確信はないのですが、先日の猫と色が似ているのです。少しふっくらとし、やさしい表情をしており、ほっとしました。もしかすると有難うとお礼を言いに来たのでしょうか。それから数回、主人にも顔を見せに来ました。

恩返しはなかったのですが、忠実な犬に比べ気まぐれで自分勝手な猫の精一杯の、感謝の気持ちだったんでしょうか。
今も残る主人の腕のひっかき傷を見るたびに、元気でいるのかしらと、案じています。

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2006年08月17日


若?奥さんと言われているのに、嫁いでいる娘に子が3人います。
その頭の小1の男の子が、ちょっと不思議な、そして少しうらやましい能力をもっています。

先日、息せききって学校から帰るなり、彼がホワイトボードに「お母さん!、僕の家族の名前書くよ。見とって〜」と言って、「まずお父さん、お母さん、僕、弟、妹、おばあちゃん」、とフルネームで書き「それからいつもお茶室の椅子にすわっている人あの人の名前は?」と。「そんな人おらんよ。うちに」と娘が言うと「なんで、いつもおるやろ?しましまの服着た髪の毛の短い人、わからんが?」しまいには半べそになり、おばあちゃんのところへ行き、おばあちゃんが「女の人け?」と聞くと、「多分、そうや」仏壇の前の何枚かの写真の中の「この人け?」と曾ばあちゃんを指差すと「、そうや、この人」とほっとした顔でうなずく。ちょっと鳥肌がたちました。

もう25年ほど前に亡くなられ、入院せずに自宅で、家族に介護され専用の背もたれのついた椅子にすわっておられたそうです。思いのある椅子なので、そのまま置いてあったそうです。要介護のため、洗いやすいよう髪を短く切られたのでしょうか。
「いつもにこにこして僕の夢の中に現れ、{たくさんご飯食べて大きくなられ}と言ってくれるよ。」と。

曾おばあちゃんの名前を書き終えるとほっとした様子で「これでやっと書けた。7人家族や」と満足げな顔をして何事もなかったように、遊びに行く。いつも、椅子に座っている曾おばあちゃんとなにかを話しているのでしょうか、誰にもわかりません。3人の内この子だけなのは、長男、いわゆる古い言い方をすると跡継ぎだからかもしれません。昔の人は、跡継ぎは特別のおもいで育てましたから。
そういえば、1・2歳の頃も、「あそこにも、そこにも誰かいる。」誰?と聞いても「だれかわからんけど、いる」と言っていました。なんにしても、彼1人の時しか出てこられないのですから。

それともう一つ驚くのは、彼が娘のお腹のなかにいる時、おじいちゃんが亡くなりそのお葬式を、見ており、先に亡くなった曾おばあちゃんが、息子であるおじいちゃんを、「じっと見てたよ。僕お腹の中は暗くて眠かったけど覚えている」と言っていたそうです。
こんな体験をした話は、以前新聞かテレビで見た覚えがありました。

純粋な心を持っているものにしか見えない大事なものが大人になるとだんだん見えなくなり、見ようともしなくなり、しまいには、見えなくなるのでしょうか。

この子もいずれ、このような体験も忘れてしまうでしょうが、こういう目に見えないご先祖の人たちに見守られて、大過なく過ごさせてもらえる有難さに感謝。
そして、できれば私も、亡くなった母や姉にそんな形でもいいからもう一度会えたらと願っています。

久しぶりに、さわやかな立秋の風が私の頬を通り過ぎました。


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2006年08月03日
先日、NHK「その時歴史は動いた」で、白州次郎さんを取上げていました

まずその風貌は、彫が深くハンサムでジエイムス・デイーンのような眼差し(そのころ日本人は埴輪顔)、180センチ以上の長身にぴったり食い込んだGパン姿にTシャツ(カッコいい)出自は、芦屋の白州商店の御曹司、イギリス留学、スポーツカーをこよなく愛し英国紳士道を身につけた華々しい経歴の持ち主。

余り馴染みがないかもしれませんが、日本が占領下時代、吉田首相の命を受けGHQの草案した日本国憲法の翻訳をした中心人物です。日本人が敗戦により自信喪失し卑屈になっていた時、怯まず米に対して筋道を通した人です。

