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―忘れ得ぬ人―

なんと-e.com公式ブログ「なんとコラム」


2009年06月27日


 富山ガラス工房教授・野田雄一氏作 
 立山マンダラ。我が家の水琴窟の置物


 わらび座の「炎じゃわめく」で、
 もったいつけて、棟方志功を指導。
 偉そうに登場する、柳宗悦。

 東京駒場の柳邸を開けてもらい、
 立派な屋敷と書斎を見た。
 評論家で、
 こんな豪邸が建てられるはずがない。
 向かいの、日本民藝館の方に聞く。

 「奥さんで、日本の声楽家の草分け、
  柳 兼子さんの稼ぎですよ」とのこと。

 戦後、福光小学校の講堂でリサイタル。
 棟方志功が、手描きで作った
 ポスターが、美術館に所蔵されている。
 超満員だったそうだ。

 柳 兼子(やなぎかねこ) 
 ドイツ、ベルリンに留学。
 リサイタルでドイツ人を驚愕させた。
 85歳まで、ステージに。日本芸術院会員。
 92歳まで音楽の指導。

 柳宗悦を養ってきたことになる。
 (無理して威張ることないのに)

 軍歌を歌うことを、
 かたくなに拒否してきた気骨ある
 スーパーレデイである。

 長男は、柳宗理(やなぎむねみち)

 私の尊敬する工業デザイナー。
 国際的に活躍し、金沢美術工芸大学の
 客員教授も。多くの人材を育てる。
 作品は、ニューヨーク近代美術館など
 世界中に収蔵されている。

 1977年、日本民藝協会会長、
 そして、日本民藝館館長に就任。

 民藝運動の精神を、
 どのように現代に活かすか、に
 大変な努力をされたが、
 保守的、権威主義の民藝運動と
 相容れなかった。
 以来、運動は破綻した。

 実弟は柳宗民。園芸研究家として
 NHKの「趣味の園芸」に
 ずっと登場されていた。
 
 柳宗理の指導が続いていたら、
 世界に誇れる運動として、
 現代に受け継がれたはずなのに惜しい。

 そもそも、民藝運動のルーツは、
 ロンドンに留学していた、
 富本憲吉が取り入れた、
 イギリスの「アーツアンドクラフツ」の
 運動が原型であり、それは
 当時のジャポニズムとも関連があった。

 「民藝」と名づけたのは柳らであるが、
 最初に井戸を掘ったのは富本である。
 無名の職工の仕事を過大評価する、
 民藝運動と袂を別つ。

 後世、柳宗理は
 「父は、民藝運動の将来性について
  思いが到らなかったようだ」と
 語っている。
 
 結果、柳宗悦がカリスマ化され
 陳腐化されかねない。

 それにひきかえ、
 兼子夫人、長男の宗理は
 現代に受け継がれる
 すぐれた業績を残されている。

 

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2009年04月20日
 南砺市の4分の3が山地である。
 そこに、縄文時代からの樹皮文化が伝承されて
 いた。コクボのナタヘゴである。
 もうひとつは、利賀村のかっての経済を支えた、
 五箇蓑であり、加賀藩が外貨を稼いだという
 華麗な技による特産品がある。
 これらの全国に誇るべき伝承文化が、
 いままさに絶えようとしている。

 五箇山蓑

 山田勇正さん(利賀村)





 加賀藩でも上級武士だけが
 着用が許された、高級蓑の最後の伝承者、
 山田さんの手仕事を、記録保存したのは、
 砺波の伝統技術を記録保存する会であり、
 国の補助を受けた事業。
 となみ衛星通信テレビと
 記録者は加藤享子さん(富山民俗の会)
 砺波市在住であるが、旧福光出身。

 山田勇正さんは、利賀村上百瀬。
 山深い郷に、このような
 芸術とでも呼びたい技が残って
 いるというのは信じがたい。
 30年もこの村とお付き合いしていながら、
 知らなかったことは恥ずかしい。

 画像の、爪の大きさと比較すれば
 その細密な仕事ぶりがよくわかる。


 コクボのナタヘゴ(鉈鞘)

 村井亮吉さん(福光・立野脇)

 

 


 コクボのナタヘゴとは、
 山仕事に欠かせない、鉈(ナタ)を入れる
 携帯用の道具で、刀の鞘に相当する。
 コクボという、つる性の年数の経た材料から
 裂いて、手で編む。
 縄文の時代から伝承されている技。

 とにかく丈夫で、100年以上も
 使われて、ますます艶が出てくる。
 安っぽい民藝ブームが、これと比べると、
 真っ青になる。
 このナタへゴこそ、
 その上をいく民具の極致であろう。
 山の民による美意識の傑作である。

 かっては、
 小矢部川上流の上刀利の谷には、
 このような手仕事が
 あたりまえのように存在していた。

 昨今の、電化製品など
 生活道具の寿命と比べようがない。


 南砺市の課題

 これらの、貴重な文化財の発掘、
 数年がかりの記録作業。
 会長は、砺波市の佐伯安一民俗の会代表。
 南砺市外の人たちの情熱で実現した。

 かって、富山写真語・万華鏡の
 200号記念で、「立野ヶ原の監的壕」を
 特集したとき、執筆者は6人。
 南砺市ではただの一人もいない。

 いろんな文化財などの記録や保存、
 調査、執筆など根気が要る地味な作業に、
 南砺市の人はほとんど参加しない。
 
 かって、吉波彦作さんや、石崎直義さんの
 ような泰斗は、何人も存在した。
 が、現在は、若手の研究者はほとんど不在。
 富山県内で、こんな市は南砺だけ。
 いつも困ってしまう。

 歴史、考古、近現代史、民俗
 文化人類学、郷土史などの専門家がいない。
 それに近い、学芸員も居るが、
 学術論文ひとつ書いていない。
 足元の文化を大事にせずに、
 南砺市の未来は語れないように思う。
 「土徳」とは、
 本来、このような民衆のこころが
 息づく、地道な努力を言う。
 
 利賀の演劇だけが、文化ではない。
 

 加藤享子さんのお名前が
 間違っていました。訂正いたします。
 すみません。
 


 


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2009年03月16日
 オフ会やら、何やらでアップが遅れました。
 すみません。



 昭和64年は数日しかない。1989年正月。
 利賀村―ネパール友好調査団が結成され、
 19名が、ネパールへと旅立った。
 リーダーは信州大学の世界のそば博士、
 氏原暉男教授である。
 利賀村の幹部、NHK富山放送局、
 写真家、民俗研究家、そして
 私は村おこしアドバイザーとして、 
 ビデオ記録スタッフも連れてである。


 村は正月はヒマということで
 計画されたが、ヒマラヤは
 この時期、厳冬期なのである。
 ポカラという第2の都市は、
 マチャプチャレという名峰のふもと。
 時は、昭和から平成に変わる。
 王国なので、日本の昭和天皇崩御で、
 ネパール全土が2日間の喪に服する。
 小さな飛行機も嵐で飛ばず、
 1週間遅れで、ツクチェ村へたどり着いた。

 ヒマラヤ山中の過疎の村。
 村民あげての歓迎で、みな涙した。
 それくらい、困難な旅であった。

 感動したのは、3つの寺院を案内されて、
 チベット仏教のマンダラが描かれた
 神秘的な空間である。


 そこの村で出逢ったのが、
 ネパールきっての仏画僧のサシ・ドージ師。
 事前に氏原先生から、彼の存在と、
 日本でマンダラを描きたい意向を
 情報として知っていたが、
 利賀村の道場主でもある宮崎村長が、
 ぜひ、利賀村でと依頼した。
 
 通訳のヒロコさんを介して、
 観光施設でも、宗教施設でもない、
 あなたのミュージアムを作りたい。
 持参した立山マンダラの絵を見せて、
 懸命に説得した。
 瞑想の郷は、こうしてスタートした。

 山岳から下界へ降りて、
 友好調査の成功をみんなで祝った。
 このドラマをテレビがドキュメンタリーに
 まとめて、富山から東京へ、
 NHKを通じて何度も放送された。
 一夜にしてソバによる国際交流として、
 全国に有名になった。

 ツクチェ村はムスタン県。
 ガンダキ河の上流がムスタンという秘境。
 東京のテレビチームが、利賀村に
 刺激されて、大掛かりな番組をつくる。
 それが「やらせ」のドキュメンタリーとして、
 大問題になり、時のNHKの幹部が
 辞任する騒ぎとなった。
 いわゆるムスタン事件である。

 








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2009年01月24日


  山村では、ありふれたそば。
  これが、利賀村では、
  村じゅうをひっかきまわす
  騒動の火種になるとは、
  だれも気づいていませんでした。

  利賀村のそば祭りは、
  年ごとに盛んになりました。
  村の秋のごっつおフォーラムで、
  野原啓蔵村長が、
 「こんなに人気があるなら利賀村で
  そばの博物館を作ったらどうじゃ。」
  それには、専門家が必要。
  いろいろ調べて、この人が浮上。

  氏原あきお先生。
  信州大学農学部教授、世界のそば博士。
  利賀村からのプロジェクト代表の
  すごい気迫に、先生も意気に感じます。
  そばどころの信州にも、
  江戸(東京)にも、外国にも
  そばの博物館が存在しないことも判明。
  どこまでも、マイナーな食物です。

  村でそばの勉強会。
 「そばの原産地はヒマラヤ周辺。
  そこには紅いそばの花が咲く」
  みんな目がテンに。

  すでに演劇で世界のТOGAなんだから、
  世界初のそば博物館ならば、
 「世界のそば資料館」にと、
  コンセプトにしたのが、
  とんでもないことに。


  こんな時の利賀村は、行動が早い。
  すぐにそばの郷を建設始める。
  民家も移動させての突貫工事。

  あれよあれよという間に、
  坂上地区のまんなかに、
  6棟を新築してしまった。
  中心に広場と、
  そばの資料館「そばの館」を。

  それにあわせて、
  世界のそば資料を収集しなければ。
  ということで、
  そばのふるさとのひとつ、
  ネパール王国のツクチェという、
  ヒマラヤの山中の村の存在を、
  氏原先生に紹介してもらいます。

  利賀村が化けるきっかけでした。
                 (次回へ)







  
 

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2009年01月10日



 この一杯のそばが、
 利賀村を変えることになった。
 世界のそばの村になった。



 この2冊の小冊子。
 利賀の冬のごっつおフォーラムの記録である。
 昭和60年、今から24年前のこと。
 利賀村商工会による、むらおこし事業で、
 伝統の味、そばの文化がひとつのテーマとなった。
 富山県の農林水産部も加わった、
 北日本新聞の広告局企画、
 「北日本ごっつお大学」のイベントとして、
 61年2月8日に、
 「利賀村ごっつおフォーラム」が開かれた。

 県の課長、新聞社の次長、作家の辺見じゅんさん
 野原啓蔵村長、洋画家の金沢佑光さん
 司会進行は私。

 この、素朴な、山村の文化そのものの、
 かけそばで、むらおこしをすべき、と
 いろり端で語り合い、
 そばを食べながら、
 作戦を練った。


 その記録を再読すると、
 野原啓蔵さんの、そばにかかわる原体験が、
 実に感動的である。
 何かの機会に紹介したいエピソードである。

 第一回そば祭りのための雪像作りは、
 村始って以来の大騒動であった。
 土木機械を総動員し、雪山をいくつも作る。
 夜、雪が締まってから、村民が総動員。
 グループごとに、ひたすら、雪を削る。

 観音様の雪像を削ってつくる夫婦。
 そして、今度は
 胸のおっぱいを新雪を貼り付けて膨らます。
 お父さんの仕事です。
 形が違うと指図するのは、
 下で監督する奥さん。
 さすが注文が厳しい。



 第一回は、すごい吹雪となった。
 積雪は4メートルはありました。
 まあ、600人の参加の返事だから、
 500人も来るかなあ、という気分であったが、
 念のため、村あげて4000食のそばを打った。

 ふたを開けたら、3000人を超える来場。
 あっという間に、そばは無くなり、パニックに。
 寒いから、待たされるから、
 ひとり2杯以上食べたのだから当たり前。
 それでも、下界から続々クルマが続く。
 必死に、下で係が引き止めた。
 幻のそばを食べずに戻った人は多い。
 「食いモンの恨みは大きい」
 翌年は、その人たちも大挙押しかけてきた。

 このイベントを企画したのは、
 当時の村の若者グループ。
 村の幹部は、
「だらめ、こんな雪ふかい山奥へ、
 こんなおぞいそば、だれが食べに来るぞい。
 ましてや、貴重な村費500万も使うて!」と
 頭から否決されたが、

 村長が、決断。
 責任取るから、やれ!

 一夜にして、そばの利賀村が生まれた。

 もし、あの村長の決断がなかったら、
 いまごろ、利賀村は消滅していたかも知れない。

 







 


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2008年12月14日
        
        利賀村は、
        しっかり雪景色。




 南砺市の選挙が終わりました。
 
 この小さな、過疎の村から、新市長が
 落下傘のように、南砺市へ着地です。
 あまり知られていない、
 この村の姿を、改めて伝えたいと思います。

  雪しかない
 そばぐらいしか取れない
 過疎の村


 だれも相手にしてくれなかった利賀村で、
 商工会が中心になって、「むらおこし事業」を
 始めました。25年くらい前です。




 早稲田小劇場(当時)のリーダー、
 鈴木忠志さんが、この村を拠点に、
 演劇活動を始めたことから、いちやく有名に。

 「日本では、人を教育できるのは
  自然環境しかないんだなあ」

 最初におあいしたときの、
 鈴木さんの言葉が耳に残ります。
 いまも、ますます重みを増している
 貴重な提言でしょう。

 全国から、コンサルタントが、
 ここのむらおこし事業に注目しました。
 村としては、あんまりプロを信用せず、
 富山市で、デザインをやっていた、
 まるっきり素人の私に、
 アドバイザーの指名がきました。
 それまでも、民俗の会のメンバーとして、
 山村の文化に魅かれて、よく通っていました。




 むらおこしの特別アドバイザーといっても、
 何をどうすればいいのか、
 まったく分かりませんでしたが、
 先輩として、先に入村していた、
 画家の金沢佑光さん(東京)と、
 民俗学者・歌人・作家の辺見じゅんさんに
 村の気風や歴史など、また、
 この村の資源は何か、などについて、
 勉強会をはじめました。
 (白いヒゲが金沢先生、向いの女性が、
  まだ若い辺見じゅんさん。
  その後、男たちの大和でベストセラー、
  映画化されました。)


 辺見さんは、村役場に対して、
 実に厳しかった。
 もう、ボロクソ状態でした。
 野原啓蔵村長の隣で。
「なぜ、お年寄りの知恵、知識を
 もっと活かさないのか」

 しかし、当時の村の現実は
 戦後4500人いた村民が、
 2000人を切り、さらに過疎は進行中です。
 明るい夢を語り合うには厳しい雰囲気でした。




       そんなとき、
       少しだけ残っていた、
       そばの花だけが元気でした。
           
              ―つづく―
   







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2008年11月28日
 旧福光町の新町通り。
 2百年以上続く老舗が並ぶ。
 
 その入り口に
 風情のあるのれんが、
 なんともうれしい。

 名村寿郎さん(66)と
 妻の温美(はるみ)さん(61)

 知る人ぞ知る、
 4代続く豆腐屋さんである。

 なかでも、湯葉は、
 午前中に売り切れる。
 プロが求める味である。




 ご主人は、都会のビジネスマン。
 義父が倒れて、
 奥さんの実家へ。

 50歳を過ぎてからの
 豆腐作りを受け継ぐ。

 富山写真語・万華鏡の
 第203号は、
 こんな「店・たな」を特集します。




 富山県内の
 あちこちに、どっこいがんばる、
 魅力的なお店がいっぱいです。

 12月早々に発刊、配本。
 新町からだけでも、
 3軒が紹介されます。
 井波からも。

 毎号、最終ページの
 「聞き書き万華鏡」欄の
 ベテラン、本田恭子さんのインタビューが
 好評です。
 名村さんの記事も味が濃くて面白い。

 クルマ社会。
 郊外の大型店だけでなく、
 歩いていける、
 町の店も大事な魅力です。

 万華鏡は、12月初めに配本です。
 お知り合いから入手願います。
 わからない場合、
 福光美術館で500円で売っています。
 書店にはありません。

 

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2008年11月15日
 

 福光本町、角にある喫茶店
 かんなりのマスターは、
 棟方志功と一緒に活躍されたかたです。




 神成与市郎さん(84)
 大正13年生まれですが、現役喫茶店主。
 奥さまの和子さんと、お客さまに
 おいしいコーヒーを出しておられます。
 おそらく、富山県内最高齢のオーナーの
 名物喫茶店でしょう。
(斜め向かいの春の色食堂といい勝負)

 ルーツは、旧北山田の神成。
 明治のころに露天商からスタートして、
 現在の地に、子ども向けのお店を開展。
 いらい、駄菓子屋さんとして、人気店に。
 夏のアイスキャンデー1本5円だったころが、
 妙に懐かしい思い出である。




 戦前から、高岡高芸の機械科卒の
 エンジニアから、あこがれの航空少年団へ。
 整備の教官として、あちこちで活躍。
 立野ヶ原でグライダー練習機の指導も。
 地元の若者も続いて技術屋となったため、
 戦死した若者は少なかったとされる。
 大型機の機関士として、内外を雄飛、
 玉砕前の硫黄島へも。
 戦後は、地元で信用金庫に就職された。

 若かりしころ、青年団長に。
 棟方志功さんとも、
 町の演芸会でステージイベントを企画。
 ステージの背景は棟方さんが描いた。
 終了後は、川へ流したそうな。もったいない。
 今なら数千万円したかも。

 さらに、福井大地震。
 被害は阪神淡路大地震に匹敵した。
 さっそく棟方さんにチャリテイー画会を。
 仲間がそれぞれ求めて完売。
 義捐金を福井へ届けたという。
 「祈りの人棟方志功」の本には、
 全国でいちばん早かった救援活動に、
 棟方さんが加わったと記されている。
 神成さんが、その仕掛け人だったわけである。
 当時の頒布会の棟方作品は、
 はたしてどこへ行ったものやらと笑う。
 神成さんは定年、幹部で退職。
 その間、奥さんが、お店を切り盛り。

 町角の、しゃれた喫茶店にも
 いろんな物語がある。
 
 

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2008年10月12日



 富山写真語・万華鏡の200号記念、
 立野ヶ原の「監的壕」には、
 富山県歌人連盟会長の米田憲三さんが、
 とやまのイーハトーブとして、
 貴重な原稿を寄せていただいた。
 荒井美蔦香という、
 優れた文学青年の熱血教師、
 その教え子でもある野村玉枝。
 岩倉政治や棟方志功の交遊があった。
 文集「立野ヶ原」は、
 その貴重な舞台であった。
 とやまの文学のルーツのひとつであり、
 各界から、にわかに注目を浴びている。

 こんな草深い小学校が
 その後の文学の原点になった。

 驚いたことに、
 大正12年創刊の、このすばらしい
 児童文学の文集の
 創刊号、第2号に詩を寄せている
 斎田秀雄さんが、健在で、
 しかも、現在も短歌を詠んでおられるという。
 (この号には、野村玉枝さんも寄稿)
 さっそく、高宮の
 光龍館へ、県の歌人連盟・米田会長と、
 インタビューをした。



 斎田さんは、耳が遠いとはいえ、
 すこぶる元気がいい。
 殿から毎日、ここまで
 バイクで通っているという!参った!
 85年前に、荒井先生に指導を受け、
 以来、短歌三昧である。

 この日、館へ持参された、短歌と挿絵。

 若いとき、中国大陸へ。
 侵略戦争であったが、激戦の中を
 何度も九死に一生の体験を。
 そのとき、重症の戦友を遺して
 撤退したことが、今も悔やまれるという。
 10日に一度は夢に見たとは
 大変なトラウマである。
 次世代へ戦争の悲惨さを伝えたいとも。

 短歌ノートは、肌身離さず、
 いまも毎日、創作の日々である。

 85年前の
 自分の文集を手に
 びっくりされていた。


 なお、前号のコラムの
 斎田副知事の実家は隣り。
 本家だそうである。
 これも不思議なご縁。

 私の母も、斎田さんの2級下。
 トノサマガエルの詩を載せている。
 亡くなる85歳のころまで、
 短歌を詠んでいたことは、
 恥ずかしながら知らなかった。
 荒井先生の指導である。
 
 新井先生の長女が生まれたとき、
 乳が出なくて、私の祖母が乳母に。
 なついて帰らないので養女にした。
 つまり、母とは義姉妹に。
 最近までこのご縁も知らなかった。

 小さな村の文化が
 花開いたときがあった。
 





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2008年09月20日


 初めてこの文書を目にしたとき、
 思わず手が震えた。
 こんなものが残っていた!
 日本が戦争に負けた日。それは
 昭和15年8月15日であった。
 混乱の極みであったこの10日後に
 時の旧東太美村、村長が
 国の大蔵大臣あてに出した嘆願書である。



 ブログでも紹介した、めだまカンテッコー。
 南砺市のど真ん中に500haもの 
 国内有数の広大な陸軍演習場があった。
 富山写真語・万華鏡200号で、
 初めてそのことを特集したが、
 戦後63年。もう記憶は風化寸前である。