その夫人で白州正子さんは樺山伯爵のご令嬢で幼少より能を学びアメリカ留学帰国後、次郎さんとはお互い一目ぼれ結婚、(ハイカラや)その正子さんが、なんとある方の紹介で2回我が家に宿泊されたのです。
頭にスカーフを巻きロングコート、サングラスという出で立ちで、男装の麗人という雰囲気でした。私の親世代を颯爽と生き抜いてこられた正子さんを畏敬の念で見つめていました。

もう20年以上も前のことで、最近まで正子さんをよく知らず、、たまたま行きつけの美容院に置いてある、婦人画報に、今なぜ白州正子さんなのか。という見出しの記事を読み興味を持ち、書物を取り寄せました。

正子さんご夫妻は昭和18年より東京郊外に茅葺屋根の農家を購入。改築し、武蔵と相模の境ということで「武相荘」と名付け、自給自足の生活を楽しみ、友人知人に米や野菜を分け、焼け出された友人の面倒を見たりして交流を深め、今の白州正子さんが誕生したのだと思います。
正子さんは、3人の男性(河上徹太郎、小林秀雄、青山二郎)の友情に分け入りたく飲めぬお酒を一緒に飲み骨董の目利きを請い3人の鋭い罵声にぼろぼろになりながらも鍛えられ、韋駄天お正と命名されるほど足で各地を回り、執筆活動へと邁進します。お嬢様は本物の白州正子さんに変っていきます。伯爵の娘という、プライドをかなぐり捨てて。いや捨てたかったのでしょう。

武相荘は、季節の花が生けられ、家の造りはむろん書画、骨董、家具、衣服、日用品・・
すべて本物志向で現況を変えず、次郎さん亡き後も本物を求めて井波へいらしたのかもしれません。
毎日の食事の器も檜の漆椀、瀬戸や古伊万里、唐津等を使用、閉まって置かず「使うから愛着があり口当たりがいいのよ」と。

次郎さんの遺言は「葬式無用戒名不要」正子さんも同様その生き様が凝縮されています
いつか「武相荘」尋ねお二人を偲びたいと思います。

その他、岡本太郎さん、清水公照さん、池波正太郎さん、オノ・ヨーコさん等多くの著名人が宿泊され、芳名簿や画帳は我が家の宝物です。
これからもいろんな人との出会いを大切に少しでも自分磨きしてゆけたらと思います。、

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2006年07月21日
           紫陽花が好き  

幼い頃「赤と青を混ぜると何色になる?」と誰かに聞かれ答えられなかった思い出があります。
絵の具でこわごわと筆先を動かしてみると色鮮やかな紫色がまるで魔法のごとく生まれ出てきました。赤と青の配分によって色が変化するごく当たり前のことなのですが、その色は大人の色のようで余り絵を描くときに使わなかったような気がします。今思うと紫陽花はもちろん菖蒲、露草、菫、忘れな草、片栗、りんどう・・・あまたにあるのですが、すべて青一色に描いたのでしょう。 
青に近い紫は凛とした大人の色で、赤に近い紫は可憐で愛くるしい子供の色、特に私が1番好きな色は、赤から青に変わる線上で青に近づく紫に微妙に白をくわえた色合いが、気品があります。
平安時代の紫式部の書いた、源氏物語の主人公光源氏が愛した美しい、六条御息所、明石、朧月夜、女三宮、特に生涯愛した紫の上のイメージがあるのかもしれません。(内容はどろどろとして、それでいてどきどき、でも、いとかなし。容貌はいまいちの末摘花が安らげます)
昔から高貴な人の羽織る衣が紫だったような気がします。
紫陽花の季節になると、胸が躍ります。球状の大きなかたまりが露に濡れ一段と色鮮やかで、たわわにゆれている風情が好きです。それでいて道端にさりげなく咲いている庶民派。ぎやまんのブルーのコップに、一輪挿すだけで、あたり一面が華やかで心穏やかにしてくれます。そのなかで、一瞬自分と同化してしまいそうな、1番好きな色に出会うことがあります。昔、絵の具を混ぜ合わせた色でうれしいことに、今年も見つけることができました。まるで待ち焦がれた恋人に会えたかのように。
雨と紫陽花は似合います。ひとかたまりごとに群れをなし梅雨の明けるまで、ほの暗い辻を明るく照らし、夏到来まで頑張って咲いてくれます。
かんかん照りの日差しが、ひまわりに向けられると、紫陽花はしだいに元気がなくなり、縮んでしおれますが、決して散りません。色があせ終いには茶色く枯れますが、ずっと頑張って咲いています。そのしぶとさ、したたかさが又好きです。別名=七変花=と言われているように今年もいろんな色の紫陽花に出会えました。来年は=恋人=に何処で対面できるか楽しみに。そして紫陽花のように、雨や風にも立ち向かっていくたくましさと美しさ?を兼ね備えた女性になりた〜いです。