 9月15日の敬老の日に、
 東太美そくさい会(75歳以上)の皆さんが
 80人あまり福光温泉に集まった。
 その席で、この立野ヶ原特集を贈呈した。
 お年寄りの眼が輝いた。
 村の土地の3分の2を取られて
 110年間も苦労した人たちである。



 マスコミでも5紙1局が取上げ、
 まだまだ取材が続いている。
 議会でも文化財指定にと、
 南砺市、教育委員会も動き出した。

 齋田正雄さん 
 終戦時は26歳。
 旧東太美村の兵事係であったため、
 徴兵を免れ、村の事務を、
 一手に引き受けていた。
 この村長の嘆願書は、胸を打つ名文である。
 明治32年以来村民が辛酸をなめてきたこと、
 国のために協力してきたこと、
 食糧難の時代、増産のために土地を
 払い下げて欲しい、と言う文書を起案したのが
 若き日の齋田さんであろう。



 さらに難題が起きる。
 GHQ(米進駐軍)がやってくる。
 旧陸軍関係文書は焼却処分の命令。
 しかし、昭和18年まで続いた、
 村の土地強制収用の文書は、将来の記録として
 処分できないと判断した齋田青年は、
 腕のいい、石工の父親とで
 大きな石の函を2個作り上げた。
 貴重な資料を、隠して保存するためである。



 この話は、県庁の3階の
 齋田道男副知事の部屋で聞いた。
 正雄さんのご子息である。
 結局、GHQの追求はそんなに厳しくないと、
 いう事が伝わってきて、使われなかった。

 しかし、この焼却処分を免れた、
 この公文書は、
 戦後の土地の払い下げ、
 入植者の開拓事業や
 大規模パイロット事業の
 基礎資料として大活躍する。

 実家の殿の屋敷の裏に、
 この石の函が残っていた。
 フタだけでも重くてひとりで動かせない。
 雨水が入らないような、密閉できる
 立派な「作品」であった。



 正雄さんは、すぐに若くして
 村の助役に。数年後には、
 合併した旧福光町で、図書館長や
 収入役、助役を歴任されたが、
 合併しても、旧村の公文書を整理分類し、
 重要度のあるものを11冊にまとめて、
 福光図書館に収蔵・保管させた。
 現在、最後の追い込みに入っている
 福光町史編纂の資料となった。

 万華鏡のこの特集は、
 全国版のマスコミでいま注目を集めている。
 南砺市の歴史遺産が、
 脚光を浴びることになるだろう。
 その記録のもととなったのは、
 齋田正雄さんの、
 公務員として
 知見と責任感のたまものと感謝したい。













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2008年09月08日


 8年前に、棟方志功さんの遺族が
 福光へやってきました。
 長女の故けようさんのご主人である
 宇賀田達雄さんと、
 その娘・石井頼子さん、その娘さんの
 3人が、ゆかりの地ということで、
 お見えになりました。
 以来、いろんな機会にお世話になっています。

 館長のいちばん大事な仕事のひとつに、
 作家とその家族(遺族)との
 いいお付き合いがあります。

 どんな作家でも、出身地との関係は
 課題が多いものです。
 家族や本人の生活の素顔が見えすぎて、
 何かとギャップがあります。

 ゆかりの地ということで、
 安易な付き合いや、利用する人がいて、
 とかく、けじめが甘くなります。
 ひいきの引き倒しでしょうか。
 感情問題が生まれやすいものです。

 どの美術館もこのことで、
 知られざる苦労をしています。
 ましてや、
 終戦時の苦しい時代の疎開者。
 ここがふるさとでなかった、
 棟方一家にとって福光ぐらしは、
 ばら色ではありませんでした。



 今回の企画展で、
 記念講演をお願いしました。

 慶応大学文学科の美学専攻の才媛。
 鎌倉の棟方志功板画美術館の
 学芸員というのが本業です。

 棟方志功の画室には、
 仕事中には、誰も入れさせませんでした。
 ただひとり、例外は、
 まだ小さかった頼子さんだけは、
 許されて、ちょこんと、
 棟方さんの仕事ぶりを飽きずに
 眺めて育ちました。
 棟方さんの素顔を知る、
 貴重な方といえるでしょう。




 東海北陸自動車道が
 全線開通してから、
 南砺を売り出すための
 企画展が始りました。

 石崎光瑤とは、また違った、 
 南砺の宝ものが光ります。
 石井頼子さんは
 かけがえのないパートナーです。




 
 

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2008年08月22日




 余すところ、
 8月23,24の2日間を
 残すばかりになった、
 石崎光瑤60年展。

 何といってもその目玉は、
 全国トップの美術館の
 ひのき舞台を踏んで帰ってきた、
 あの「燦雨」です。

 お盆過ぎに、
 光瑤さんの遺族10人が
 南砺市を訪問されました。
 お孫さんたち、ひ孫さんたち、
 みんな光瑤の代表作に
 目を回していました。




 石崎宏矩さん(78)

 父からも諭されて、
 京都美術専門学校を卒業。
 しかし、アトリエの鳥の剥製や
 蝶の標本に魅かれた、
 科学少年でもあった。

 意を決して、上村松篁先生の
「描くことが楽しくなければ、
 絵描きではない」のひとことで、
 京大の理学部に入りなおす。

 昆虫が、
 蛹から華麗な蝶に変身する。
 その秘密のホルモンを求めて、
 30年あまり。
 3000万匹の蚕の脳を
 ひたすら擂り潰して、
 ついに、2つのホルモンを
 抽出することに成功し、
 世界で初めての快挙となる。
 
 萱笑でお蕎麦を。
 新聞記者がインタビュー中、
 突然、宏矩さんの口調が変わる。

 嗚咽されながら、
「父のふるさとのみなさんに、
 ほんとにお世話になって…」
 あとはしばらく言葉にならない。
 お孫さんが、
 おじいちゃんの背中を
 やさしく撫でていた。

 心情が伝わって、
 こちらも、こみあげるものがあった。


 ちなみに、お母さんの貞子さんは、
 石川県の津幡町の旧家、
 新田家から嫁がれた。
 南朝遺臣の子孫で、十村の家柄。

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2008年08月09日
 疎開児童
 もう、この言葉は
 失われていくことでしょう。

 戦禍を避けて、東京などから
 地方へ子供たちが集団疎開しました。
 3月1日の東京大空襲では
 10万人が死んでいます。

 東京のどまんなか、
 お茶の水小学校などから
 福光へやってきました。

 町の大きい家に数人ずつ分宿です。
 学校は、当時では立派だった、
 図書館が教室になりました。



 そのとき、
 親元を離れて暮らす子供たちの
 面倒を見ていたのが、
 図書館の若き日の石崎俊彦さんでした。

 みんなに慕われて、
 お礼に帰京後、絵や作文を
 送ってきました。
 上の絵は、図書館から見た
 八幡宮の桜の風景です。

 棟方志功記念館の愛染苑へ
 当時の文集が残っていると聞いた、
 それを、学校の120周年に
 お借りして紹介したいとの
 東京からお便りがありました。




 探してみたら、
 図書館に、ちゃあんと整理して
 保存してありました。
 3冊、きれいな表装した
 絵と作文が綴られています。

 みんな、図書館のおじさんへの
 感謝の言葉が並んでいます。
 さっそく、東京へ返事を出さねばと
 思っています。

 石崎俊彦さんは、
 生涯独身で、
 あの、棟方志功一家の
 お世話や、制作の手伝い、
 棟方さんへの土地の提供など、
 言葉に書きつくせないほど
 南砺の文化に貢献されています。




 私も10代の修業時代、
 写真の右端の坊やが私です。
 中央が、俊彦館長。
 図書館で毎日のようにお世話に
 なりました。
 「青花堂」という、回顧録も
 作らせて頂きました。





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2008年07月29日
コラム<忘れ得ぬ人>号外


 水害のお見舞い申し上げます一日も早い復旧を願っています。
 
 テレビや新聞で
 全国に、集中豪雨とその災害に
 ニュースが伝わると、
 東京や全国の縁者や友人から
 安否を問う電話、メールが
 殺到します。

 ブログでは、山辺美嗣さんが
 危機管理体制の課題を
 指摘されています。
 その通りと思います。
 情報網の分散が招く、現場の混乱と
 住民や親族の不安です。

 逆にこのたび、
 感動したことがあります。
 ブログに、次々と
 生々しい画像や、情報が
 山ほど寄せられていること。

 利賀村へ行く友人に、
 携帯で状況をすぐ知らせることが
 出来たのも、ブログ情報のおかげです。

 南砺市における災害時の緊急な、
 危機管理・情報の一元化は
 これからの課題でしょうが、
 公的な情報受発信システムだけでは、
 現場は、すべて対応しきれません。
 すでにパニック状態なのですから。
 
 それらを
 補完するメディアとして、
 このnanto-e.comを、
 活用してはどうでしょうか。

 ブロガーたちは、
 南砺市のあらゆるところに
 「棲息」しています。
 現場に近い、民間人が
 ほとんどです。
 対策の本隊が到着するまで、
 現場情報の確認という、
 一刻を争う、
 時間との勝負という面があります。
 なかでも画像は
 いちばん貴重です。
 
 災害発生時に、即応できます。
 何よりも、すぐ画像を発信できます。
 日ごろ、慣れていますから。

 災害本部もチェックできますし、
 県内外の安否を問う人たちにも
 現状のまま、対応できます。

 全国に誇る、
 わがポータルサイトが
 地域の非常時の
 情報をリアルタイムで、
 どこからでも、誰からでも
 即、受発信できます。

 地球の裏側まで
 瞬時にアクセスできます。

 日ごろの訓練は、
 イベントの準備や
 本番の紹介で慣れていますから。

 課題は、
 まだ、限られた範囲であること。
 いかに、危機管理のための
 民間協力による、
 補足媒体であるという
 公的な位置づけと
 アクセスできるネットワークの
 拡充でしょうか。

 要は、
 この、なんと-e.comが
 地域社会に貢献できるという
 存在意義です。

 



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2008年07月11日
 

過疎化、限界集落、耕作放棄地

 あまり、明るい話ではない。
 五箇山の現在の課題である。

 「みんなで農作業の日in五箇山」の
 実行委員会が生まれ、
 都会などからの応援団もあり、
 ようやく、元気がでてきたが。

 今から200年前、
 利賀村から、着のみ着のままで、
 遠く茨城の霞ヶ浦へ入植した集団があった。

 当時の茨城・玉造では、
 重税、不作、飢饉、耕作放棄。間引きと人口減少。
 生活が苦しくて、百姓たちは江戸へ逃散した。
 藩主や代官、真宗寺院は、
 北陸からの入百姓政策を採用した。
 なかでも、越中の南砺地域は、
 間引きを許さず、人口過剰。信心深く、働き者。
 本来、加賀藩からの脱出は重罪。

 そこで、親鸞さんゆかりの聖地めぐりツアーと
 いう口実で、北関東へ集団で出かける。
 もちろん、帰るつもりはない。
(井波の寺院発行の通行手形には、
 万が一途中病死しても勝手に
 始末してほしい、と記録されている。)
 加賀藩も暗黙の了解だったらしい。


 これは、
 母村利賀ネットワークの
 シンボルマークである。
 かって存在した、33の集落名が
 降る雪に見立ててデザインされた。



 2年前の秋、
 3年に一度の利賀村出身会。
 そのシンポジューム風景です。
 (私が司会・進行役を務めました。
 富山県都市農山漁村交流協議会長で〜す)


 それはそれは盛大です。
 最後は、総員むぎやの笠踊りで締めます。



 ようやく、登場。
 茨城県玉造町(現行方市)の
 野原小右二さん 
 シンポジュームや交流会で
 とても印象的な方でした。

 入植者達は、霞ヶ浦の低湿地、荒地を
 割り振りされ、集落の中心に
 真宗寺院を建てて、団結した。
 この辺では珍しい、
 南砺と同じ散居村にした。
 実りも少なく、ようやく周囲の村なみに
 なるまで50年の年月が経った。

 周囲からは差別され、お嫁さんも
 ほとんど貰えなかったという。

 「籾寄せ」という、相互扶助制度をつくり、
 病気や災害で苦しむ仲間を助けた。

 野原さんは五箇山の「結い」の精神が、
 今も生きていますと、きっぱり。

 現在は、専業農家や、鯉の養殖、
 ワカサギ漁などで、
 成功している人たちばかり。
 信仰心、結い、進取の気性は、
 母村の利賀村より強いかも。

 三重大学の中川先生(富山出身、地理学)の
 多年にわたる研究からも、裏づけられます。





 前夜祭で、雨の中を
 地元・母村利賀のみなさんは、
 山祭りの石かちで歓迎。
 出身会の人たちも綱を曳きます。
 村の宴会は、いつまでも続きました。

 200年の時間を超えて。

 
 

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2008年06月28日


 北陸の
 ナショナル・ジオグラフィック誌をめざす、
 「自然人」の編集長から、悲痛な電話が。
 金沢で発行であるが、
 富山の記事が圧倒的に多い。

 夏の号の締切りが過ぎたのに、
 メイン記事の相手がドタキャン。
 南砺市あたりで、ふさわしい人物で
 取材にムリの効く人はいないか。

 編集にかかわっていると、よくあること。
 定期刊行物なら、締切りが命。

 美術館の入り口の
 「福寿桜」を移植成功させた、
 すごい桜守りがいますよ、と
 紹介したのが、この人、
 水口造園社長の

 水口暉夫さん

 「自然人」には、
 この巨樹の移植を奇跡的に
 成功させた特集が載った。

 富山写真語・万華鏡の
 173号「一木一草」にも
 聞き書きインタビューで
 紹介している。



 小矢部川の上流の
 小院瀬見のご自宅を訪問して
 びっくりした。
 屋敷の入り口に
 どかんと、巨大な庭石が。
 愛着があって、売る気はないようだ。
 
 この数年、カシノナガキクイムシの
 発生による被害が広がり、
 社会問題になった。
 山がおかしい。健康をとりもどさねば。
 NPO法人「南砺の山々を守る
 実行委員会」発起人となり、
 被害樹の伐採と植樹、
 さらに枯れた木をもとに、炭焼きを。



 このユーモラスな、
 炭のふくろうは、とても人気があり、
 道の駅の目玉商品になった。

 水口さんから、
 一枚の写真を見せてもらった。



 仕事場に飛び込んできた、
 一羽の大きなフクロウ。
 撮影後、森に還した。
 いつも背戸の森から鳴き声がするという。
 南砺の森の
 見張り役であると笑う。

 現在も仲間と共に、
 800人もの参加で、南砺の山に
 植樹祭のイベントを続けている。

 本業の造園から、 
 地球の庭づくりへと
 フクロウのように飛び立った人である。
 まさに南砺の森の
 生きた守り神に昇格された。

 ことしの福寿桜は
 ひときわ見事に花を咲かせた。




 

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2008年06月14日



 たまには、私事で失礼。 
 
 何度も東京の重役から誘われた。
 どんな魅力的な条件でも、
 すべて辞退して、富山から離れなかった。

 その理由は、
 とやまで、すてきな人との出逢いに
 恵まれてきたからである。
 気が小さいオタクだったせいも。

 前の会社では、ダントツの名刺の消費だった。
 しかし、南砺市にお世話になってから、
 さらにその3倍は使っている。
 年賀状の7割は、この数年の人脈。
 ありがたいことと感謝の毎日。
 地方で暮らし、仕事をする醍醐味である。
 人間的にうれしい人々の存在は、
 8冊の名刺ファイルに収まって、
 自分の何ものにも代えがたい財産となった。




 ひとつだけ嫌になること。
 それは、
 田舎の甘さ。
 むかし、
 職場でコピーライターや
 デザイナーを数十人、パートナーとして
 苦楽を共にした。

 男女を問わず、若い人たちに
 チャンスをどんどん作って、世に出した。
 いい時代でもあったが、
 東京に負けない人材が欲しかった。

 数年で、何人もが目の覚めるような、
 評価される素晴らしい仕事を残してくれた。




 が、
 問題は、そこから。


 地方では、どの世界でも10年がんばれば、
 たいていその道の第一人者になれる。

 マスコミに載ったり、ちやほやされだして、
 本人は有頂天であるが、
 人の言うことを聞かなくなる。
 気持ちは理解できる。

 態度がでかくなる。
 部下を育てられない。
 友だちも離れる。
 作品の芯が止まってしまう。いや後退する。
 忠告は聞かず、避ける。

 最後には
 こちらが恨まれてしまう。
 まったく割りにあわない。

 結果、どれだけ有望な
 才能ある人材を失ったかわからない。
 不徳の致すところで恥ずかしいが。

 中国の史記から
 「野郎自大」 
 (野郎の王が漢の広大なことを知らず、
  自らを強大と思って漢の使者と接したことから)
  自分の力量を知らないで、幅を利かす態度を
  とるたとえ。野郎大。
  


 実は、管理職に抜擢されたとき、
 大阪の居酒屋で、役員が諭してくれた言葉。
 むかしは、いい上司がいた。
 ときには、このことを忘れそうになる。

 東京など大都会には、
 どんなに登りつめたようでも、
 その上に、そのまた上に、
 怖い人がうじゃうじゃ居る。
 謙虚にならざるを得ないし、
 先輩に礼を失しては生きていけない。
 大都市は厳しい。
 田舎は、甘やかす。

 でも、アンテナを高くすると、
 地方でも、隣のジャンルに
 やはり凄い人が居る。

 棟方志功は、
 南砺に住んだとき、
 そういう人を探す嗅覚があった。
 すかさず、くらいついて、
 自分のものにしてしまう。
 恐るべき「食人種」でもあった。

 そして、
 田舎の甘えも嫌った。

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2008年06月08日
   資料を集めているうちに
   時間が無くて、コラム掲載が遅れました。
   それにしても、この欄は
   ブログと比較しても元気がない。
   書き込みもほとんどありません。
   なにか、いい方法がありませんか。




 平成17年10月から、
 富山大学、富山医科薬科大学
 そして国立高岡短大が統合されました。
 それに先立つ、初代学長に
 西頭徳三さんが選出
 されました。
 今は、新キャンパスの顔、
 とやまの顔、
 そして南砺の誇る広告塔です。



 3年前の6月15日のことです。
 国立高岡短大の教授のもとへ、
 写真語・万華鏡の取材で行っていました。
 夕方、事務所がなんだか騒然としています。
 その日、新生富山大学の
 初代学長選挙の日でした。
 
 4人の候補、2回の投票で、最も基礎票の
 少ないはずの高岡短大の西頭学長が
 劇的な逆転で選出されたと言うのです。
 駅頭では号外が配られるという、
 ビッグニュースでした。

 すぐ、高岡ニューオータニホテルで、
 高岡短大教授会だけの祝賀会がセットされ
 私も紛れ込ませてもらいました。
 主なきパーテーの途中、記者会見を
 済ませた新学長がタクシーで
 富山から到着、興奮のお祝いでした。
 「先生、おめでとうございます」
 「あれ?なんであんたがここに?」
 「えへへ…」


 昭和13年?旧福光町荒木で生まれ、
 京都大学大学院農学研究科終了
 農学博士として、
 京大、山口大、愛媛大、
 その間、土地改良の経済効果などの
 フィールド調査、その分野の第一人者。
 請われて、平成15年、
 高岡短大の学長に。
 そして、劇的な富大学長へ。
 そのあとのご活躍は、ご存知の通り。
 失礼ながら、
 県知事より多忙で、人望も高い。
 8学部、2万人の学生と教職員の
 トップとして、権限もこれまでとは
 比較にならない重責である。

 ご本人によると、
 高岡へ赴任が、火中の栗を拾うことだった。
 おまけに、
 富大学長選挙も2度目の火中の栗。
 勝ち目がないことが、容易に予想できた。

 このトシになって、
 面接試験があろうとは、と
 お祝いの会では笑わせておられたが。
 やはり、過去の大学の改革の実績と理論。
 ほとけの徳さん――のニックネーム通り、
 知的な人柄を、選考委員は見逃さなかった。
 町(当時)の有志に呼びかけて、
 すぐ、お祝いの会をセッテイングした。

 これまでも、
 専門領域を生かして、米のフォーラムや
 米騒動のゆかりの「米蔵」保存運動に
 ご尽力をいただいた。
 
 実は、
 この秋の農水関係全国大会にも
 郷里の先人、松村謙三さんの
 顕彰の講演をお願いしたばかり。
 いよいよ、
 南砺市の顔として、
 出番が生れようとしている。

 
 

 

 かって、松村謙三さんは、
 「政治家の使命は、若者の眼前に炎を
  燃え上がらせることです。それ以外に
  政治の眼目はありません」という
 有名な語録を残している。
 西頭学長は、いま、
 まさに、若者に未来を説くことができる、
 最高の適任者であろう。







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2008年05月31日


 すっかり、
 南砺市の顔になってしまった、
 嵐 龍夫さん(80)
 先日、元気なお顔を
 美術館へ見せられた。2年ぶりである。

 実は、富山写真語・万華鏡の
 176号「樹皮」にご登場いただいた。
 人柄もあるけれど、その風貌が、
 北陸銀行さんの目にとまり、昨年の
 創業130年記念のCMのモデルになった。
 北陸だけでなく、北海道まで
 この笑顔がコマーシャルに流れていた。



 立野脇の小矢部川上流で、
 写真家・風間耕司さんの隣からスナップ。
 ポスター、チラシに登場のシーンである。
 自分の持ち山で、苦労してシイタケ栽培を。

 浄土真宗の信心の篤い、
 平成の妙好人でもある。



 現在も、干ししいたけを
 週2回、砺波市の昼市で販売されている。

 嵐さんは、18歳のとき、
 志願して海軍へ。駆逐艦の「朝顔」に乗船。
 台湾の軍港キールンから、
 フィリッピン沖海戦に2回も出撃。
 九死に一生を得て奇跡的に帰還。



 戦後、太美山村長の祖父に引き続いて、
 山仕事ひとすじ。
 まだ、杉材が高価だったころである。
 その後、シイタケ栽培に切り替えて、
 今日がある。


 山のくらし、中でも絶えようとしている
 樹皮の文化、民俗の貴重な記録をまとめた。
 関係方面から、絶賛された特集である。
 縄文時代以前から、我われ先人が守ってきた、
 森の恵みを、どう後世に伝えることが、
 可能かを悩みながら、取材した。



 実は、4月19日の開会式には、
 重症の風邪で出席は叶わなかった。
 10日間も飲まず食わず。
 救急車で担ぎこまれる。
 それでも療養中は、
 娘さんが届けたポスターを
 毎日眺めながら、なんとしても恢復して、
 100景展を見に行きたい一念で、
 ようやく実現したのだったとのこと。
 
 この日、ずっと取り上げられていた、
 免許証とキーがもらえたと、うれしそう。

 いい冥土のみやげができたちゃ。
 いつ死んでも本望や。


 ダメダメ。南砺の顔さん、
 がんばってもらわなくっちゃ。

 



 






 

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2008年05月17日
 今回の「忘れ得ぬ人」
 ちょっと変わって、
 まだお会いしたことのない、
 3000年前の縄文人です。
 まちがいなく、
 南砺市のご先祖さまです
 本籍地は、
 南砺市井口地区です。


 いま、福光美術館で、
 異例の展示品です。
 南砺の100景展
 写真家の、
 風間耕司さんが撮影した
 井口出土の縄文土器
 「イノシシ形注口土器」の
 モノクロ写真が飾ってあります。
 その前に、
 陳列ケースに入った、
 実物の土器も展示されています。

 富山県埋蔵文化財センターの
 格別のご好意で、
 お借りすることができました。

 センター発行の「埋文とやま」92号に
 くわしく報告されています。
 日本で唯一
 貴重で珍しい縄文土器です。

 昭和54年の遺跡発掘調査で、
 イノシシ形の注口土器が発掘されました。
 液体(お酒や灯油など?)を入れた、
 縄文土器ですが、
 イノシシが口を空けた造形は
 いま見ても、立派な現代アートです。
 南砺の3000年前の、
 優れた無名の?芸術家がいました。

 井口という地名は、
 案外、この「猪口」から付いたのかも。

 同じく、
 立野ヶ原遺跡から出土の、
 メノウの石器も展示中。
 これは、なんと、
 3万年前の南砺市民の作品です。

 6月8日(日)まで開催です。
 火曜日定休。中学生以下は無料。


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2008年04月29日
 南砺に春を呼ぶ「歓喜」の夕べ。
 あれから1ヶ月。
 大テーブルいっぱいに積み上げていた、
 資料を整理していたときに、
 井波小学校合唱部から、ずっしりと
 分厚い便りが届きました。


 第九を歌ったときは、
 3年、4年、5年生の40人。

 いまは6年生になった、樹里ちゃん。
 私たちは、ドイツの人と歌ったり、
 玄楽器とあわせて歌うのがはじめてでした。 
 とても楽しかったです。
 グーテンターク!
 ドイツの合唱団も
 このちびっ子合唱団がお気に入り。
 子どもたちも、しっかりあいさつを覚えて、
 ちゃっかり交流していました。


 同じく6年生の薫ちゃん。
 いろんな体験ができて、
 とても勉強になりました。
 何よりもおどろいたのは、座席に
 お客さんがあふれていた事です。
 あんなにたくさん来てくださったのは
 初めてですごくうれしかったです。


 そのほか、32人もの
 作文が書かれています。
 最初は、
 ドイツ語と楽譜を見て、こりゃダメだと
 あきらめそうになったり、
 巻き舌の発音練習をくりかえし、
 家でCDを聞き、
 学校の行きかえりにも、
 必死に練習したこと
などがつづられています。
 そうして、
 みんなが暗譜で覚えたことも。

 大人と一緒に歌うのに
 びっくりしたり、
 カウフボイレンの歌声にうっとり。
 弦楽六重奏に合わせたこと
が、
 とても新鮮な体験だったようです。

 超満員の客席に感激し、
 ソリストの迫力にびっくり。
 うまく歌えたことに
 全員がうれしかったと書いています。


 家族が来てくれたこと、
 これからもめったに体験できないだろう、
 自分が、がんばって、
 大きい声で精いっぱい歌えたこと、
 そして、成長したと実感しています。

 小学生が本場のメンバーと、
 一緒に歌う第九は
 おそらく日本で初めてのこと。
 きっと、
 小さな南砺市民たちの
 未来に対して、
 大きなプレゼントに
 なったことでしょう。


 指導の先生、保護者のみなさん
 スタッフのみなさん、
 ありがとうございました。

 

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2008年04月19日



 これは、終戦直後
 立野ヶ原の開拓と水田化のために
 完成された、是ヶ谷溜池である。
 このあたりは、丘陵地帯のため
 水が慢性的に不足していて、
 いくつもの溜池が作られていた。
 最も大きいのが、桜ヶ池である。

 この医王山が映り込んだ
 神秘的な溜め池の写真撮影は
 風間耕司氏によるものである。




 南砺の100景展で
 最も話題を集めている作品。
 立野ヶ原出土の、
 3万年前の新石器時代の
 立野ヶ原型ナイフ型石器
 メノウ製のするどい石器である。
 会場には、
 県の埋蔵文化財センター所蔵の
 現物も特別展示され、
 話題を集めている。



 風間氏(写真手前)は、
 45年前に、東京から、富山の魅力に魅かれ
 富山へ移住した、商業写真家。
 コマーシャル・フォトのプロである。
 レベルの高い技術とともに、
 第二のふるさと、富山に
 写真によるメッセージを
 送り続けている。

 実は、彼とは半世紀近くの
 仕事のパートナーである。
 二人で、仲間の写真家・関口照生と
 女優・竹下景子さんの
 仲を取り持った、不思議な縁もあり、
 竹下さんも
 今回の開会式に応援のため
 ドラマ収録を中断して駆けつけた。


 富山写真語・万華鏡などでは、
 とりわけ、南砺地方の取材が多く、
 おそらく、
 どんな南砺の市民よりも、
 風間氏は南砺市を知り尽くしているだろう。
 そして、
 いま南砺市のかがやきを
 内外に発信し続けている。

  ふるさと南砺市の
 知られざる姿を
 発見するためにも、
 ぜひ、
 風間ワールドを
 美術館でご覧いただきたい


 


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2008年04月06日
 この公式コラム「忘れ得ぬ人」で、前回
 はじめて一回お休みしてしまいました。
 夕べも生誕100年記念でBSで特集していた、
 カラヤン指揮、ベルリンフィルの、
 1983年・第九の4楽章を聴きながら、
 この記事を書いています。






 ゴットフリート・ハーン
 1945年、カウフボイレン市生れ。
 ミュンヘンでクルト・エンゲルトに師事する。
 1968年より名門・シュトウットガルト放送交響楽団
 のチェリストを務めるかたわら、
 50年前に父親ルードヴィッヒ・ハーンが創設した、
 カウフボイレン市のマルテインスフィンケン教会
 専属合唱団の常任指揮者も引き継いだ。
 つまり、南ドイツのトップのアーテイストであり、
 室内楽と合唱団の二つの世界で活躍されてきた。
 もちろん、両者が合同で公演されたことはない。
 南砺市で、初めて実現したことになる。
 
 結果として、ハーンさんは
 両方掛け持ちで大活躍の忙しさとなった。


 ハーンさん親子が、
 手塩にかけて育てられた、合唱団。
 福野ヘリオス公演で、多くの方々に
 感動していただいた。
 南砺中央病院ロビーでの
 チャリテイーでは、患者の皆さんからも、
 とても喜ばれたという。




 第九では、チェロ奏者に。(赤いチェロ)


 記念すべき、「歓喜」の夕べ。
 フィナーレ、カーテンコールに際して、
 実行委員会から、ハーンさんにも
 感謝の花束が贈られた。

 実際のハーンさんは、とてもシャイで、
 いつも静かにほほえんでいる方。


 2つのドイツの音楽グループが、
 南砺市で合流して、役割分担するという、
 離れ業は、スケジュールを運営する側として、
 実にややこしい作業であった。
 なぜなら、ハーンさんが、
 あちら、こちらで立場を変えて出演されるから。
 帰りのバスは、名古屋へ。
 2台に分乗の予定を、ハーンさんの希望で、
 両者一緒に名古屋へ向うことができた。

 南砺に
 2つのホンモノの音楽を
 ありがとう、ハーンさん。
 また、お会いしましょう。


<蛇足ながら>
 ギャラの支払いに悩んだ。シュトウットガルト
 ゾリステンはプロ。
 カウフボイレンはアマチュア。
 さて、指揮者も兼ねたハーンさんのギャラは?

 プロデユーサーの小出さんに相談したら、
 なんと、弦楽六重奏のメンバーは、
 出演のあるなしにかかわらず、
 6人公平に分配するのだという。
 30年間、結束して活動するひとたちの、
 素顔をこのたび、かいま見て感動した。
 


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2008年03月08日
 いよいよ、南砺に春を呼ぶ
 「歓喜」の夕べ
です。

 南砺市合併の際、第九をという声が
 あったそうですが、このほどようやく実現します。
 企画段階で、井波小学校の山田先生が、
 「うちの子どもたちにも、第九を歌わせたい」

 ええーッ!?
 思わず絶句、関係者も顔を見合わせました。
 楽譜も読めない。ドイツ語の原語で?
 声の質は合うのか?日数が足りない。
 前例も聞いたことがない。


 ところが、さすが音楽の教育現場の経験者の
 みなさんが、子どもの素晴らしさを信じて、
 挑戦することに決定しました。

 成人の7つの合唱団による合同練習は
 昨年暮から久田 潤先生の楽しい指導で、
 着々と仕上がっていきます。

 子どもたちは、学校行事の発表会が済んで、
 やっと2月から、練習開始です。
 大丈夫かいな?



 心配になって、新聞社の記者と
 練習風景をのぞきにいきました。
 3年生〜5年生の40人です。
 いやはや、その透明な美しい声。迫力!。
 天使の声というのは、
 こんなのを言うのでしょうか。
 思わず涙がこぼれそうになりました。
 ベートーベンが聴いたら?(でも、彼は
 この頃には耳が聞こえませんでした)

 資料を調べていましたら、ベートーベンの
 この第九の初演の合唱団員は100名もいません。
 大半がアマチュアで、少年合唱団も
 20数名参加しています。
 ソプラノとアルトを担当していました。

 
 南砺の第九は、ベートーベンも副指揮していた、
 初演より2倍の人数なのです。

 

 富山県の合唱コンクールで金賞、
 中部ブロックで銀賞。その子どもたちの
 怖いもの知らずの挑戦を続けているのが、
 指導の山田和美先生です。
 子どもたちを信じていればこその、
 練習風景でした。


 24日、そして3月2日と、
 大人たちとの合同練習です。
 最初は始めての経験で戸惑っていましたが、
 次第に、場の雰囲気に馴染んで
 いい声が出始めました。


 子どもたちは楽譜はまだ読めません。
 大人と同じ楽譜のカタカナの歌詞を
 メモしながら、あっという間に覚えてしまいます。
 指揮者の顔を見ながら歌えるのです。
 まあ、暗譜ですね。
 それを見た大人たちは、参ったなあ、と
 こぼしていました。

 いよいよ、春が近づいてきます。
 




 

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2008年02月23日
 
 南砺市内外に、貼られている
 ショッキング・ピンクのポスター。
 南砺に春を呼ぶ
 「歓喜」の夕べ

 あと、一ヶ月となりました。


 ベートーベンの第九、その第4楽章「合唱」
 歓喜の歌とも呼ばれる名曲の
 作詞者は、シラーです。
 200年前、フランス革命のあと、
 ヨーロッパ全土は、新しい時代の到来に、
 熱狂していた頃の詩ですから、
 ベートーベンは、この詩に熱い想いを持ち、
 30年間暖めて作曲したのが、
 この第九、歓喜の合唱曲です。
 歌詞もそうですが、合唱を聴いているだけで
 気分が高揚してきます。歌っている人は
 なおのことですね。
 (練習の雰囲気でわかります)


 南砺市の3つの文化ホールを結んで
 連日素晴らしいコンサートが開かれる。
 そのきっかけを作ったのは、
 南砺市合併の際にヘリオスで公演した、
 シュトウットガルト弦楽六重奏のみなさんです。

 シラーは、南ドイツの中心都市である、
 シュトウットガルト市がふるさとです。
 (4年前に行きました)
 ダイムラー・ベンツの本社があります。
 かって、ヒットラーは、このヨーロッパ随一の
 美しい都市を爆撃から守ろうと必死になり、
 連合軍は徹底して破壊しました。
 戦後、市民はみごとにむかしの姿に復元しました。
 森に包まれた中心部に2000人収容の
 ベートーベンホールがあり、
 ベルリンフィルに次ぐ、有名な100人近い編成の
 シュトウットガルト・オーケストラがあります。
 その主席奏者たちが、今回のみなさんです。

 いちばん手前のヴァイオリンが、
 アルベルト・ブーゼンさん。モニカ夫人と同伴。
 このほど、ドイツからプロデューサーの
 小出さんを通じて、連絡が入りました。

 南砺市・じょうはな座や第九での演奏を
 大変楽しみにしている。
 ついては、予定より一日はやく南砺市へ入りたい。
 そのぶん、自費で払うからとのこと。
 体調をととのえ、しっかり練習もしたい。
 30年もの呼吸のあった、世界トップのメンバー。
 それでも、直前まで練習し、みなさんに
 いい音楽を楽しんで欲しいという理由です。
 (宿は取りました。ブーゼンさんは、
  胸の重い石が取れたと喜んでいます。)
 彼らの音楽に対する真摯な姿勢に感動します。
 メンバーの弦楽器は18世紀の名器ばかり。
 信じられないような素敵な音です。
 プログラムも、
 今回はめったに聞けない名曲揃いです。
 じょうはな座は、室内楽にぴったりです。

 東京も大阪も興味なし。
 風光明媚な南砺市へは今回が4回目、
 南ドイツとよく似た、この地が大好きな
 メンバーを、満席で迎えたいものですね。
 


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2008年02月09日


 去る、1月26日に
 砺波市のチューリップ四季彩館で、
 成瀬有紀「萌」展がオープンしました。
 モダンアート協会会員推挙と、
 棟方志功献花展25周年の記念展です。

 会場を圧倒する、オブジェ「萌(もえ)」
 さすが草月流師範です。
 年齢を感じさせません。(失礼)
 各方面から、予想以上の
 お客様で埋まりました。




 かって、利賀村で
 無謀ともいえる「世界そば博覧会」が
 開催され、大成功を収めました。
 そこで、会場で展開されたのが、
 成瀬さんの、会場のオブジェでした。

 旧井口村の
 むらおこし事業で、
 椿によるむらおこしを提案しました。
 そのときの、記録写真です。
 (私が撮影しました。)


 その会場のメインデスプレイは
 いつも、成瀬さんの社中による
 椿のオブジェの大作です。
 棟方志功ゆかりの、
 光徳寺でも、つばき祭りを
 境内、寺院内いっぱいに
 展示されてきました。


 棟方志功記念館の
 愛染苑で、
 なんと25年間も献花展と、
 館内に花を生けてもらってきました。
 感謝、感謝以外、ことばはありません。

 愛染苑は、
 街中の小さな美術館。
 年間1万人近いお客様が見えますが、
 その7割が県外客。
 クチコミだけで、全国から
 ムナカタファンがやってきます。
 県内に、こんな文化施設はありません。

 それも、成瀬さんの華のおかげでしょう。
 



 

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2008年01月26日


 南砺の平野のどこからでも望める、
 とんがり屋根のような桑山。
 そのふもとの雑木林をバックにして、
 白いレストランがあり、その隣にある
 玄太グラス工房

 レストランのランチの折には、
 たいていこの工房を覗くことにしている。
 真っ赤なガス炉から、
 溶けたあめのようなガラスを頻繁に、
 出し入れする、鈴木玄太さんは、
 いつ見ても、髭面に汗びっしょり。

 1971年、京都の有名な漆芸家の
 長男に生まれる。36歳。
 ガラス工芸の道を志して、スエーデンの学校や
 スイスのグラス工房、ニュージーランド、
 ドイツの先生、
 イタリアのヴェニスなどの工房で
 いわば、武者修行の日々を重ねる。

 旧福光、川西に工房を構えたのは、
 なんといっても、南砺の風光
 「ここの風がいいんですよ。
  立山連峰も遠望できるし。」
 奥さんのちなみさんも、
 絵に描いたような、パートナー。
 
 富山市でも公的なガラス工房が
 活発な活動を続けている。
 チェコからの先生や、すぐれものの
 教授陣とも、ずっとお付き合いしているが、
 どちらかというと、芸術志向である。
 しかし、ここ玄太グラスは、
 日用品としての作品づくりをめざす。

 しかし、その作品は、芸術の域である。
 東京や大阪、京都など大都市の
 一流百貨店で、個展を開いて販売される。

 工房のなかのギャラリーに展示されているが、
 結構な値段である。
 でも、仕事ぶりや、完成度の高い出来は、
 当然という気がする。
 事実、何点も購入して愛用している。

 北陸特有の気候も人間性も、
 じとっとした風土にあって、
 いつも明るく、制作を楽しむお二人は、
 南砺に、新しい、
 創造の風を吹き込んでくれるだろう。
 


 
 

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2008年01月12日


 ちょうど20年前。
 平成と年号が変わった4日目の、
 1年1月11日の午前11時。
 
みごとに、ぞろ目の
 忘れられない、記念すべきとき。

 利賀村とネパール王国ツクチェ村の
 友好村提携の調印式が現地でなされた。
 この写真は、私が撮ったものです。

 調印直後、好天でありながら、
 ヒマラヤの山上からひらひらと、
 白い雪がふりかかった。
 村の道場主でもある村長は
 「散華だなあ」と感慨を漏らされた。
 

 そばによる、国際交流をめざし、
 利賀村から友好交流調査団の団長として、
 大変な苦労をしながら、調印に
 こぎつけたのが、当時の村長
 宮崎道正さんである。

 前任の村長、野原啓蔵さんが立ち上げた、
 そばによる、むらおこし。
 そば祭りが大盛況であったことを受けて、
 宮崎村長がリーダーとなって、
 ネパールとの国際交流をスタートさせた。

 それは、世界初の「そばの博物館」を
 作り上げるための調査が、きっかけだったが、
 ツクチェ村出身のマンダラ画僧、
 サシドージ師との
 出逢いがあって、瞑想の郷づくり、
 世界初の世界そば博覧会へと、
 構想はどんどん、膨らんだ。

 時代も、高度成長の、バブル絶頂期。
 日本も、利賀村も元気いっぱいだった。

 4000人が1000人を切るまでに、
 過疎が進行していた村の
 積極果敢な挑戦は、内外から
 高く評価されるようになっていた。
 すべてが、さきがけ精神で動いていった。

 もし、この村が何もしていなかったら、
 おそらく、利賀村は消滅していたことだろう。
 のどかな、村まつりも見られなくなったかも。

 交流10年目には、友好提携から、
 姉妹村提携に発展し、
 カトマンズの国際会議場で、
 双方の村民が合流して、3日間にわたる
 シンポジュウムも開催した。

 12年目に、役場で不祥事が発生。
 その責任を取って、宮崎村長が退任になる。
 さきがけて、村を牽引してきた日々の
 しめくくりを兼ねて、
 春のツクチェ村への旅。
 それは、両村の共同植林事業でもあった。

 20年という歳月は、二つの村を
 ずいぶん変えてきたが、
 その心の絆は、世代交代しながらも
 しっかりと受け継がれている。
 
 さきがけて  緑の里から 世界へ

 これは、新生南砺市の
 総合計画のスローガンである。
 宮崎元村長は、
 南砺市のさきがけ人のモデルである。




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2008年01月05日



 約70年前、
 南砺の風土を表現した、
 郷土玩具が生まれました。
 福光人形です。

 福光新町出身の彫刻家、松村秀太郎は
 東京美術学校(現東京藝大)を卒業したあと、
 ふるさと福光へUターンしました。
 彫刻家として制作に励む一方で、
 地元に生まれたYM玩具商会(後の太平社)で、
 玩具の設計、デザインを担当します。