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2006年07月07日
             夏 支 度

雨足が遠のくのを見計らい我が家では、夏の風物詩の、す戸の入れ替えが、始まります
自宅から500Mほど離れた出蔵へライトバンで、細い通路のためバックで入り、障子と,す戸を交換するのです。その作業が結構大変で5回ほど往復し半日以上かかります(嫁いだ頃はリヤカー)昔の障子戸のため重い上、雪見障子もありガラスがはめ込まれています。なんとまあ面倒な作業を毎年繰り返さねばならないのかとしきりにぼやくのですが、妙なもので近年では、す戸の良さを無意識に受け入れて、その趣がたまらないのです。
昔の職人さんが手間ひまかけて作った、す戸、紗の書院障子ひんやり冷たい感触の籐の敷物、平安時代を思わせるすだれ、す屏風、すの衝立
目にしただけで涼感が伝わってきます。
そのほか、夏蒲団、夏座布団の入れ替え、団扇、蚊取り線香、扇風機(余談。昔の重たい扇風機が1台。とろとろと、うちわのような風、まだ使用してます。蝿取りリボン、懐かしいですね。暗闇で、気を付けているのに髪の毛がくっつき、朝になると、ああ私だけじゃなかったと)
昼下がり、はたきをかけられた、す戸を各部屋に納めるとようやく夏座敷に生まれ変わります。
戦前、母が嫁いでくる以前より、出入りの方が数人おられ、戸の入れ替えはむろん、年2回の大掃除(畳をたたく音も聞かれなくなりました)暮には大樽に大根や白菜を漬けに又味噌がきれる頃は造りに、そのなかの長の人がすべて段取りして、やって下さるのです。その他、結婚式や葬式、法事の手伝い、重要な役割を担って戴きました。時代も変わり今は、家族でやっとこさ、やっている状態です。しかし、お客さまにこの風情を味わってもらいたくそして、す戸越しのおぼろげな月を共有したく頑張って続けます

心地よい疲労感とともに夏へバトンを渡しました。





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2006年06月23日
蚊帳のお話

すっかり忘れていました。子供の頃大好きな蚊帳を吊ってもらい眠ったことを。先日近所の奥さんと雑談中にでた話で、なんと今でも蚊帳を吊っているとのことで、思わず「わあー懐かしい」と叫んでしまいました。
彼女がこちらへ嫁ぐ時に、お母さんが嫁入り道具の一つとして持たせてくだっさったとの事で、面倒だけど、小さいころからの習慣で、吊らないとなかなか寝付かれないそうです。
すぐに我が家の部屋の4隅を見上げると、各室すべてかぎ形の釘が打ちつけてあり、うん十年前の私にタイムスリップしました。
小学生の頃、布団を敷いた後すぐ蚊帳の先についている紐の先の輪を一つずつひっかけると、深緑色の正方形の館が出来上がります。まるで海底にいるようで、息苦しくて、溺れそうな夢をみることがありました。