 昭和の始め、青柳喜平衛が
 郷土玩具の専門雑誌「べにうし」を編集。
 そのなかで、この北陸の片隅で生まれた
 風俗人形を見つけて、感激しています。

 「たかが一寸五分(5センチ強)の小さな
 木彫人形であるが、北方の山農村の
 生活が浮かび上がってくる。
 厳しい自然の中で頑強に生き抜こうとする
 息吹が感じられる。」

 あかげっと、ばんどり、ござぼうし、
 はんちゃ、うだわら、など
 5体がありました。
 ノミの鋭さ、泥絵の具の素朴さ。
 いま見ても新鮮です。




 いま、湯浅直之さんが、
 棟方志功記念館・愛染苑に勤務のかたわら、
 この復元に取り組んでいます。
 福満天神は、この福光人形の伝統と、
 その技術から制作されたものです。
 ルーツは、鎌倉時代にまで遡ります。



 湯浅さんは、
 ぜひ、このシリーズを完全に
 甦らせるための教室、グループを
 作りたいという夢を抱いておられます。
 興味のある方は、ぜひご参加ください。
 

 



 

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2007年12月29日
 南砺市は、浄土真宗の王国である。
 城端の善徳寺も、井波の瑞泉寺も、
 檀家というものがない。
 それを支えているのが、巡回員という、
 信者の懇志金を集める人の存在である。



 南砺市竹林の
 竹田義治さん(81)
 城端別院の巡回員。
 春の田植えや、秋の稲刈りを終えると、
 城端、福光、井波、福野、戸出、中田
 西部金屋、庄川東、柳瀬と
 かなり広い範囲、小矢部川東側一帯の、
 旧村の世話役を
 懇志金のお願いに回る。
 また、11月の報恩講のお世話もあり、
 真宗王国の貴重な縁の下の人である。
 まさに、平成の妙好人であろう。
 その一方で、
 写真の趣味や、あけぼの会などで、
 ふるさとの歴史や風景を記録されている。

 その、おだやかな笑顔からは、
 想像もできないが、まだ若年のころ、
 海軍へ召集され、
 海上特攻隊員でもあった。 
 終戦間際の「カミカゼ」は
 よく知られているが、海軍にも
 水中、水上、そして戦艦大和のような
 特別攻撃隊があった。
 生きて還れない、悲壮な歴史である。

 竹田さんは、
 水上特攻「震洋」という、木製の
 小型水上艇のへさきに爆薬を満載し、
 敵艦に夜襲をかけるという、特攻である。
 いったん出撃命令が下れば、
 一巻の終りである。

 沖縄戦を目前にして、東南アジアや
 台湾などへ配備されたが、
 もう、その頃には、こんな軽便船でさえ、
 調達出来なくなっていて、
 特攻の機会はなく、
 生きながらえることが出来た。

 農地を耕し、柿を収穫して
 ふるさととともに感謝のこころで、
 ボランティアを続けられる姿に、
 平和のありがたさが体現されている。
 南砺の心、そのものではないだろうか。

 富山写真語・万華鏡の191号
 「となみ詰所」にも紹介しています。
 
 
 
 


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2007年12月15日


 名古屋で、英語の先生をされている、
 小出俟子さん。(こいでまちこさん:右側)
 大学のとき、奨学生として渡米。
 当時、アメリカの大学で講演していた、
 棟方志功の通訳をしたことも。

 お兄さんは、N響の有名な主席フルート奏者の
 ヒゲの小出信也さんです。
 福光・高徳寺で何度も演奏されています。

 来年3月24日から27日まで、
 南砺市のじょうはな座、福野ヘリオス、
 井波総合文化センターを会場に、
 ドイツのシュトウットガルト弦楽奏団、
 同じく、カウフボイレン混声合唱団、
 そして、
 南砺市民との合同「第九」合唱と、
 3つの文化ホールを結んでの、
 音楽イベントが盛大に開かれます。
 東海北陸自動車道の全線開通を前にした、
 プレイベントでもあります。

 小出さんの数十年にわたる、
 個人的なボランティア活動で、
 ヨーロッパの一流アーテイストとの
 信頼関係があり、
 このプランが実現します。

 シュツットガルトは、南砺市で4度目、
 カウフボイレン合唱団は、
 2度目になりますが、
 市民との合同公演や、ホームステイは
 初めてのことです。

 このドイツのアーチストたちは、
 東京や大阪には興味が無く、
 南砺市のような、里山の生活文化のある、
 自然や人情が大好きなのです。
 こころ優しい、楽しい人たちです。


 第一回の練習では、
 メゾソプラノの大成勝代(写真:左)が
 用意したCDで、ドイツの2つの
 メンバーのすばらしい演奏の音色を、
 結団式で聞いてもらいました。

 とかく、あちこちで暮れに歌われる、
 大合唱団の迫力だけてなく、
 本場ドイツのみなさんの、
 澄んだ繊細な音と声を大事にしませんか、と
 提案しました。
 南砺市らしい、第九になりそうです。

 さきがける南砺市。
 そして、世界と交信する南砺市。
 そのためには、小出さんのような、
 南砺市ファンの存在は貴重です。


 

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2007年12月01日


            いつも列車の窓から眺める、
            緑の里の風景。
            五箇山も含めて、
            かけがえのない遺産。
            南砺市の宝ものである。


 さる11月25日に、砺波市の
 ニチマホールで、佐伯安一さんの
 近著の出版記念パーテーが開かれた。
 佐伯さんのことを書けば、
 それだけで分厚い本になってしまう。

 佐伯安一
 昭和5年、砺波市久泉生まれ77歳。
 高岡商業卒、新聞記者、商工会議所、
 そして建設会社総務のかたわら、
 民俗学研究ひとすじで、昭和29年から、
 当時若干24歳で、
 「砺波民俗方言稿」8分冊をガリ版で発行。
 それが、民俗学者、柳田国男の目にとまり、
 高く評価され、ぜひ出版するようにと
 すすめられたのが、 
 「砺波民俗語彙」である。
 柳田国男の最晩年の弟子であった。
 以来、民俗学ひとすじの人生。
 砺波郷土資料館長を経て、
 現在、富山民俗の会代表である。

 最近出版された、この本は、
 長年にわたる庄川水系と
 県西部一円にわたる、散村の
 成立のなぞを、膨大で地道な調査により、
 解明された、貴重なものである。

 世界遺産の合掌民家とならぶ、
 豪壮な砺波平野のアズマダチ。
 日本一の民家であるが、
 それは、比較的近年のことであるという。

 本格的な散居村の成立は、
 篤い信仰心に裏打ちされた、
 一向一揆のころの、爆発的な
 農民のエネルギーとともに生まれたとも。
 また、庄川の暴れ川との、
 闘いの歴史でもある。
 ―佐伯さんの著作から―

 南砺市の旧8町村の町村史で、
 先生の監修がないものは皆無のはずである。
 先般も、利賀村の
 報恩講料理のフォーラムで、
 佐伯先生の解説が大好評だった。

 かれこれ40年にわたる、
 丁寧な指導を受けながらも
 何のお返しもできなかったことが
 悔やまれる。

 とにかく超がつく、謙虚な人柄で、
 自分の眼で、足で確かめたもの以外は
 絶対、文章にされない。
 凡人にはとうてい真似ができない。
 民俗学を超えた歴史学者でもあるが、
 やわらかい話もされる、楽しい先生である。
 その一面、原稿はどんなに忙しくても、
 徹夜しても、締め切りに間に合わされる。

 温厚な先生を、一度だけ怒らせた。
 若いデザイン学生を連れていったら、
 「卒業したら、東京へでも行こうかな」
 という彼女に対して、
 「東京には、あだ花しかない!!」と
 きっぱり。
 地域を愛する先生の哲学である。

 小さな農家のまま、
 お金にならない、民俗学という地域貢献。
 奥さまの介護しながら、
 ご自身も大病を克服された。
 お元気で、南砺市の面倒も、
 現役で見守っていただきたい方である。

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2007年11月17日
 民藝運動は、昭和初年に始まり、
 10年代、20年代にピークに達した。
 バーナード・リーチや、柳宗悦らが提唱し、
 そのなかで、棟方志功も見い出された。

 民芸運動は、その後の日本の工業化社会、
 ものづくり日本に、大きな貢献をしている。
 
 民藝運動とは、ご存知のように、日本だけの現象で
 無名の工人の仕事の美を、過大評価した、
 いわば、いっときの流行であった。
 無名性のいいものは、あらかた蒐集されてしまい、
 実際には著名な河井寛次郎、濱田庄司などの作品が
 もてはやされた。

 柳の活躍したころの蒐集品には、優れたものが
 多い。あとは、いわゆる「民芸調」という駄作である。
 民芸ブームに飛びついた、富山市や南砺の人々。
 工業県で、隣りの伝統工芸の金沢への対抗意識も
 作用したのだと思う。
 これらの人々のご縁で棟方志功は、南砺へ疎開した。
 
 やがて、棟方は南砺の浄土真宗の風土に辟易し、
 民芸の縛りから超越したくて、苦悩する。
 ナムアミダブツや、民芸の申し子のイメージと
 棟方志功の実像には、大きな乖離がある。
         (宇賀田達雄・祈りの人棟方志功)


 そんなとき、棟方の住居・愛染苑に割り込んできたのが
 精神科医の式場隆三郎である。
 時代の動向を巧みに泳ぎまわり、ゴッホの
 精神鑑定のような著作もあるが、
 医学的な実績は皆無である。
 その5年前に、放浪の画家・山下清を見つけ出し、
 世に売り出して、大いに稼いだばかりのときだった。
 なんと、棟方の精神鑑定を手がけ、民芸の
 機関誌に発表までしている。
 結果は、当たり前だが、普通人より飛びぬけて
 才気があり、極めて常識人であった。
 志功を山下清なみに知的障害者扱いし、
 二匹目のどじょうとして、売り出そうとしたのだ。
 これは許せない
 そのために、民芸運動に取り入り、柳宗悦を
 担ぎ出し、南砺まで、足を運んだ。
 終戦間際には、志功に480枚もの不動明王を
 タダで描かせている。軍部の幹部に取り入るために
 プレゼントしたのではないかとされるが、
 依然なぞである。

 民芸を語り、棟方を利用した、うさんくさい
 こんな人物は、式場だけでなく、
 富山市や南砺にもいた。棟方の世話を口実にして
 たっぷり役得をモノにしている。

 南砺を離れて、棟方はその種の人種には
 注意ぶかく距離を置いているし、
 地元と遺族との関係悪化という不幸が、
 長く続く原因となった。
 棟方の膨大な著作の行間には、その不満が
 あちこち見受けられ、証言も多い。

 棟方一家に支援した松井寿美子、石崎俊彦、
 岩倉政治ほか、多くの人たちは、生前
 決して自ら、自慢されなかった。


 民芸運動は、関係者の物故や、高齢化が続き、
 各地の協会や会員も減少している。一定の
 役割を果たしたのであろう。
 それでも過去の精神論にこだわったり、
 南砺が民芸の聖地のように喧伝されている。
 そこには創造というものは見当たらず、
 ただ、名号を唱えて有難がるだけのような気がする。
 棟方をはじめ、河井、浜田、芹沢、黒田などの
 民芸の巨人は、みな作家である。
 クリエーティブのないところに、展望は開かれない。

 個人的には、どうも釈然としない。


 


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2007年11月03日


      雨上がりの
      五箇山は、紅葉。




 五箇山の
 あしたを考える
 ビジョンづくり


 正確には
 南砺市五箇山地域再生ビジョン
 策定委員会。
 正式に発足しました。


 来年の3月末までに
 五箇山の再生プランをつくります。

 はからずも会長に指名されました。
 みんなで農作業の日in五箇山に
 引き続いての
 大事なプロジェクトです。
 林野庁の事業。
 担当は、南砺市企画室。

 五箇山の現状は
 少子高齢社会がどんどん進んでいます。
 新しいシナリオといっても
 たやすいことではありません。
 限界集落だらけです。

 公私ともに五箇山に
 かかわって40年になります。

 どんなにがんばっても、
 五箇山の
 自助努力だけでは、
 再生は不可能です。
 まして、
 これまでのような行政主導も
 きわめてむずかしい時代。
 補助金もあまり当てにならず。

 残るのは
 都市との交流の仕掛け。
 それには、
 五箇山の魅力は何か、を、
 しっかり認識することが
 求められるでしょう


 そんな中で、
 3年先、5年先、10年後を
 展望して生き残り策、
 元気を出すための知恵を
 どうしてまとめるか。

 五箇山地域の3つの地区センターが
 中心になって、意見を集約し
 アンケートなども実施されると思います。
 あなたの
 建設的な提案をどうぞお寄せ下さい。

 五箇山は、南砺の顔
 南砺の源流です。


 五箇山の
 再生のために―。


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2007年10月20日


 こんどのコラムは、いつもと趣向を変えて
 町の再発見のお話です。
 3年前、ちょうどいまごろ、合併直前でしたが
 南ドイツのロイトリンゲン市へ、
 美術館の交流事業で行ってきました。
 中世そのままの、実に美しい町です。
 お城や教会、森に囲まれた夢のようなところ。
 人口10万人ぐらいで
 ベンツの本社のある、シュトウットガルト市の
 衛星都市で、別荘地です。
 (来春、このシュトウットガルトの誇る
  オーケストラの主席奏者による、弦楽六重奏団
  を南砺市に招いています。世界の最高峰です。)
 

 この町は、グリスハーバーという、著名な
 版画家のふるさとで、ドイツの棟方志功と
 いわれています。
 町の中心に、木造で築500年の地上5階
 地下2階の旧繊維工場があり、現在は
 おしゃれなドイツ一ばんの
 木版画美術館になっています。
 そこへ、棟方の版画30点と大賞展の
 100点を展示して大好評でした。

 市内観光のとき、ボランティアのおじさんが、
 世界一せまい小路というのを案内してくれました。
 なるほど、大きい人は通り抜けられません。

 ところで、
 わが南砺市福光の宮脇町から
 新町へ抜ける
 世界で2番目に狭い小路」
 存在しています。


 やはり、二人がすれ違うのが難しい。
 まあ、勝手に私が名付けた世界で2番目です。

 いちど、探検してみませんか。
 きっと、棟方志功さんも
 ここを通っていることでしょう。




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2007年10月06日


 それはまさに事件でした。
 9月15日の
 美術館での開会式で、
 400人が朝から詰めかける。
 お昼にロビーでみなさんが
 弁当を広げられて慌てる。
 午後には会場が最高潮。
 日本の絵手紙の総帥・小池邦夫さんが
 現われて、騒然となる。



 松山出身、東京学芸大の書道科卒。
 初めて「絵手紙」を提唱して40年。
 現在では、講師だけで3万人。
 絵手紙ファンは120〜150万人。
 ほとんど神様のような存在の人。



 2年前に、宇奈月で20周年の
 記念大会のお手伝いしたことから、
 本格的なおつきあいが生れた。
 棟方志功と絵手紙というテーマを提案し、
 大会には、たった一日の締め切りで
 全国から800人の申込みが殺到。
 絵手紙界の凄さを実感した。
 大会では、世界のムナカタについて、
 講演や展示もさせてもらった。
 小泉ちよゑさんにも登場願った。
 昨年は、山梨県の小池美術館へ招待受ける。




 絵手紙の神様
 小池邦夫さんは
 福光時代の棟方志功の絵と書がいちばん
 高く評価されている。
 志功の素朴であり、エネルギーにあふれた、
 その生き方に深く共鳴されます。
 心の仏様として大事にされています。



 神と仏が合体した企画展だから、
 多くの来館者があります。
 じっくり、時間をかけて
 楽しまれる方が多い。



 ―10月28日(日)まで開催―

 五箇山の合掌の村を見たい。
 愛染苑も見たいと所望されました。

 
 以来すっかり、
 志功の芸術を育んだ、
 南砺ファンです。




 

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2007年09月21日


 とかく、民俗学は農山村、漁村の
 人々の暮らしと文化を記録する学問分野でした。
 残念ながら、町の民俗はきわめて少ない。
 その貴重な記録を、このたび自費出版という
 身銭を切って出版された、松村 寿さん。




 お祖父さんは、あの高名な
 政治家・松村謙三さんです。
 最近、風貌が似てきました。
 こよなく、
 この趣きのある新町を大切にされて、
 朝顔通りに育てられました。


 松村 寿さん(70歳)は、
 大学卒業後、東京、大阪の
 大手製薬会社に勤務するも、父親が倒れて
 30年前に、福光新町の家業
 松村薬局を継ぐため帰郷されました。
 (お店の前には、あの有名な
  ど根性サクラが元気です。

          アップでご覧ください。

 登山が好きで、
 ライフワークは日本の登山史。
 新田次郎の名作「点の記」は
 松村さんの著作が資料となっていて、
 この世にでました。現在、
 映画化中のことはご存知のことでしょう。

 昨年、立山の雄山に50年ぶりに登頂。
 大学2年以来で、お祓いを受けたときは
 涙が出たそうです。

 松村 寿さんの
 福光ゆめ散歩」
 

 小さいけれど、おしゃれな本。
 新町界隈の、石垣や清水(しょうず)、
 伝承などが丹念に紹介されていて、
 圧巻は、
 呉服の大店・吉江家のもと番頭さんの
 聞き書きによる記録。
 そして、城端の善徳寺や
 掛け所をめぐる宗教戦争の
 すさまじい歴史です。
 この2編だけでも、
 町の歴史と民俗の論文になっています。

 もとはといえば、
 このnanto-eのコラムの前身、
 いーふく3で連載されたものをもとに
 改稿されたものです。
 (現在でも、いーふくさんの福光コラム集、で
 閲覧できます)

 発行部数は、わずかだったので、
 図書館か、ネットでご覧いただきたい。
 とても読みやすく、
 楽しい郷土史となっています。

 なかなか、この商売も厳しいですよと
 白衣姿で、にこにこ。
 ちょっとお茶をいただくのが
 この通りへ立ち寄る楽しみです。



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2007年09月08日



 昭和23年ころ、
 福光に疎開していた棟方一家と
 親しいお付き合いをされていた、
 詩人の稗田菫平さん(81歳)



 弱冠22歳の詩人で
 小学校の先生だった稗田さんは、
 47歳の棟方志功の家へ
 足しげく通ってこられました。
 棟徑の会主催で、詩の朗読会を
 棟方さんから頼まれて、
 福光図書館で一緒に開いています。
 その夜は愛染苑に宿泊です。



 稗田さんの詩集の表紙を
 棟方さんが描き、
 まだ子どもだった二男の令明さんも
 クンペイさんと慕っていました。
 志功さんは、キンペイちゃんと
 親しく呼んで可愛がり、
 東京へ帰っても泊めています。

 菫平さんは、望んで
 南砺市の僻地教育
 尽くされています。
 小矢部川最上流の「下小屋分校」で
 数名の児童とともに、詩をつくり、
 利賀村の「上畠分教場」で
 児童文学を読み聞かせています。



 現在も、小矢部市の谷あいの
 静かなたたずまいの離れの書斎で
 旺盛な詩作を続けられ「牧人(まきびと)舎」を
 主宰して、出版活動もされている毎日です。

 9月13日は、棟方志功の命日。
 ことしは33回忌にあたります。
 9月14日(金)の午後6時から
 愛染苑で、愛染忌の記念講演を
 稗田さんをお招きして開催します。
 遠く千葉県から、
 棟方の二女・小泉ちよゑさんも
 駆けつけます。
 現在の貴重な、
 ムナカタの語り部といえます。
 
 (詳しくは、美術館友の会52-7576へ)

 奇縁ですが、
 私が20歳直前に、富山の印刷会社へ
 就職したとき、
 菫平さんの実弟のお宅へ
 下宿していたことがあります。
 お兄さんの菫平さんを紹介いただきました。
 そのころからのお付き合いですから、
 半世紀に近いです。
 不思議なご縁です。


 

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2007年08月25日
 高岡市在住の
 本田恭子さん
 年齢不詳。


 月刊の写真誌、万華鏡は
 とやまの自然や風土に魅せられて
 東京から移住して45年の
 写真家・風間耕治氏が精力的に発刊を
 続けている。(ふるさと開発研究所)
 本田恭子さんは、専属スタッフとして、
 最後のページの聞き書きコーナーの
 インタビュアーである。
 最近出た187号は
 「火の見櫓」は、南砺市山田の写真と
 文は、渡辺消防団長が書いている。
 南砺市の火伏せや
 広瀬舘少年消防クラブも紹介され
 各方面の話題になっている。



 10年前、本田さんが取材し
 福光の棟方志功の旧居を取り上げた、
 72号「厠」は、
 大変な反響を呼び、
 個人所有から、町への移管、
 移設と保存のきっかけとなった。
 現在の棟方志功記念館・愛染苑の
 「鯉雨画斎」である。
 このルポ記事のおかげもある。

 本田さんの
 南砺市ルポのあしあと

 その一部。

 72号 「厠」元福光・土居邦男さん
 93号 「栃」平村・鉢蝋孝一郎さん
 99号 「仏壇」井波・南部白雲さん
 106号 「木彫」利賀・中谷仁太郎さん
 116号 「小さな街の物語」
      福光新町・松村栄吉さん、松村寿さん
 123号 「花街」福光観音町・松風苑の
      斉藤文治・美華子さん夫妻
 138号 「とやまの美」城端町商工会
 141号 「かくれ湯」川会合田温泉の
      おばあちゃん、山田幸子さん
 142号 「白の美学」城端・小原治五右衛門さん
 145号 「雪語り」刀利出身・南源右衛門さん
 145号 「とやまの椿」井口を特集
 156号 「刀利」滝田君子さん
 164号 「屋敷林U」高宮・成川権士郎さん
 168号 「立野ヶ原物語」土生新・奥野潤治さん
 180号 「塩の道・塩硝の道」
      利賀・中谷信一さん 

 もう際限がない。記事や写真で南砺市が
 登場するのは、数百点になる。



 本田さんのルポでの代表作。
 35年前に、上平・越中桂の廃村を
 取材した「美しい富山」という、
 環境問題を扱った仕事である。
 日本新聞協会広告企画賞のグランプリ。
 境川ダムの湖底に沈む直前のこと。
 この記事の翌日、
 連合赤軍ハイジャック事件が起きた。

 40年前、富大文学部卒、
 喫茶店でアルバイトしてたころ、
 広告会社へスカウトした。
 あっという間に
 トップのコピーライターになり、
 CMプランナー、映画のシナリオライターに。
 以来の仕事仲間である。

 富山写真語・万華鏡は
 毎月初めに発刊、書店売りはしない。
 (福光美術館にあります)
 たいていの読者は
 本田さんのルポ記事から読み始める。
 マスコミや著名人たちに
 隠れた本田さんのファンは多い。
 その本田さんは、南砺のファンでもある。

 本田恭子さんは、現在いくつもの顔がある。 
 環境教育、アースデー、きんたろう倶楽部
 富山大学講師、そして
 NPOグリーンツーリズムとやまなど
 10いくつの肩書きで飛び回っている。

 南砺市で、
 「こんにちわ〜」と明るい声で、
 次はどこへ現われるのだろうか


 ※バックナンバーをご希望の方
  若干残部あります。
  

 
 

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2007年08月11日


 この一枚のカラー写真が
 すでに演劇で
 世界のTOGAになっていた利賀村を
 ふたたびひっくり返すことになる。

 今回のコラムのテーマは
 信州大学の農学部
 氏原暉男教授(現在は名誉教授)

 利賀村の伝統的な行事、そば会。
 それをテーマに、むらおこしが始まった。
 (私は、そのときからのアドバイザーでした)
 第1回そば祭りの衝撃的な成功。


 本格的に、そばを勉強しょうというとき、
 お招きしたのが、氏原先生。
 講演の最後に見せられたのが冒頭の
 この1枚のカラー写真。 
 そばの原産地のひとつ、ネパール山中
 ヒマラヤでは、こんな紅いそばの花が咲くと。
 聞いていた村民は、眼がテンになる。


 好奇心旺盛、行動力抜群だけがとりえの
 利賀村民は、すぐヒマラヤ山中の
 ツクチェ村へ。リーダーは氏原先生。

 実は、氏原教授は、
 そば研究のフィールドがこのツクチェ村。
 ほとんど村民だったのである。
 よせばいいのに、利賀村がヒマな正月に
 行ったのはいいが、現地は亜熱帯とはいえ、
 厳冬期のヒマラヤ。数千メートルでは
 吹雪で大荒れだったのである。
 飛行機も飛ばない。馬に乗って
 北極を行くような旅が続く。
 とにかく寒くて、
 夜は眠れなくみな震えていた。


 一週間遅れで、やっとたどり着いた村。
 そのとき、昭和から平成になっていた。
 利賀村とツクチェ村の友好村調印式。
 後で見守っていた氏原教授は、
 そっと涙を拭いていたのが印象的だった。


 利賀とツクチェの国際交流は全国に知られる。
 そして大胆にも
 第1回の世界そば博覧会へ。
 1000人足らずの村へ13万6000人がやって来た。

 そばの研究所のあるスロベニアの
 そば博士など10ヶ国、全国20余りの
 自治体や団体が
 この一ヶ月間、利賀村へ。
 
 そば打ち段位認定の
 全麺協もこれがきっかけで発足。





 8月4日の、みんなで農作業の日in五箇山で
 そばの種まきを指導される氏原教授。
 この9月に、利賀村で
 全国初の全麺協そば打ち名人
 五段位認定が開催されるが、
 これも、氏原さんがいたから実現した。

 応援に駆けつけた、
 白鳥製粉の社長(左)と
 そば打ち日本一の上野藪そばの鵜飼さん。
 日本のそば界の第一人者たちは
 みな、氏原先生をあたたかく見守っている。

 「利賀村では、うっかりモノが言えん。
  すぐ、その通りにやっちゃうから怖い」
 相変わらずのユーモアあふれる毒舌は健在。
 酒量も変わらない。
 もう20年にわたるお付き合いが
 つい、昨日からのように思える。
 
 南砺市の大切な現役ブレーンなのである。








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2007年07月28日


 不思議な電話がかかってきた。
 小学校のときの先生で、
 埼玉県にひとりでお住まいの
 上田トミ子さん(85)
 小学校2年の2学期から7ヶ月間だけ
 教わった。当時山中姓だった。
 なんと、60年ぶりのことである。
 (上記の写真・右下、昭29)

 (写真は18年前)
 富山県の教職員厚生会の発行する
 退職教職員むけ機関紙「旧友」に
 頼まれて、福光時代の棟方志功のことを
 書かせていただいた。
 それを見て、もしや、と館へ電話があった。

 南砺市で30年、教鞭を取られた
 上田先生は、まさに当時の困難な
 日本の時代を体現されてきた。

 お父さんは、旧広瀬舘村出身。
 棟方志功と同じころ、東京から戦渦を避けて
 疎開されたが、ご本人は女子師範を出て
 教職につき、学童集団疎開引率で山梨県へ。

 終戦。
 帰京しても、心細い20歳そこそこのこと、
 両親の住む福光へ初めてやって来た。
 研修医として九州に勤務の夫と別居。
 おなかには子どもを宿していた。

 病を得た両親、学生の弟。
 すべてがトミ子さんの肩にかかる。
 教職に復帰した最初が
 私の母校・東太美小学校で、
 2年2学期まえに結婚退職された先生の
 リリーフであった。
 都会育ちには、何もかも珍しく、
 おしゃれな東京の職員室とちがう
 野暮ったい男先生にがっくり。
 でも、田舎の子どもたちは純朴であった。
 新しい先生が宿直室で、
 休み時間、赤ちゃんに授乳されていたのを
 かすかに覚えている。

 「大きくなったら何になる?」と聞かれて、
 「ボクは大工さんになるんだ」「なんで?」
 「おいしいごちそうが食べられるから」
 建具大工でもあった私の父は、
 建祝(たちまい)で
 ごちそうの折詰をもらってくる姿を見て、
 あこがれたのか、ひもじかったのか。
 恩師は笑いながら教えてくれた。

 結局、不本意ながら夫と別れ、
 両親と弟、一人息子の面倒を見るため
 仮住まいのはずの福光で、
 生活のために30年を過ごすことになる。
 西太美小、太美山小、広瀬舘小、
 そして石黒小学校で教えた。
 いまも相当数の教え子が活躍中のはずである。

 1人息子さんは福光中、高岡高を経て
 早稲田に合格するも、お金のかからない
 東大に挑戦する。母親思いである。
 医者になるべく、苦労のすえ東大医学部へ。
 当時、東大紛争の真っ只中に巻き込まれ、
 若い情熱が学生運動へ駆り立てる。
 母親が留置場へもらいうけになったりして、
 理解ある母親の愛情から、心気一転勉学に復帰、
 請われて三井記念病院、埼玉医大を経て
 さらに帝京大医学部教授として活躍中である。
 
 両親、兄弟、息子の世話のために
 心ならずもいまで言うシングルマザー。
 波乱の人生を、南砺の教育にささげた半生。
 
 お孫さんが3人。しかし、埼玉の自宅で
 ひとり悠々の生活とのこと。

 
 「南砺の風土。
 なつかしいわあ。
 第二のふるさとは
 忘れられません。」

 




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2007年07月14日


 南砺市を中心に、
 広く富山県、北陸にわたって、
 児童文学の第一人者であった

 石崎直義さん
 旧福光町天神生まれ、
 巴御前ゆかりの、巴松の向いに住まいされていた。
 土山小学校校長など37年間、教職に。
 その間、
 児童文学を柱として、
 郷土史、民俗、短歌など幅広く
 活躍され、民話の採集では第一人者として
 著作も多く残されている。

                 撮影:池端 滋

 学者というより、
 子ども好きのおじいちゃん、という
 やさしい風貌がトレードマークだった。

 民話の語り部、
 子どもの遊びについては
 ほんとに童心に帰ってしまう人。
 新聞の企画特集などのとき、
 どれだけお世話になったかわからない。

 昨年の秋、
 石黒保育園で、紙芝居の
 「ちよゑちゃんとパパとだまし川」が
 初めて上演され、
 子どもたちだけでなく、高齢者にも
 大いに受けたが、
 そのとき、福光では、
 20年前から、石崎直義先生の指導で
 地元の民話をテーマにした紙芝居の
 創作、上演(読み聞かせ)運動が
 すすめられて来た事を知った。
 私の母親が晩年に
 短歌の指導を受けていたことも
 後になって知った次第である。
 
 検索しても、 
 先生を顕賞する伝記のような
 文章は出てこない。
 しかし、著作物のリストはどっと出る。
 忘れてはならない人である。
 
 平成3年没。



 

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2007年06月30日


 終戦まぎわに福光へ疎開した、
 棟方志功の小さな家。
 現在の愛染苑の場所である。

 いろんな花が年中咲き競うこの庭を、
 棟方志功は、こよなく愛した。
 その向かいに移築された住居。
 鯉雨画斎。(りうがさい)



 全国からここを訪れた文化人たち。
 そこにいつも姿があったのが、
 野村玉枝さん

 明治44年、立野ヶ原の北端、
 旧東太美村土生新、字矢留の
 吉井家4女として生まれた。

 東太美小学校では、
 新進気鋭の若き、北大出身の歌人
 荒井美蔦香と出会い、
 10歳にして短歌を学ぶ。
 福野の商工会の西能さんの叔母にあたるはず。
 県立富山高女高等科卒、歌人の
 佐佐木信綱博士に師事。
 昭和10年、陸軍歩兵大尉・野村勇平と結婚。

 13年に中国で戦死、古い言葉で戦争未亡人に。

 それからがすごい。
 2児を預けて、東京の教員養成所に学び、
 歌集「雪華」を出版する。

 (福光図書館蔵、昭和16年出版)
 その切々とした銃後の歌の数々が
 全国的な大反響を呼び、戦意高揚に利用され
 各方面にもてはやされる。
 そのことが、戦後教職追放につながり、
 教職員適格再審査でたたかい、
 教壇に復帰、歌人、画家、作家としても
 その才覚を発揮し、
 疎開の棟方志功、作家の岩倉政治らの
 福光、城端の文化人サロンの
 マドンナとして、華やかな一時代をつくった。
 南砺地方随一の女流文化人として振る舞い、
 棟方志功は、玉枝さんの言葉をもじって、
 「われわれ文化人というのは…」と
 よく冗談の引き合いにしていたそうだ。
 JR福光駅に飾られた、棟方グループの
 写真にしっかり写っている。


 昭和38年に小説「石楠花の花」を発刊。
 装丁は、東京へ帰って10余年の
 あの棟方志功である。
 多忙で売れっ子になっていた志功は
 この種の依頼はすべて断っているが、
 野村玉枝さんだけは別格である。
 福野高校での教え子に
 富山歌人連盟の事務局長・米田憲三氏がいる。
 庄川町では、文化協会、美術協会で活躍。
 鄙にまれな、才女で美人で有名な存在だった。
 南砺市には薫陶を受けた人は多い。

 余談であるが、玉枝さんの生家は
 私の実家から歩いて5分。
 母も遊んでもらっていた。
 現在のつれあいの母親とは、
 富山高女以来、晩年までの親友で、
 「石楠花の花」の長編小説の
 「母子寮の灯」にモデルになっている。
 幼いときの、わがつれあいも
 書き込まれていた。奇縁である。

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2007年06月16日



 ずしり。
 何キロあるのだろうか。この冊子。
 金沢市の矢来千代子さんから送られてきた
 書籍小包を手にし、開いてみて驚嘆した。
 A4判 986ページ。
 
 松本直治と茂子の
 愛の軌跡


 松本直治
 明治末年生まれ、大正、昭和、平成と
 4代を生き抜いてきたジャーナリストである。
 福光町生まれ、
 東京新聞記者、陸軍報道班員として
 戦争中のマレー半島へ。
 帰国後、疎開したふるさとで、
 北日本新聞、北陸夕刊役員を経て、
 北日本新聞取締役編集局長、論説委員長として
 論陣を張り、健筆をふるい、
 現在も活躍中のマスコミ幹部など、
 数多くのジャーナリストを育てた。

                        撮影:池端滋・魁百首より

 上掲の冊子は、57歳から13年間にわたって
 執筆されたコラム3,724編である。
 並外れた愛妻家で、妻の茂子さんの
 80歳から毎日作られた句も1000あまり載っている。
 どのページを開いても鋭い批評や、
 なつかしいテーマが綴られていて、
 大事に座右の書としたい。
 とやまの当時の貴重な記録集でもある。


 従軍記者仲間には、井伏鱒二や、
 天と地の海音寺潮五郎、宮本三郎、
 藤田嗣治など錚々たる顔ぶれ。
 復員して、福光に疎開しても反戦の意志を
 強く秘めていたため、官憲の監視を受けた。

 棟方志功との出会い
 

 松本の母親の実家は、鍛冶金物店。
 城端線の車内で、異様な風体の男が
 室生犀星の詩を吟じて、女子高校生が笑う。
 同じ福光で下車、後をついていくと、
 なんと、自分の実家へ入っていくではないか。
 それが、鍛冶さん宅の2階を
 アトリエとして借りていた、棟方志功であった。
 (長部日出雄著『鬼が来た』にも記載)

 
この奇遇と、
 同じ疎開者ということで
 意気投合する。
 昭和23年に、南砺市の立野ヶ     原開拓団へ
 昭和天皇が巡行されたときの
 新聞の随行記を、
 棟方と、作家の岩倉政治を
 起用したいきさつを直接聞いた   ことがある。
 棟方は、天皇陛下万歳。岩倉は、プロレタリア
 作家という、マスコミ人らしい左右のバランスを
 取ったんだと笑っていたが、
 この二人、棟方と岩倉は終生、仲がよかった。

 退職後も、ジャーナリスト人生に
 さらに磨きがかかる。
 東海村の被爆で失った、31歳の一人息子の
 原発死の刊行、
 従軍経験をもとに、反戦を訴える
 大本営派遣の記者たちなどを
 精力的に出版を続けられた。
 私の当時の仕事場へふらりとやってきて、
 10分ほど雑談。それが、翌日の新聞コラムに
 見事に書かれていて、その筆力にいつも
 驚かされたものである。
 その風貌から、お茶を出す女性社員は
 おっかなびっくりであった。

 そういえば、あの松村謙三も、
 出発は新聞記者であった。

 松本さんの姪である金沢在住の矢来さんは
 富山市の膨大な遺品を整理し、
 2年がかりで記録にまとめられた。
 頭がさがる思いである。


 




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2007年06月02日




 いま、
 南砺市の風物詩となった、
 立野ヶ原の
 イチゴ狩りの郷

 毎日、遠くからやってきた
 子どもたちの
 歓声がひろがる、
 平和そのもののような郷である。



 このイチゴ狩りの会場のすぐ近く、
 監的壕(カンテッコウ)というのがある。
 軍国日本の負の遺産である。
 明治32年、この東太美村というのが
 70%陸軍演習場に強制接収された。 
 昭和20年8月15日の終戦まで
 北陸地域で数百万人の若者が、
 ここで演習にあけくれて、戦場へ。
 いま地元の方々の協力を得て、
 数年がかりで記録をまとめています。

 


 ここで演習していた青年将校が
 後の陸軍参謀、後の参議院議員
 辻 政信
 これまで、南砺ゆかりの
 素晴らしい人たちばかり
 紹介してきたのですが、
 この男だけは、書きたくない人物です。
 日本をめちゃくちゃに壊した超A級戦犯です

 石川県の現加賀市の東谷奥村の炭焼きの家に
 3男に生まれ、陸軍士官学校を主席で卒業。
 陸大も3番で出て、東条英機に可愛がられる。
 関東軍の参謀として、ノモンハン事件の作戦を
 独断で強引にすすめ、第23師団をまるごと
 全滅させてしまった。数万人である。
 
 終戦時、瀬島龍三とともに満州からの
 在留邦人引揚げをさせず、兵士をシベリアへ
 抑留させ、多大の犠牲者を出した。
 私の義父は戦死、義母と義兄、つれあいが
 大陸から2年がかりで乞食をしながら
 朝鮮半島を歩いて帰国したのも
 辻らの無謀な作戦のためである。

 その前には、2.26事件にもかかわっている。

 シンガポールでは6000人の華僑を虐殺、その
 立案者は辻である。
 フィリッピンでは、無謀なガダルカナル作戦を
 独断で指揮、悲惨な敗北を招いた。すべて中央の
 指示を無視し、たくみに責任を逃れた。
 日本の200万人の陸軍が暴走する手本を作った。

 終戦は、バンコクで迎え、戦犯として追求される
 のを恐れて、僧に変装して逃げる。戦後「潜行
 三千里」というベストセラーで一躍有名に。
 参議院議員に当選するも、ラオスで行方不明に。
 スパイ容疑で消されたとも。

 知れば知るほどおぞましい。
 立野ヶ原演習では、わざと背嚢に石を詰め込んで
 行進してみせるというパフォーマンス。
 地元の古老から聞いた実話である。
 
 山下泰文大将は日記で「この男我意欲強く、小才に
 長じ、こすき男。国家の大をなすに足らざる
 小人なり。使用上注意すべき男なり」と痛烈。

 理念はなく、うすっぺらだが
 上へのごますり、いざというとき責任逃れ、
 普段は威張っていて手に負えない。
 どんな職場や組織にもいる困った存在であるが、
 こと、国家・国民の命運がかかっていると、
 こんなリーダーがいては、
 たまったものではない。
  





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2007年05月19日


 ネパール、ツクチェ村は
 少数民族・タカリー族の中心となっている。
 19年前の平成元年1月、利賀村は
 真冬のヒマラヤ山中へ出かけて以来
 友好関係、密度の濃い交流が続けられている。
 その要になってきたのが、
 日本人のヒロコ・トラチャンさんである。
 手伝っている、長女アヌウちゃんは
 当時11歳で、利賀村民のアイドルだった。


 私の郷土玩具に
 このタカリー族の民族衣装の人形がある。
 昨年11月にネパールへ行ったとき買ったもの。
 10年前、両村の交流10周年の記念行事で
 ヒロコさん親子が
 タカリー族の盛装で現れた。
 実にあでやかであった。
 首飾りは、とても貴重な高価なもので、
 母から娘へ伝えられる。

 日本へ研修にやって来たご主人と
 カトマンズで出会い、結婚。
 現在は立派なホテルを経営されている。
 ご主人は、ダウラギリのふもとで
 これまた立派なロッジを建てられた。


       アルジュン・シン・トラチャン氏
       上はわがつれあい殿です。


 ヒロコさんは何度も
 南砺市を訪れているが、
 利賀村と、ツクチェ村との交流で
 厳しく、注文をつけられてきた。
 日本側の甘さ、国際感覚のなさに
 いつも冷や汗をかく。
 南砺市の国際交流に欠かせない恩人である。
 次女ビヌウちゃんは、アメリカへ留学。
 ハーバード大学2年生。
 建築科専攻。才媛ぞろいのファミリー。
 みなさん、6ヶ国語を使いこなす。
 ときたま、メールでもやりとりを
 させてもらっています。
 

 

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2007年05月05日


 南砺市に生まれ、晩年は郷里に尽くした
 稲塚権次郎さんは
 ノーベル平和賞
 文化勲章をうけるべき人


 古くからの友人で、高岡の万葉朗唱の会発案者
 でもある公認会計士、千田篤氏(富山市)の
 労作。平成8年、家の光刊。
 北日本新聞連載111回という、記録のある
 迫真のドキュメンタリーとして本になった。

 南砺市が世界に誇ることができるのは
 松村謙三と稲塚権次郎の2人であろう。

 明治30年、旧城端の西明の貧しい農家の
 長男に生まれる。あとは姉妹だけだった。
 小学校、福野農学校をトップで、
 さらに帝国大学農学部(現東京農工大学学)を
 抜群の成績で卒業する。
 家の農業を手伝うため、福野への徒歩での
 往復時間が唯一の勉学時間。二宮金次郎である。

 兵役を終えて、大正8年農商務省(農水省)の
 秋田・大曲の試験場に赴任。イトさんと結婚。
 稲の育種の技術者として
 陸羽132号を育てます。これが、
 東北地方の深刻な不作を救い、米どころにします。
 さらに、コシヒカリの元となる
 農林1号を選抜し育成します。
 この味のいい品種は、後に新潟へ送られ
 富山県出身の鉢蝋さん(南砺)、
 杉谷さん(上市)等によって
 コシヒカリが広められます。
 大正15年には、岩手県の試験場に赴任。
 今度は、小麦の農林10号を生み出します。
 背が低く、病気に強く、倒れず、
 抜群に収量が多い。