*蚊帳は海・われ水底で・溺れさう*

そのなかに蚊が、入り込んでいないか耳を研ぎ澄ましていると、1,2匹は必ず侵入していて、裾を持ち上げ団扇ですばやくあおぎだす。はやる心を抑え、ようやく布団に入ると外界から遮断された、幻想的な世界へ入り込んだような、そんな神秘さを感じます。窓からさしこんでくる月明かりが、いっそう情感をもりあげ、蚊帳越しに見る月と電球?(そのころ蛍光灯はまだなし)が眠りを誘い、虫の音色が心地よい夢の世界へと導いてくれました。
あの蚊帳はどこへいったのでしょうか。今のことよりも昔のことのほうが鮮明で、昨日のことのように話す母に聞いても、覚えがないというが、多分出蔵(少し離れた場所にある蔵)の長持(着物とか調度品を収納する大きな長方形の木製の箱)にあるのでしょうか。もう一度、蚊帳越しに見る、あのおぼろげな月を眺めたいものです。
(注意、蚊が入るため、蚊帳の出入りは、芋虫形ですばやく)

梅雨が明けると出倉に保管してある*簾戸(すど)と襖(ふすま)の入れ替えが待ってます。これは又いつか。

新しく建てられる家は日本間がなかったり、せいぜいひと間ある位の家が多くなり、戸の入れ替えをすることも、少なくなっているでしょうが、襖と畳とちゃぶ台は日本人の原点かもしれません。
古きよき時代の大切なものを、そこに置き去りにして、生きているような気がしてなりません。


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2006年06月09日
       Shall we haiku?
始めまして。嫁いで30年も過ぎましたが親が元気で、恐れ多くもいまだ若女将です。東山荘は創業元禄、小牧屋という屋号で名は平助。瑞泉寺の参詣宿として栄え父で20代目です。出身は旧庄川町小牧、地名より牧野と名乗り、昭和初期の書院造りの建物を残していくのを使命だと思っています

目前の瑞泉寺の石垣のつつじが色鮮やかに咲き乱れています。2階の部屋より白、赤、ピンクと次々に開花し一幅の絵のようです。その香りに包まれるお寺は一向一揆の拠点として威容を誇り多くの観光客が訪れます
* 肩に差すパラソルのごとつつじ咲く*

初回は俳句への私の思いを書いてみました。
ウオーキングハイクと言うこ洒落たネーミングに惹かれ入会して早7年ハイキングの会と思われるでしょうが俳句の会です
私は井波地酒の会のメンバーで日本酒をこよなく愛する数少ない女性の一人で飲むと嫌と言えないやたら前向きになる笑い上戸です。その結果「はい、入ります。」と即答。翌月より、何にも知らないものの強みで、原形を留めないほど、手直しされ今日に至っています。ただ先生の講義を聞き辞書を紐解きながら、学生時代に戻ったような、楽しいひとときです。学校の勉強をしなくてもよい年になると、学ぶことが好きになりますね。
俳句を始めて大事だと思ったことは、道草をすることです。子供は道草をして自然より学び成長してゆくように、四季の移ろい、たとえば花鳥風月、木、魚虫、雨、雪・・・そして人間観察・自分の内面。忙しさにかまけ道草という決して無駄ではないひとときを忘れていました。季語辞典片手に、じっとみつめていると嫌いなものも可愛く見え愛情がわいて来ます。
* 秋の火蛾羽を広げて疎まるる*(蛾の羽の美しさにみとれ)

又余りにも満月が美しくて

*月掴たし盗人と呼ばれても*

投句日が近ずくと、瑞泉寺、幼稚園、八幡宮、古城公園へ。、旧浪水では鷺の空へ舞い上がる優雅な所作、息をこらし食い入るように見つめていました。
先日の魚津吟行会では数多の魚を見つめていると、逆に魚に見つめられているんだ人間はいつも自分中心に物事を考えるがそれは驕りであり、すべてのものに生かされ見守られてれているんだと思いました。

*ひとひらの布舞うやうにえい泳ぐ*

その折々に感じたことを記す俳句とは日記なのかもしれません。
5・7・5の17文字で、簡潔に表現することは一見難しいと思われますが誰にでも作れますよ。酔った勢いで入った人も作っています。 Shall we haiku?
(毎月第2水曜日・7時半・井波文化センター)

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牧野きよ子
井波瑞泉寺前 東山荘女将です。日本酒をこよなく愛し、日本海のきときとのお刺身と、楽しい会話と、ソプラノで、歌っていられれば、なにもいりません。 
趣味:合唱・映画鑑賞・美術館めぐり

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