 終戦直後に来日したアメリカの
 ボーローグ博士が、この農林10号を高く評価。
 改良してアメリカ、インド、アフリカなど
 世界のほとんどの小麦収量を2倍にし、
 数億人の餓死が免れました。緑の革命と呼ばれ、
 博士はノーベル平和賞を受けます。
 この育種者の稲塚さんを探し求め、金沢で
 はじめて出会います。

 講演のため、平成2年に城端へやってきた
 ボーローグ博士は、権次郎の生家を訪ねるのが
 目的でもありました。
  同じ貧農出身で、育種家どうしという、
  尊敬の念と友情からの来日でしょう。
 (残念ながら現在住宅は解体されていますが銅像が
  建てられています。)


 戦中戦後、中国に抑留・請われて
 北京農場長から、新生中国の若い技術者を育て、
 帰国、帰郷して奥さんの介護。
 圃場整備の責任者としても手腕を発揮されます。

 ご両親の写真を飾り、農家の跡取り長男として
 家を空けていた生涯と、その親不孝を大声で
 泣きながら詫びるという晩年だったそうです。
 深く仏教に帰依されてた日々でした。
 昭和63年、昭和の終わろうとしていた12月
 城端の自宅前で没。享年91歳。



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2007年04月21日


 奈良の松柏美術館で、
 観桜のつどいがあり、招待を受けた。
 
 上村松園、松篁親子は2代にわたる、
 文化勲章受賞者で、孫の淳之館長は
 芸術院会員であるから、3代受賞は目前。

 この3代の著名な日本画家に
 大きな影響を与えたのが、石崎光瑤である。

 現在開催中の企画展
 「熱帯花鳥へのあこがれ」
 〜石崎光瑤の作品と出会って〜

 の会場で、特別許可をいただいて撮影。
 光瑤の第12回文展特選作「熱国研春」の
 作品の前での、上村館長の解説があった。

 やさしい、おだやかな日本画を
 革新するために、強烈な南国の花と鳥を
 現地に長期滞在して、写生を重ね、
 美術界に衝撃を与えた光瑤。
 次の年は、
 「燦雨」で、文展を改組した帝展でも特選。
 この作品を見た、若き画学生だった、
 上村松篁が、いつの日か、
 このような絵を描きたいと決心。
 
 そして50年後に南国のハワイで写生し、
 念願の「燦雨」を完成させた。
 題名も素材も、構成も光瑤の燦雨と同じである。
 師と仰ぐ光瑤を思い、
 また、松篁の自作の燦雨は手元から離さなかった。
 そのいきさつを、
 ユーモアを交えて披露された。

 広大な庭でのパーテーは
 さすが、超一流美術館ならではである。

 福光美術館からは、代表作が何点も出品。
 上村3代の名作に囲まれて、
 光瑤が燦然と輝いているのを観て、
 ようやく、
 ひのき舞台へ登場したという、
 感慨があった。




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2007年04月07日


 日本を代表する仏画家、荒井寛方の
 娘婿は、南砺市山本の河合幸太郎さん。
 青山学院、外大を出て特許庁、貿易斡旋所
 (今のJETRO)へ。そしてメキシコに。
 帰国後、南砺市へ疎開。
 その3男、菅原譲治氏は、父親の後を継ぐように
 メキシコへ渡り、10いくつかの
 和食レストランを経営されている。
 40年ぶりの帰国で、わが母親といとこ。


 奇跡が起きた

 菅原譲治氏が泊まっていた、
 その温泉に秘蔵されていた未公開の
 寛方作品が4本も出てきた。

 サインは、
 まぎれもない本物。
 作家の孫が
 40年ぶりに帰国・宿泊した宿で
 こんな未公開作品が4点も発見されるとは。
 栃木県のさくら市、
 荒井寛方記念美術館に知らせたい。
 きっとびっくりされるだろう。


 まだ表具のされていない作品もあった。
 真贋がこれまでわからなかったそうだ。
 持ち主の祖父が、
 寛方の最大のスポンサーであった
 三渓園のオーナー原さんと親しかったかららしい。


 美術館の学芸員も立ち会って、
 まさに、「なんでも鑑定団」のよう。

 お孫さんは、
 祖父の未公開作品に出会い、
 感激しながら、南砺から帰国の途に。

 帰り際に、
 メキシコ原住民の
 不思議な怪獣を。
 想像上の動物とのこと。

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2007年03月24日


 福光美術館の館長室に、
 一枚の額が懸けられている。
 日本を代表する仏画家、荒井寛方の描いた
 雲龍の図である。

 土生新の実家の座敷に
 物心ついたころから飾ってあった一幅である。
 これを見て育ち、こんにちに至る。
 いまも飽かずに眺められる幸せ。


 荒井寛方は、明治11年、栃木県の氏家町に生まれる。
 上京し、浮世絵の大家水野年方に弟子入り。
 鏑木清方は兄弟弟子。

 30歳で文展の賞を
 毎年受賞。石崎光瑤さんの若いころみたい。
 大正5〜6年、インドの詩聖タゴールに招かれ、
 2年間、インドのタゴール大学で
 絵画を教える傍ら、アジャンタ石窟を模写。
 タゴールはアジア初のノーベル文学賞を受けた。
 このとき、花鳥画家の光瑤と
 インドの写生旅行を一緒に続けた。
 帰国後に、「ぜひ、一献傾けたい」
 という手紙が残っている。


 世界最古の木造建築の法隆寺。
 その壁画を模写し続ける、寛方。
 戦争に突入しても、ただひとり、
 人類の遺産として、
 法隆寺の壁画を記録し続けた。
 (この金堂は、後に焼失。
 この日が文化財保護デーとなった)

 この模写のおかげで、復元できたが。


 南砺市(福光)山本の出身の河合家へ
 寛方の愛娘、照子がお嫁入りしていた。
 戦時中は山本の実家へ疎開、身重だった。
 (すぐ近所に棟方志功も疎開していた)

 太平洋側は空襲で危ないから、
 栃木県氏家の家から日本海側を通って、
 奈良へ模写の仕事に旅に出る。
 そのおり、南砺の山本へ立ち寄る予定だった。
 まだ見ぬ孫のために描いた、一幅の絵を
 たずさえて、郡山駅で空襲に会い、
 ショックで亡くなる。
 本来なら、南砺市へ届けられるはずの
 魚籃(ぎょらん)観音の絵は奇跡的に残り、遺族が
 家宝として保存されている。

    (魚籃観音・部分)
 遺族の方々は、それぞれ南砺を、第二の故郷として
 いつも訪ねて来られます。
 実は、私の祖母は山本から嫁ぎ、
 寛方の孫と私は、またいとこという奇縁です。
 世の中、せまいですね。
 



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2007年03月10日



 松山市の正岡子規記念博物館。
 道後温泉に近くにあり、観光名所である。
 そこで先日まで、
 新春特別展
 彩墨画の華
 下村為山展
が、開催された。
 話題を集め、盛況であったという。

 為山を知る人は、
 富山県内にほとんどいない。
 昭和24年に、福光の旧石黒村で
 85歳で亡くなっているが、
 地元の年配者に聞いても要領を得ない。

 下村為山(しもむらいざん)
 1865年(慶応元)四国松山市の
 藩士の次男として生まれる。

 18歳で上京、当時最先端の洋画を学ぶ。
 明治23年、第3回内国勧業博覧会で、
 「慈悲者殺生」で、褒章を受ける。(上の写真)
 戦前発行の平凡社「世界美術全集」に、
 大きく載っています。名作ですが、
 戦災で失われたようです。
 清水寺の本堂と、戦の武士という取り合わせ。
 題材、遠近法のリアリズム、光線。
 当時としては驚異的な作品でした。



 同郷の正岡子規と意気投合し、
 日本の洋画界のトップから、
 日本画、それも俳画の世界を開拓します。

 梅の古木の図。
 確かな技術とデッサンの力。
 しかし、悲運というべきか、実力が
 ありすぎて、時代の先端を拓いたことが、
 結果として、世に受け入れられなかったようです。
 孤高の作家として、プライドも高く、
 やがて戦争へ。東京で戦災に遭遇して丸裸に。
 知人を頼って、昭和20年5月、
 北山田村の梅原へ、
 その2ヶ月前に疎開していた棟方志功と、
 親子以上の年齢差なのに、
 2人展を開いています。
 東京へ帰ろうと福光駅まで来て、
 切符が入手できず、
 福光の石黒村・和泉で生活。24年に亡くなりました。享年85歳。

 奇遇と言うべきか、
 この和泉は、石崎光瑤の父祖の地。
 そして、世界のムナカタも、この村に
 最初に疎開しています。
 福光、礪波のルーツの小さな村が
 この3人の美術家のゆかりの地でした。


 日本の洋画、水墨画、俳画の草創の偉人でした。
 どこかに、作品が残っているはずです。

 古い屏風や、短冊に、
 このサインがあったら、為山の作品です。
 ご存知の方がありましたら、
 ご一報ください。

 劇団雲、演劇集団「円」主宰の俳優、
 渥美國泰さんが
 執念の取材で500部限定の
 為山の記録集を発刊されています。

 それにしても、
 日本の美術界を変えた、
 南砺ゆかりの、偉人のことを
 誰も知らないというのは恥ずかしい。






 




 

南砺市の宝物 |  コメント(0)|  


2007年02月24日

 「南砺の山川」の鉢に、ショウジョウバカマが植えてありました。陽のあたるところで、つぼみから開花はじめました。春いちばんの山野草です。






 福光温泉の向い、
 都市農村ふれあい  センター

 たぶん、そういう名称だったかも。
 補助事業でできた、民俗資料館。
 入館者が少なくて、地元払い下げ。

 出来たときは、
 地元あげて、生活と仕事の道具を
 1000点は、集められたはずです。

 現在、換気も冷暖房もありません。
 管理者も常駐せず、閉鎖されています。

 藁加工製品、樹皮を使った民具、
 機織機、むしろ編み機、箱ご膳、木綿織物、
 育児のつぶら、猫のつぶら、ばんどり。
 実に多くの資料です。
 わら、木、布。あっというまに劣化します。

 里山の生活文化を求めて
 
 一年後の東海北陸自動車道、
 7年後の北陸新幹線。
 中京方面、首都圏、関西。
 どっと南砺市へやってきますが、
 その人たちが求めるものは、
 南砺市の山村と、散居の町の
 くらしの追体験です。
 (富山県は、全国でただひとつ、
  県立総合博物館を持たない
 珍しい県です。)

 歴史をおろそかにする民は滅びるとも。

 若い人たちや、
 こどもたちにも先人の暮らしを、
 伝承する義務があります。

 そんなとき、
 南砺市にたくさんある、資料館に所蔵の
 貴重な財産の活用が、モノを言います。

 生活に直結した、福祉や教育のためなど、
 予算は優先順位があることは理解できますが、
 民俗文化資料は、後回しになりやすいのです。
 
 ほとんどの施設は、
 都市農村交流施設として、
 内容的には似たり寄ったり。
 ハコは補助金で作っていますが、
 運営の工夫は(ソフトは)補助金がなく、
 お荷物扱いになるケースが増えています。
 指定管理者制度導入
 こと足りるわけではありません。
 住民の意識が大事です。

 利賀の資料館には、
 昔の特産、華麗な加賀蓑や、
 日本に一つしかない、
 竹製のカンジキなどもあります。
 (日本履物博物館から所望)

 せめて、調査資料づくりや、
 活用の方法など、
 専門家のアドバイスで、活かしたいもの。
 そんなに費用はかからない。
 しかし、いったん失われたら、
 取り返しはできません。
 埋蔵文化財と同じです。
 ただ、文化財指定になっていないものが、
 大半のため、盲点になっています。


 南砺市には、
 博物館法に準拠した博物館はありません。
 しかし、収蔵館は、たくさんあります。
 南砺には適任者が結構います。
 お金をそんなにかけなくても、
 できる仕事ではないでしょうか。

 南砺の未来への投資です。
 


 

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2007年02月10日



 なんで、いきなりハイビスカス?
 ときどき、いろんな方から
 沖縄へ行ってきて、
 びっくりしたと報告があります。

 八重山諸島の小さな島
 竹富島にある、民俗資料館へ行ったら、
 館長が、私のことを話すらしい。

 


 住民300人余りのさんご礁の小さな島。
 日本最南端の浄土真宗のお寺、
 喜宝院の付属展示館があります。
 先代住職が、
 なんと60年かけて集めた民俗資料が
 4000点、収蔵されています。

 現在の館長の上勢頭氏とは、
 長いお付き合いで、
 昨年も民藝の夏季講座のためやってきました。




 (お葬式のとき、お札を燃やして仏さんへ送るための壺だそうです)

 アメリカ軍は、こんな島に
 戦略的価値を認めず、無傷でした。
 白い珊瑚の砂の道(舗装なし)
 紺碧の海、空、花々。
 何よりも民家の町並みが美しい。
 ここでは、ゆったりと時間が流れます。

 収蔵品には、世界唯一というものも多く、
 藁算や、方言札、アルミのかんざし
 なんていうのも展示されていて飽きません。


  
(アップでご覧ください)


 館長は南砺市ファン。
 お客さんに、富山から来たと言えば、
 うれしくなるのだそうです。

 この島は観光をメインにしていますが、
 外部資本を入れません。
 美しい島を守るための努力は大変なものです。
 そして、人口が増え続けています。
 
 南の島から南砺市を眺めてみます。(つづく)






 

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2007年01月27日



 女優で、歌手で。
 ほんとは、プロの版画家、

 ジュデイ・オングさん

 皆さんのほうがよくご存知。
 往年のヒット曲
 「魅せられて」や、
 舞台、映画、テレビと多彩な活動されています。
 旧の福光以外のかたは、
 ジュデイオングさんはプロの
 版画家であることは、
 あまりご存知ないと思います。
 昨年は、実力で日展特選!) 


          華堂初夏」ジュディ・オング作

 美術館の学芸課長が、
 日展の版画家であるご縁から、
 2002年に、ジュデイオング展を企画。
 殺人的な入場者でした。
 本人にとっても、公立美術館で
 キチンとした企画展は初めてだったとか。

 翌2003年には、
 棟方志功生誕100年展を誘致に成功。
 そのおり、ジュデイさんの企画展も。
 ジュデイさんは、棟方志功の
 孫弟子にあたるので、
 志功のホンモノと対面、
 そのときの、彼女の興奮ぶりは
 忘れられません。 
 ちょうど、ねつ送りのときです。
 旅館で飲んで、ごきげんでツーショットと、
 そのとき割り込んできた「いい男」がいます

 このときは、土用の三番。
 宇佐八幡宮の神事も見学してもらい、
 夜は、ねつおくり見物に案内しました。

 合併前の、閉町式にも招きました。
 ミニステージで歌ってもらいました。
 
 五箇山の合掌造りを見たいとのことで
 ご案内も。これまで、日本の民家を
 版画の大作で制作を続けてこられました。

 以来、すっかり南砺のファンに。
 ここが、第二のふるさとよ、
 と言ってもらいました


 わがつれあいも、彼女の熱烈なファン。
 二人で、大作を購入したほどです。



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2007年01月13日



 5年前の11月。
 五箇山へやってきた、ひとりの男。
 雁屋 哲(65歳)
 オーストラリアに住みながら、
 まんが「美味しんぼ」の原作者として有名。
 (写真は、雁屋氏を中心に、池端滋夫妻)
 40年つづく、民宿の元祖、
 相倉の「勇助」を取材するためである。
 美味しんぼ84巻には、五箇山の
 信仰ともてなし料理、食文化が紹介された。



 池端セキさんに、
 初めて民宿というものを始めたころの
 たいへんな苦労話を聞いて、雁屋氏は感激。
 すっかりセキさんのファンになり、翌年には、
 再度、友人たちを引き連れて訪れている。
  撮影・池端滋「魁百首」より
 民宿というものを始めようと言ったのは、
 セキさんのお婿さんであった、貞汪さん。
 おばあちゃんも、セキさんも大反対。
 こんな雪深い山へ、お客さんがくるはずがない。
 「男には、勝てんもんねえ」と、布団づくりから、
 五箇山料理まで、出産直後にもかかわらず、
 民宿の裏方に全力を。
 若かったから出来たと話された。
 貞汪さんは、いろり端で、
 山で木を植えたら、水が出るようになったことや、
 「昔は、小さいことが面白かった」と、
 やさしく、奥深い話をされた。(平成13年没。)
  撮影・池端滋
 民宿の名物ばあちゃんだった、
 池端せきさん。(昭和59年没)
 18歳で、向かいの家からお嫁に。 嫌がったら、
 親にやめかれて(叱られて)とのこと。
 養蚕を普通の4倍もやった。
 冬は和紙漉きを50年間やって、豪壮な合掌家屋を
 女手ひとつで守ってきた。
 こたつで話を聞いていたときの手は、
 グローブのようだった。
 素手で桑の葉をしごき続けてきた手だった。

 いろり端で、お客さんをもてなす、
 写真家の池端 滋氏。
 私とは40年を超す長いお付き合いである。
 東京で映画のスチール写真を。
 富山市で、写真スタジオと居酒屋経営。
 相倉へ帰ったとたんに、
 世界遺産登録騒動がおきて、
 行政相手に渡り合い、世界遺産とくらしの
 両立のために奮闘された。

 一口に世界遺産、観光といっても、
 民宿経営はそんな容易なものではない。
 しかし、3代つづいて守られてきた、
 いろり端のぬくもりを求めて、
 ホンモノの旅人たちはきょうも訪れる。


 現在、濃いたいら牛乳と
 おいしい珈琲、ぜんざいが楽しめます。


 

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2006年12月30日



 なんと-eのコラムのトップバッターで、
 ずいぶん緊張しました。

 それまでは、5年間くらい
 いーふく3.comで、
 100回あまりコラムを書いてきましたが、
 写真はアナログで撮影、
 入力をお願いしてきました。

 今回は、自分で
 写真入力も一緒ですから
 これを機会に
 デジカメを初めて求めました。

 最初の入力は、せっかく打ち込んだ画面を
 何度真っ白に飛ばしたことか。

 いろいろ教えていただいて、
 南砺市の忘れてはいけない人々を
 取り上げてきたつもりです。
 最初は、旧上平の
 石田外茂一さんでした。
 風化させてはいけない人です。




 同時に、ブログにも。
 日記みたいなものですから、
 カラープリントしてみました。
 7ヶ月あまりで、
 4冊になってしまいました。
 (この40年、日記を書いていない)
 まあ、自分史とすればいいか。
 デジカメ初体験で、
 記録用に小さい画面(コンタクト)は
 約3000カットになりました。
 便利すぎます。

 両方合わせると1キロはあります。

 その間、いろんな方の
 すばらしいコラム、ブログで
 勉強させていただきました。
 配慮の足りない表現でご迷惑もおかけしました。
 この場を借りて、お詫び申し上げます。

 コラムにかかわらせていただいて、
 東京の恩師にも数十年ぶりに
 お会いするきっかけをいただき、感謝です。

 新しい年も、
 よろしくお願いいたします。
 
 
 



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2006年12月16日



 東京駅から、山の手線、高田の馬場のりかえ、上石神井の駅に、塩谷静子さんが出迎えられていた。数十年ぶりのご対面であったが、その面影からすぐわかった。近くのマンションへ向い、つつましいお住まいに上がらせてもらった。

 塩谷さんは昭和2年、旧福光本町のお菓子屋さんの三女として生れる。現在79歳、旧姓中村。
 昭和19年、町の高等女学校を卒業。東京への進学は当時のこととて、叶うはずもなく、勤労奉仕でろくに勉強もできなかった。
 女学生たちは、城端まで汽車で行き、立野ヶ原へ草刈りに動員された。目印は、ずべ監的壕(カンテッコー)と、めだま監的壕だった。刈り取った草は、学校へ持ち帰り、校庭で乾し、軍馬の飼葉として納められた。
立野ヶ原の陸軍演習場には、たくさんの軍馬がいた。
18歳、請われて代用教員の試験をただ独り受かり、東太美小学校へ。いまでいえば、高卒の臨時の先生。戦争で若い男の先生も、師範学校出身の人もいなかった。
 親と挨拶に行ったら、応対してくれた小使いさんのような風貌の先生が、ドジョウすくいのボッタイを担いだI先生だった。


小学校の体育館には、若い兵士たちが寝泊りしていた。学校には、宿直当番がある。男先生は少ないから女先生2人で泊まったが、親が心配して、兄嫁も一緒に泊まってくれた。なにせ19歳の乙女のころである。
 昭和20年5月15日。お盆の墓参りのあと、天皇陛下の重大放送があるという。敗戦であった。きのうまで、日本は絶対勝つと信じ、小さな子どもたちにも教えてきたのに。申し訳ない、という気持ちで一杯だったという。
 進駐軍が学校へ視察に来るという。それまでは、若い女は五箇山へでも逃げなければと、大人たちが心配してくれたが、若いアメリカ兵は、実に紳士であった。麦茶を冷やして出したら、「テイー?ピール?」と聞かれ、それだけは意味がわかり、お茶でございますと返事した。
 戦意高揚の教科書を墨で塗りつぶし、粗末な教材で戦後の教育はスタートした。昭和22年4月、一年生を担任した。そこに私もいた。そして36人の一年生は、男も女もなくこの若くて美しい先生に恋をした。
 田舎の、幼稚園を経験していない子どもたち。その表情は、映画「二十四の瞳」そのものだったと先生は笑われる。鉛筆で画用紙に桜の絵を描いて、私の絵を激賞し職員室じゅうに見せられ、子ども心に舞い上がり、その後デザイナーへの道となる。
 立野ヶ原へはよく遠足に引率し、学校の畑へも通った。行きかえりは、みんな手をつなぎ、赤とんぼなどほんとによく歌ったものだという。
 2年生の中ごろ、大好きだった先生が、緊張したつくり笑いで「先生はお嫁さんに行くのよ」と宣言されたので、子どもたちもしゅんとなった記憶がある。

 23歳で結婚され、ご主人と神戸、そして東京へ。
結婚式は、婦人会から質素にといわれ、姉たちが着た花嫁衣裳でお嫁に行った。歩いて5分のところまで雪下駄が、雪に詰まって難儀したとのこと。
3人のお子さんはみな立派に成人、お孫さんに恵まれ、ご主人の介護に尽くされた、幸せな人生。近年まで、町内3000戸の会費集金などのボランテイアに近い仕事を続けられ、いまも友だちに恵まれた都会ぐらしをされている。

 一つ残念だったのは、日本画家・石崎光瑤の奥さんの妹さんが、104歳で、今年の春に亡くなられ、近所で仲が良かったとのこと。歌人で頭もしっかりされていた。昔の記憶は、思い立ったときにすぐ逢って記録に残さねば、永遠に失われてしまうと実感。

幾つになっても、恩師が元気であることはうれしいものです。
 



 

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2006年12月02日



 サシ・ドージ・トラチャン師。ご存知南砺市利賀村の瞑想の郷で、足かけ10年がかりで、4メートル四方の大マンダラと仏画を描いた画僧である。
18年前、真冬のヒマラヤ山中、ツクチェ村で初めて出合った。利賀村のそばによる友好提携調印のために、ネパールへ向かったときである。世話をされた、信州大学の氏原暉男教授から、事前にサシさんのことを聞いていた。
 祖父の代からのマンダラ絵師として、ネパールでもトップクラスの腕前であり、チベット仏教の古い流派であるニンマ(黄帽派)の僧侶でもある。
 当時の宮崎村長が、利賀村でぜひマンダラを描いて欲しいと要請される。
 通訳してくれた、日本人のヒロコさん(ホテル経営者)とともに、「観光施設でも、宗教施設でもない。友好記念のミュージアムであり、サシさんの美術館である」と説得した。立山マンダラの写真も持参し、富山の風土も紹介した。3人でこたつで打ち合わせをしている姿を見て、氏原教授はにゃっと笑って席を外された。


 利賀村は村制100年の節目。サシさんたちが、不安を抱きながら利賀村へやってきた。民家の仏壇を見せたら感動して、ネパールのお経を上げた。もっと感激したのはそのおばあちゃん。天竺から偉いお坊さんが村にやってきた、と。

 ツクチェ村の大蔵経という膨大な仏典の中から、田中公明東大講師とともに両界マンダラなどの大作6点を仕上げる。仏教の原典でもあるこのお経は100年前、ネパールからチベットへ命がけで潜入・探検した河口慧海も1ヶ月あまり勉強したもの。
 この両界マンダラの復元作業は、なんと1200年前に、弘法大師が日本へ持ち帰って以来の壮挙なのである。すべてサンスクリット(梵語)で書かれている。

 利賀村滞在中は、言葉が通じないことや、日本の添加物だらけの食べ物が合わなくて苦労された。毎月のように、無添加の食材を差し入れながら、励まし続けてきたことが懐かしい。ふたつ年下のサシさんは、ほとんど兄弟という関係になってしまった。

 昨年、新聞の企画で、とやま出身のマンダラ画家の前田常作先生との対談に応じてもらった。前田先生は「久しぶりのサシさんは、もう高僧の風格ですね」と感慨を漏らされた。

 今回、3度目のネパールのツクチェ村訪問であったが、途中に古いお寺(ゴンパ)を、サシさんに案内してもらう。祖父、お父さんが作り上げ、描いた仏像やマンダラは荒れたままである。サシさんは、このあと浄財を集めながら、ここを立派な僧院とすべく、補修と再建プランを練っているところである。(この画像を拡大してご覧ください。)
 チベットでは、中国の文化大革命のために、ことごとくこのような寺院は破壊された。ネパールのツクチェ村に残っているのは、貴重な遺産となっている。
 サシさんは、すぐれた国際人である。アメリカでも仏画を描き、指導し、インドへも飛ぶ。ネパールの秘境ムスタンや、チベットへもフリーパス。6ヶ国語を話す。絵師、仏師、そしてアユルベーダのお医者さんでもある。会うといつも冗談で笑わせる。
 謙虚に、純粋に信仰の道を歩きながら、次なる夢を実現させようとひたむきな生き方は、実に多くのことを学ばせてもらってきた。南砺市にとっても、かけがえのない恩人と言えよう。

 

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2006年11月04日



 美術館2階の常設展示場に、
 石崎光瑤の名作
 「雪」が展示されている。
 大正9年の
 第2回 帝展で無鑑査出品の
 意欲的な花鳥画である。
 2回目、35歳にして無鑑査!
 
 京都画壇のトップに躍り出たころ、
 生まれ育った南砺の、
 雪にこだわって、
 京都でも雪の多い、鹿ケ谷を
 アトリエの地に選んだ。

 雪が降ると外へ飛び出し、
 庭木の葉に降り積もる雪を、
 じっと見据える。
 家の中から見ると、雪だるま。
 奥さんは、その執念にぞっとしたという。

 2曲一双の大屏風は、
 右が銀地で俯瞰の透視図。
 左は金の裏箔の、横からの視点。
 大胆な意欲作である。




           燦雨(部分

 石崎光瑤は、明治17年、
 福光の素封家・石崎和善の五男に生れる。
 12歳で、金沢へ赴任の
 最後の琳派の日本画家・山本光一に師事。
 19歳で、京都四条派・竹内栖鳳の門下に。
 10代で、東西の流派の
 最高の薫陶をうけ、頭角を現わす。

 しかし、実家が持ち船の遭難により、
 完璧な補償のため、没落する。
 土田麦僊と同室の貧乏画学生であった。

 大正5〜6年、9ヶ月をかけて、
 インドへ写生と撮影旅行。
 7年、第12回文展に
 「熱国研春」で特選。
 翌8年、改組の第1回帝展に「燦雨」で、
 ぶっちぎりの連続当選。
 (この頃、棟方志功は落選続き)
 生活の目途が立ったので、
 ようやく結婚する。

 この日本の未来遺産のような「燦雨」は、
 数々のドラマを経て、
 福光美術館の所蔵となる。

 来年から一年半、
 この「燦雨」は請われて、
 2つの国立美術館、
 いくつものトップクラスの県立美術館

 旅立つ予定である。

 雪深い南砺は、
 日本を代表する石崎光瑤を育て、
 時空を超えて、
 内外の人々に感動を与え続ける。
 


 

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2006年10月21日



 もう紅葉が始まった、美術館の前庭。
 朝早くから、落ち葉を
 くるくると掃き集めているのは、
 吉江美智代さん。
 スタッフは、親しみをこめて
 シルバーさんと呼んで尊敬している。

 地元で生まれ、農家に嫁ぎ、
 長年JAに勤められて、
 定年で、シルバー人材センターに登録された。

 美術館のお客様アンケートがある。
 良かったという書き込みの、
 70%が、森につつまれた、
 きれいな庭のたたずまいを挙げている。
 すばらしい環境で、いい作品を楽しむことが
 できたという、お礼のことばがいっぱい。

 吉江さんのおかげである。




 朝早くから、雨の日など
 辛くありませんかと聞いたら
 とんでもない、
 毎朝来るのがうれしくて、
 仕事がすすむのが楽しくて、
 働けるのがありがたくて、
 という笑顔が返ってくる。
 お金ではない。
 ご主人と柿の生産も。

 旧福光のシルバー人材センターは
 10年の歴史、約500人の登録があり、
 県内でも評判がすばらしく、
 どこでもひっぱりだこである。
 南砺市では1500人を数える。




 センターの指導は明快である。
 お金が必要な人は、ハローワークへ。
 60まで、地域に育ててもらった、
 感謝の気持ちで、
 自分に責任を持って働いて欲しい、と。

 公共施設の清掃業務や、草刈り、
 遺跡の発掘についてはベテラン集団。
 男女半々の構成という。
 とにかく元気で、熱心に働く。
 道路の草刈りなど、景観と遺産を守る人たち。
 これこそ、南砺の「土徳」ではなかろうか。

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2006年10月07日

       撮影:風間耕司

 忘れることの出来ない人というのがある。
 2代目、南部白雲さんもそのひとり。
 もう40年も前のこと、
 井波町の工房に
 南部白雲さんを訪ねた。

 広い板の間に、
 何人もの木彫の弟子を座らせ、
 一番うしろで黙々と鑿をふるう。
 名刺には「木彫家」という肩書き。
 当時、日展作家にあらざれば、
 人にあらずという雰囲気のなかで、
 先代の言いつけを守って、
 ひたすら、職人の道を歩んだ。




 キセルに煙草をつめて、
 おだやかに話される言葉は、
 生粋の南砺地方の方言。
 同行の富山市の若い女性ライターは
 半分しかわからないと。
 私は100%わかる。
 おじいちゃんと再会したような気分だった。




 職人でありながら、
 写生に仕事の半分は割いた。
 創造性を何よりも大事にして、
 数多くの名工と作家を育てた。
 師でもある、父の初代白雲をしのんで、
 15年かけて、仏壇を手作りされた。
 手作りも含めて、
 200本のノミを駆使されていた。
 欄間の素材、クスの
 いい香りが仕事場にただよっていた。

 南砺の妙好人と呼んでいい。
 富山刑務所で、更生事業として
 受刑者に指導を続け、
 作られたお神輿は日本一であった。

 25年前、
 北陸銀行創業100年の記念事業として、
 記録映画「風土記北陸」が企画された。
 100年後に残る映像をという頭取の発案だった。
 その現地プロデユーサーをつとめる。
 どうしても入れたい人、
 それが、2代 南部白雲さんだった。
 このドキュメンタリーは、
 文部省特選となった。
 季刊・銀花にも
 紹介して、読者からも好評だった。
 仕事好き、しかし頑固一徹。 

 平成9年、亡くなる。享年85歳。 


 

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2006年09月23日



 棟方一家6人にとって、戦中・戦後の南砺市への疎開は大変なことだった。家族にとっては、見知らぬ土地。知り合いもいない。絵は売れない。援助したのは招いた松井寿美子女医さんだけ。
 終戦前後も、棟方志功は空襲のさなかの日本の都市を旅し続けていた。各地で画会をひらいて、生活を支え、自分の勉強のため取材旅行を続け、柳宗悦ら師匠の教えを受けることに必死だった。
 一方、家族にとっては地獄。とても第二の故郷と呼べたものではない。
 ただひとりの例外は、二女の小泉ちよゑさんだった。多感な文学少女は、この南砺市でのびのびと、友だちと遊び、南砺市の風土を楽しんだ。
 棟方志功の福光時代の最大の傑作のひとつが、瞞着川(だまし川)。ちよゑさんは、55年前のこの地の新しい物語をこのほど完成させた。「ちよゑちゃんとパパとだまし川」という紙芝居である。
 10月6日、ちよゑさんを招いて、地元の保育園で、こどもたちに発表される。
 翌7日には、福野ヘリオスで、小泉ちよゑさんの特別講演会がひらかれるが、その前に、この紙芝居を上演するつもりである。

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2006年09月23日



 南砺の風土はすばらしい。だから南砺が世界のムナカタを育てた、という人があり、ある印刷物にも最近書かれていた。
 私は、棟方志功によって南砺が育てられたのではないかと思う。逆なのである。棟方志功の生き方を調べれば調べるほど、その感が強くなる。南砺を刺激した先人のほとんどが、よそから移住したか、Uターンしたひとばかり。これは、南砺に限らない。


 9月16日に、棟方志功の二つの故郷展がオープンした。青森の美術館からも大作、逸品が届けられた。
その記念に、青森の棟方志功記念館の館長補佐の武田さんと、宮城県美術館の学芸員、三上さんが遠路来館され、シンポジウムが開かれた。
 三上さんは、2年前に棟方志功生誕100年記念展を全国展開した際に総括された福光美術館にとっても恩人である。
 その三上さんは、「棟方志功は、生涯旅をした人であった。」武田さんは、「故郷を離れてからその風土を描いた人である。」と断じられた。福光美術館の尾山学芸課長は、「ふるさとは、遠きにありて思うもの、というのが志功の信念であった。」と、棟方志功の故郷感が述べられた。同感である。(この内容は後日北日本新聞で紹介される。)




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2006年09月09日



 富山で「旅の人」といえば、あまりいい響きではない。旅のもん、と呼ばれれば、もっと格が下がる。
 棟方志功の福光疎開は、終戦まぎわという時期のこともあるが、このおだやかな南砺の風土では、異色の旅人であった。
 福光では、最初は斎藤家、そして光徳寺へ。ここに疎開していたイメージが強いが、実際に住んだのは1週間。学童疎開のため、お寺はうるさく、仕事どころではないと、近所の分家の空き家に落ち着いた。慈航寮として現存しているが、空き家で荒れ果てている。
 ここ旧石黒村法林寺から、アトリエのある福光の鍛冶家まで、歩いて30分ちかく。途中にあって、志功が一服してスケッチなどを、していた小川が瞞着川(だましがわ)。豆黒川とも、なまず川とも地元では呼んでいたが、河童に化かされるという伝承を面白がって、あの名作が生まれた。
 昭和21年に、志功を慕って第一号の弟子、版画家の笹島喜平が、この法林寺を訊ねてやってきた。そのときの瞞着川付近のスケッチが残されている。
(縁あって、このほど私費で購入し、館に寄託した)砺波型と呼ばれる萱葺き民家である。
 当時と60年後の現在とでは、変わっていないのは桑山と医王山と田園風景ぐらいであろうか。六地蔵と柳も健在である。2年前、志功の二男令明さんが、ここを訪れて懐かしがっていた。



 この13日(水)は、棟方志功の命日であり、朝9時から愛染苑で「愛染忌」をつとめる。
 いつも愛染苑に花を絶やさず飾っていただいている
成瀬社中の献花展が、準備中である。
 テーマは、なんと瞞着川の河童。富山湾に漂着した巨大流木による、ユーモラスな造形である。

 16日(土)からは、美術館で青森の作品による「藝業展」が開かれ、10:45から、青森、仙台の学芸員を招いての、これからのムナカタについてシンポが行われる。

この機会に、「旅の人・棟方志功」を続けたい。

 

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2006年08月26日


これは、人気の「草ピー」さんのブログではありません。なんと-e.comの公式コラムのページです

 とやまと言えば、くすり。300年の伝統を誇り、最近ではモンゴルにまでそのシステムが、高く評価されている。何といっても、その顔は、パッケージデザインであり、これまでのブランド数は1万点を超えるであろう。(過去100年ぐらいで)
 南砺市の旧福光町に居をかまえて、生涯に少なく見積もっても3000点もの、とやまの薬のデザインをされたのが、尾山外誉治氏である

 8月20日に、地元の新聞にカラー1ページの広告が掲載された。廣貫堂創業130年の企業広告であるが、代表選手として、パナワンと、熊胆円が並んでいた。

 この永遠のベストセラー、熊胆円は、ちょうど50年前に尾山氏のデザインによるものである。新製品のパナワンは、官学民によるプロジェクトから生まれたもので、奇しくも私がプロデユースした。


 尾山外誉治氏は、大正2年生まれ、高岡工芸の図案科卒。東京藝大を希望したが、父が破産でかなわず、それでも上京、ネクタイのデザインなどの仕事を続けながら、青春時代を過ごす。戦前の最もよき時代の日本の頂点で活躍された。
 兄の病死で帰郷、北陸電力の前身や、富山化学などで、トップデザイナーとしても、実力を発揮、その後もとやまの薬のデザインを一新させる仕事が主となった。
 私ごとであるが、昭和30年に住み込みで4年間修業させてもらった恩人でもある。上記の写真の坊やがワタシである。
 当時、福光へ疎開していた版画家の棟方志功との交流があり、のちに版画もライフワークとなった。
 富山県内はもとより、金沢からもあらゆるデザインの仕事が引きもきらず、多くのデザイナー育成にも尽力されている。
 朝は遅く、お昼ごろから、いろんな来客があり、町内のご隠居さん、恩師の松村秀太郎先生、文化人などの切れ間がなく、そのお客さんのお茶とスリッパを用意するのが私の役目であった。アトリエで仕事をしながら、背中に大人たちの会話を学んだものである。
 尾山先生の仕事は、夕食後から始まる。夜の12時には先に部屋へ帰らせてもらったが、先生は明け方までデザインの仕事に集中されていた。
 美術協会の立ち上げや、商店ののれんや包装紙デザイン、イベントのポスターなど多岐にわたって、町のかお、とやまのかおを作り上げた。書道家としても師範の腕前、短歌、俳句、洋画、ギター、謡曲、クラシックと何でもござれのマルチ芸術家で、そのどれもが一流であった。内外に与えた影響は大きいが、謙虚な人柄から、表へでることを極度に嫌った。南砺市が文化度が高いというイメージも氏の存在が大きい。
 ちなみに、ブログのプロフィールにも登場している、アスナオールのデザインも尾山氏の描かれたイラストで、モデルは今も健在の奥さまである。
 平成12年、亡くなられた。享年76歳。


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2006年08月12日



 福光旧町の棟方志功記念館・愛染苑の向かいに、志功の住居「鯉雨画斎」がある。その奥の8畳間の画室に新築祝いの記念サインが、風炉先屏風として展示されている。
 墨黒々と肉太に岩倉政治、野村玉枝、石黒蓮州、金光魚津市長、あの柳宗悦
が並ぶ。昭和20年代前半、この南砺市で交流した文人墨客が、こんなにもあったのかと驚く。
 岩倉政治は、1935年(昭和10)日本宗教講話、続いて仏教論、赤尾道宗を書く。しかし、思想犯として2度の検挙。官憲に手痛い目にあう。恩師の戸坂潤は投獄されて獄死している。戦争に反対する考えを持っている仏教学者でさえ、そういう弾圧を受ける時代であった。
 自宅拘禁、監視つき、検閲というなかで生活のため書いた処女作「稲熱病」が、芥川賞候補となる。なんと装丁は、武者小路実篤がしていた。村長日記は農民文学賞に。冬を籠る村などふるさとの旧高瀬村周辺の人々がモデルである。南砺の方言や、ねつ送り太鼓などが登場して懐かしい。当時のむらおこし物語りとえば叱られそうであるが。
          写真撮影:池端 滋
 
 終戦まぎわに、一家をあげて城端へ移住。昭和22年、日本初のSF小説「空気のなくなる日」を発表。児童文学としても、絵本、映画、教科書、舞台に取り上げられた名作である。
 また、戦争責任を感じて政治活動に踏み切る。どこまでも自分に誠実であろうとした。作家活動は歯科医の奥さん理意さんが支えた。親鸞、大伴家持、ばんどり騒乱記、田螺の歌、無告の記などの長編も続く。大半が南砺の農民の生き様にこだわる作品が多い。

 私ごとで恐縮であるが、10代の福光での住み込み修業時代、先生が理解あり、県立雄峰高校通信教育と大学入学資格検定を受けた。1年で14科目のうち9科目を一挙に合格し、新聞記事になった。
 同じく9科目合格したのが岩倉政治長女の塩子さんだった。中部高校オールAという才媛だったが、不治の病で退学したのだった。これが縁で文通をはじめ、立野ヶ原・大井川のメノウをプレゼントして、富山市の自宅を訪問した。
 10代の田舎の坊やとしては、岩倉家はおっかなびっくりであったが、二女高子さん、三女麦子さんともすぐ仲良しに。そして父親の書斎にも出入りを許され、短編小説のモデルにされたことも。
 私は20歳で富山市へ就職。塩子さんは結婚。つまり振られたことになる。(その嫁ぎ先の隣が美容院で、私はそこの娘さんと見合い結婚。偶然。)塩子さんは嫁ぐとき例のメノウを持参して、石ころをお嫁に持ってくのかと、笑われたという便りがきた。彼女は小学校のころ、立野ヶ原で遊びまわっていた思いでを大切にされていた。ほどなく塩子さんは若くして亡くなる。惜しまれる人であった。
 岩倉政治の晩年の頃、塩子さんをモデルに作品をお書きになってはと、水を向けたら、「あの子は手中の珠のように可愛がっていた。とてもまだ書く気にならんのです。」と宙を見つめられ、酷なことを言ったことに反省した。
 塩子さんは「父は、作家活動に専念すればよかったのに」と漏らしていたことが印象に残る。


追記@:岩倉政治文庫が、富山市立図書館の特別コレクションに加えられた。井波町の図書館へ寄贈の話もあったようだが、残念と言うか、良かったと言うべきか。南砺市の財産になるはずだった。いずれ県立文学館ができれば収蔵される。

追記A:この「空気のなくなる日」は、城端町の薬局ご主人、野村誠四郎氏が、エスペラント語に訳し、世界30数ヶ国語に送本、普及につとめられ、反響がとどいているとのこと。(風のまにまに・般若一郎との共著から)

  

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2006年08月12日


 福光旧町の棟方志功記念館・愛染苑の向かいに、鯉雨画斎という志功の住居がある。いちばん奥の8畳の画室に、風炉先屏風があり、新居誕生お祝いのサインが書かれている。トップに岩倉政治、歌人の野村玉枝、石黒蓮州、そして柳宗悦など。南砺市の文化人、墨客が集い、交流していたかがわかる。
 


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2006年7月29日


 
 最近、南砺市における戦中・戦後の文化風土について関心が高い。民藝運動の柳宗悦や、棟方志功のゆかりについて注目されることは喜ばしい。
 ただ、少し疑問なのは、南砺市には特別すぐれた文化風土があったことが強調され過ぎるきらいがあり、気になる。棟方志功にいたっては、福光での最大のいただきものはナムアミダブツであったと書いている一方で、彼らは真宗風土にしては言ってることと、やってることが違うと珍しく憤慨している。他力本願の宗旨はすばらしいが。アメリカの大学で志功は、赤尾道宗の妙好人について講演旅行をしていた。(宇賀田達雄「祈りの人棟方志功」)
 明治36年に井波町、旧高瀬村の貧農の10人目として生まれた、作家の岩倉政治は信心篤い母親に連れられて瑞泉寺へ通い、大谷大学で学んだ宗教学者でもある。大学では、世界的な禅の研究者であり哲学者の鈴木大拙、戸坂潤に学ぶ。大拙の奥さんに気に入られ、家庭教師をかねた書生をやるなど、思想的には違うが終生のお付き合いだった。
 なかでも岩倉が終戦まぎわの昭和19年に書いた「赤尾道宗」や、岩倉の情報をもとに鈴木大拙は「妙好人」の名著を同じ頃上梓した。
 一方、大拙は学習院で柳宗悦を教えている。柳は宗教と美学を結び付けようと、城端別院で、名著「美の法門」を書いた。先日、日本民藝館前の柳邸を、特別に鍵をあけてもらい、数千冊の蔵書を調べさせてもらった。そこには、「竜樹」などの岩倉政治のサイン入り贈呈本が見つかった。極めて親しい関係であった。南砺の文化に影響を与えた原点は鈴木大拙や歎異抄の暁烏敏、清沢満之、曽我量深(新潟)西田幾多郎など石川県人を主とした宗教人・学者と哲学者たちであった。

 それやこれやで、戦中・戦後の知識人、文化人、芸術家たちは赤尾の道宗をきっかけに五箇山、城端、井波が注目を集めるようになる。岩倉を慕って、柳や河井寛次郎、亀井勝一郎などが城端へ集まってきた。柳の直弟子のような棟方志功も参加した。城端別院での昭和23年の日本民藝大会の記念写真には、岩倉政治と棟方志功がならんで写っている。(二人は同いどし)影のコーディネーターを岩倉がやっていた。

 岩倉政治は、柳とはちがって、仏教と唯物論を結び付けようと終生小説や伝記で発言を続けてきた。だが戦前に治安維持法で官憲に手痛い目にあう。棟方志功と同じころ、城端に疎開し、生活のため著述や作家活動を始めた。東京時代は直木賞候補になり、農民文学賞も受け、大変な人気作家であって、経済的には豊かだった。遺族の証言や記録から、棟方志功の作品を買い取って支援を続けていることもわかった。
 戦後の一時期、岩倉と棟方コンビは、南砺の文化の顔だったのである。岩倉についてはとても1回では書ききれない。次回は南砺の風土と文学作品についてです。(撮影:池端 滋「写真集・魁百首」より)

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2006年7月15日


 旧福光町の、本町通り。宇佐八幡宮の向かいにある、「春乃色食堂」という何ともレトロといっていいのか、疑洋風と呼ぶべきか、大正ロマンの風情を感じさせるお店があります。ご主人は、田畠幸次郎さん(80歳)で現役です。
 地元の人ならよくご存知ですが、この建物は文久3年(143年前)加賀藩の米蔵でした。大正12年(83年前)に、先代が和洋レストランとして開店され、その前に、金沢の丸万食堂で一年の修業を積む。名物おでんは、なんと、83年前の味を踏襲されているのは驚き。気になる店名は、同じ経営者でもあった、近くの造り酒屋の銘柄から。戦前はやとな=今で言うコンパニオンも呼んで、大変な賑わいで繁盛したものだそうな。○○さん、地酒のプライベート・ラベルとして春乃色を復活させませんか。

 関東炊きともいわれる、このおでんの醤油味の甘くどさは、病みつきになる。見た目は濃いが味は具の味が巧みに生かされていて、まさに食の妙好人の手になる境地です。奥さんのしい子さんの釜炊きのご飯も相性が絶妙。つい食べすぎます。夕方、近所の奥さんが手鍋さげて夕餉のおかずに求められることも。おでんが売り切れると閉店です。


 お勘定はチョークの手描き計算機。安い。60年前ころから始めた中華そば(懐かしい味)は400円。ゼッタイおすすめです。終戦直後のジェーン台風で、屋根板が吹き飛び、瓦に替えたことも。戦時中は雑炊屋でしのいだ。孫の徹也君(20歳)が、がんばってくれています。夏場は食材と漬け汁の保存が大変とこぼされた。この正月のテレビ番組で、ゆるゆる富山遺産に選定。取材の柴田理恵が感動の涙にくれていました。南砺市の遺産です。
※いつまでも息災で〜。



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2006年7月1日

 
 松村謙三といえば、日中国交回復に政治生命をかけた、偉大な政治家と言う評価は、変わらないでしょう。ただ、いつも気になっていることは、世界の歴史に前例の無い大事業を残しているのを、あまり語られていないのが疑問であり、義憤を感じるときがあります。(写真は松村記会館パンフレットから)

 リンカーン、毛沢東、レーニン、ナポレオン、チンギスハーン、ヒトラー、織田信長など等。歴史に登場する彼らは、土地の所有と分配をめぐって、戦争を続けたのです。それも数十万、数百万の血を流して
 昭和20年、21年と農林大臣の立場にあり、進駐軍のアメリカをして、日本人の初めてのオリジナル政策であると驚かせた、第一次、第二次の農地改革。世界の歴史で無血で、革命もやらずに耕作する者に土地を分配するという農地解放を成し遂げたのは、松村謙三だけなのです。


 福光福祉会館に隣接する松村記念館の、展示ケースのなかに珍しいものがあります。ちょうど100年前、明治39年に早稲田大学の卒業論文「日本農業恐慌論」の実物です。
 諸外国の農業生産と、日本の特殊事情を豊富なデータをもとに、いずれ食料・農業農村が大変なことになるという、名著です。(日本の農業や食料の事態は現在もその指摘の通りです)
 みずからも地主であった松村謙三の清廉な人柄と、このような見識があったからこそ、この大胆な政策をリードし、日本の戦後60年の、平和で、公平で、満ち足りた日本が約束されたのです。でも最近の風潮は逆戻りしていますが。

 中国の建国の立役者、周恩来の信頼厚かった、松村謙三の遺文抄『花好月圓』から。
「今日、政治に一番必要なことは青年の前途に火をもえあがらせることでありましょう。これ以外に政治の大眼目はありません」1962年11月10日談話。政治にかかわる人、選ぶ人、ともに考えたい言葉であり、南砺市の誇りでもある人です。南砺市合併の新聞特集に、この語録を使わせていただきました。


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2006年6月17日


 南砺市ゆかりで、世界的に著名な版画家棟方志功は、戦中戦後の6年8ヶ月のあいだ、福光へ戦禍を避けて疎開しています。
 この6月11日に、信州は上田の古刹、天台宗別格本山の常楽寺で、荒井寛方後援会の方々が中心になって、「八月座」朗読劇のつどいがありました。祖母が縁者ということで参加しましたが、このお寺は天台宗の由緒あるところ。半田孝淳大僧正は87歳という高齢ながら、世界宗教者平和会議のリーダーとして著名。毎年ローマ法王に会見されているという方です。
 晩年の棟方志功はたまたまこのお寺を訪問し、半田住職に惚れ込み、戒名を依頼されています。その間のやりとりの極彩色の絵手紙が何通も残されていて、当時のお話を伺いました。

苔むした国宝多宝塔に抱きついて感動した志功は、住職の人柄もすっかり気に入り、自分の、そしてチヤ夫人の戒名も頼んでいます。奥さんを伴って何度も通い、「華厳院慈航真毎棟方志功大居士」(毎の字は下に水を書く)を授けられる。しかし、宗派は違うし、それまでに戒名をいただいていたので再度調整など大騒ぎとなった。実家は禅宗。真言宗から法眼を授けられ、南砺市でのいただきもの浄土真宗の南無阿弥陀仏に帰依しながらも、宗派にまったく無頓着なのも志功らしい。昭和50年9月13日、志功は72歳で亡くなり、青森市郊外の三内墓地に眠っています。
 半田住職は、志功の戒名は最初院殿であったが、自分はそんな殿様のような者ではないと固辞し、大居士にしたという。礼状は、率直で楽しい、絵入りの珍しいものばかりでした。30年も前のことを、半田師は昨日の出来事のように、うれしそうに語られました。

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2006年6月3日


 南砺市の誇れるもの。そのひとつに伝統文化があります。城端曳山はそのシンボルですが、福神人形は町の名工荒木和助の作で、塗りは歴代の小原治五右衛門です。神様として前夜、山宿に飾られます。出丸町の布袋は昭和の大修理で塗りなおされました。このぽってり輝く布袋さんの白い肌に大変な秘密が隠されています。(文化出版局・銀花より。撮影:後 勝彦氏)このとき私が編集長を城端へ案内しました。


 漆はJAPANと呼ばれるほど、日本の美の代名詞ですが、一つだけ不可能なことがあります。それは「白」を描くことができないことです。そのため卵の殻を細かく割って研ぎだすか、金銀で代用されてきました。国宝の玉虫の厨子には使われていますが、1000年間日本では白漆の技法は絶えています。400年前、初代治五右衛門が長崎で中国人からこの密陀僧(みつだそう:一酸化鉛)という秘伝を習い、越中城端で一子相伝の技法として代々伝えてきています。(私が修行時代に知ったチタニュウムホワイトで、白粉の原料にもなりました。)
 日本でこの小原家だけが唯一白漆を使えますが、40年近く前にその十四代治五右衛門白照さんを訪ね、以来ずっとお付き合いしてきました。「城端蒔絵‐白の秘密」という、テレビドキュメンタリー特別番組を作ったこともあります。累代、大変な努力で継承されてきましたが、惜しくも昨年春、85歳で亡くなりました。京都市立美術工芸学校漆工科を卒業し、城端にUターンして祖父の代からの白漆を再興されました。
十五代好博氏が金沢美大を卒業して、後を継がれました。テレビではまだ赤ちゃんだった好喬(よしとも)君は現在25歳。輪島で研修を受け、昨年第50回日本伝統工芸展に初出品し見事入選を果たしています。福光美術館でも先日の工芸の今展に人間国宝の先生と伍して飾られていました。菜の花を金で、紋白蝶を白漆で浮かび上がらせています。白が金を従えているしたたかな風格。
 ただ技術を受け継ぐだけでなく、芸術作品としてのオリジナル性が求められる厳しい世界です。城端の、南砺市の若き俊英の誕生です。

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2006年05月20日


 14日早朝、東京行きの電車に乗りました。新緑がまぶしい。上野で「プラド美術館展」を駆け足で。タクシーで東京国立近代美術館の「藤田嗣治展」をさっと見ました。すぐ図録を求める。日本人で欧米に通用する作家は、嗣治と棟方志功の二人だけと言われています。この戦争画には息を呑む。この絵は戦意高揚より反戦画のように見えます。戦後革新陣営や画壇から批判を受け、それで憤慨した藤田はフランスに帰化。ですから世界に通用する日本人画家は棟方志功だけになりました。
 さらにタクシーで北千住へ。シアター1010(センジュウのしゃれ)へ飛び込んだのは開演2分前でした。昼飯どころではない。文化を享受するというのはまったく忙しくて、腹が減るもんです。
 劇団青年座の名作「殺陣師段平」はテンポの速い迫力ある新劇です。3日間とも超満員の盛況です。シルバー席を一枚特別手配してもらい間に合いました。
 島村抱月、松井須磨子らが活躍する芸術座から飛び出した澤田正二郎の新国劇が、大阪から東京の大舞台で勝負する。関西の歌舞伎の型にはまった実直で無学の殺陣師(タテし:立ち回りの演技指導のプロ)が時代の風に挑戦する。それを髪結いで支える、けなげな女房お春の純愛物語りです。

主演男優の段平役は、南砺市を舞台にした岩倉政治原作の「ばんどり騒乱記」にも出演の津嘉山正種(トップの写真:プログラム表紙より)で、かっては鴈治郎や森繁久弥、島田正吾の当たり役でした。主演女優の女房お春役は、南砺市育ちの岩倉高子さんです。(下のカーテンコールの写真:前列右)映画やドラマでよく富山弁の指導に引っ張りだされますが今回は見事な関西弁のベテランの味でした。昔の映画では山田五十鈴が演じていました。


 岩倉高子さんは、父親が城端・金戸の専徳寺に疎開されたことから戦後まもなく城端小学校で過ごしています。旧南山田村から城端小学校に通ったことで、ずいぶんいじめられたとか。立野ヶ原は遊び場でした。だから彼女が指導する富山弁は、どこか南砺なまりでしょう。同級生も多いはずですが、富山市へ、そして俳優座養成所のものすごい難関を突破して、卒業後青年座に入団。またたくまに看板女優になりました。ところが、90歳を越した作家の父親の介護で富山市に移住。しかしその間劇団は在籍扱いにしてくれました。私は高子さんの姉の塩子さんと文通していたことがきっかけで、末妹の麦子さんら岩倉三姉妹と遊び仲間になっていました。同い年のタカちゃんは、美術館へは「オクノく〜ん!」と陽気な声でやってきます。

 タカちゃんは昨年夏、大病で手術、富山市の病院に見舞いましたが無事退院。このほど晴れて舞台に復帰です。主演の段平役の津賀山さんはよくテレビにも登場していますが、脳梗塞で倒れ、懸命のリハビリでやはり復帰。芝居では、中風になった国定忠治と捕り手の迫真の殺陣がハイライトです。病に倒れるお春、半身不随で立ち回りの段平。病み上がりの二人の事情を知るだけに、真に迫ったリアルな命がけの舞台に思わず泣けてきて…。最前列の汗が飛ぶ席で、役者魂をしかと受け止めました。劇場入り口には富山のファンの生花が飾られていて、私は鱒ずしをそっと受付に差し入れてきました。

 南砺市で育まれたタカちやんは、富山県内の高校演劇の指導もずっと続けています。とやまにとっても宝ものみたいな人です。このあと全国の演劇鑑賞会の舞台巡演が待っています。健康だけが気がかりですが。


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2006年5月6日


 今日でちょうどン歳の誕生日を迎えます。長い仕掛け人人生で、逆に仕掛けられたのが利賀村。つきあっていると、良くも悪くも日本の未来の5〜10年がみえてくるという、不思議なところです。ずいぶん勉強させてもらいました。
 今から40年くらい前になるでしょうか。4代前の村長に招かれて村に入った東京の洋画家がいます。金沢佑光さんです。まだ村が薪や木炭の生産が基幹産業で、マタギのように熊狩りが普通の時代のことです。
 この北陸の山奥の村の湿った気候の村は、東京の最先端を走っていた芸術家にとっては実にすばらしい別天地でした。
 自然。そしてその自然とともに生きている村民の純粋さ、生活文化、風景と何から何まで魅力的だったそうです。金沢さんは、利賀村の合掌民家を移築して、そこをアトリエにしていた人形劇の水田外史の仲間でした。


 村長や村民の尊敬を集めながら、民謡の衣装のデザイン、広報誌の表紙挿絵、まだ若者だった中谷信一氏宅に泊り込んでの郷土玩具の指導など、その仕事の広さは枚挙にいとまがありません。『トントコはるかぜ』という絵本もつくり、現在の天竺温泉廊下に飾ってある、利賀の百景の原画を残されました。


 山里だからといって、粗野であればいいというものではない。徹底していい仕事をされています。利賀村を訪ねる人の数は、年間40万人です。その人たちがクチコミで利賀村を宣伝してくれています。その原点は、金沢佑光さんが指導した村の文化なのです。(演劇、そばだけではありません。)残念なことに、バブルに村民が踊り、この金沢先生の有形無形の遺産は、忘れられようとしています。ほんとに最初の井戸を掘った人なのに。今は、からくりの木挽き人形の原型が残っています。



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2006年4月22日
 

石田外茂一は明治34年に金沢で生まれた。子どものときに父親が亡くなり、母親の細腕で当時の東京帝国大学を卒業しています。そんな生い立ちから生涯、一匹狼で反骨の人生を送ります。
 『考古学資料による日本原始社会の様相』という著書があるほどの博学の人。『五箇山民俗覚書』も翁久允の高誌人に連載していて、これを見た民俗学者の柳田国男が、何度も出版をすすめました。しかし、関係者にさしさわりがあると、後世に託しています。
 30年前に、上平村のさらに山奥の秘境「越中桂」集落を訪ねたことがあります。境川ダムの湖底に沈んだあたりですが、廃村直後のことで屋根の一部抜け落ちた小学校の分校がありました。廃屋の2階をおっかなびっくりで上がると、黒板に「あけび ぶどう くるみ なめこ さよなら桂よ」と、チョークで鮮やかに書かれていました。児童2人の廃校式にオルガンでみんなが歌った詩です。冬を前にあわただしい離村でした。クレヨンが散らばっていたのが哀れでした。
  石田外茂一は、周囲の止めるのを振り切り、昭和20年4月に、なだれの頻発する、細尾峠をわらじで、老母、妻子とともに越えます。営林署の雨の漏る空き小屋を借り、4年あまりを五箇山で生活しました。老母や妻が病気になりながらも、斜面の雑木をなぎはらい、焼き畑でそばや赤カブの種を蒔いています。トチやどんぐりを拾い、灰汁抜きして冬を過ごす生活です。


 その一方で、五箇山の民俗をこまめに記録しています、ここの人々の暮らしのほうが、最も日本人の常識的、理想の生き方だと喝破しています。まさに、グリーンツーリズムの大先輩でしょう。
 この地にも進駐軍がやってきて、群がる子どもたちにチョコレートをばら撒きました。屈辱的な時代でした。これを見た石田は激怒して、若い米軍の将校に流暢な英語で怒鳴りつけ、米兵は目を白黒して謝ったといいます。純朴な村人は、はじめてえらい先生さまじゃ、と認識したようです。
 

 村では、統合された小学校長を、そして新しく中学校制度が生まれる責任者に石田を委嘱します。峠を歩いての会議参加と慣れない山仕事と、農作業のムリがたたって、身体をこわし、富山市で英語の先生になりました。昭和43年に東京に戻ります。
 季刊で「銀花」という、文化出版局の高級雑誌があります。古本が定価より高い本は、この銀花だけです。その第27号をやっと東京・神田の古書店で入手できました。昭和51年発行ですから、30年前です。その巻頭特集にカラーつきで石田外茂一の陶芸作品と、その生き様がなんと36ページにわたって絶賛・紹介されています。
 このことは、実は呉羽にお住まいの寺崎光雄夫妻から伺いました。寺崎さん夫妻は、30年前、この上平村小学校の桂分校に3年間赴任されていて、住民と家族のような体験をされ、閉校式にも立ち会った。当時の校長は安ヵ川甚治、童謡を作詞し児童文学の熱血教師です。
 寺崎夫妻が、五箇山暮らしの話しになると、涙ぐんで「人生で一番充実した日々でした」と語られました。同じように石田外茂一も「生活は苦しかったが、私にとって、この五箇山時代ほど愉快だったことはありません」と銀花に書いています。
 寺崎先生は、定年退職後、石田外茂一の遺志をついで、散逸の記録をワープロで打ち込み、退職金をはたいて『五箇山民俗覚書』を自費出版されました。
 上平村だけではありません。富山県の教育界では、利賀村の分校に赴任した新米の教師は、例外なく大校長になったと言われています。辺境の地の環境の厳しさがあり、地域の教育にかける熱意が結果として類まれな教育界の人材を育成したことになります。
 いまの時代、ふにゃふにゃの子どもや若者を鍛えるには、五箇山体験がふさわしいのかもしれません。




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プロフィール
奥野達夫
南砺市土生新生まれ。富山の広告会社勤務を経て南砺市立福光美術館と棟方志功記念館愛染苑の館長をしています。水曜と週末に出勤。あちこち出没しています。魚津在住。白いヒゲが目印です。
趣味:写真、民俗研究

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利賀村の人


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