―忘れ得ぬ人―
なんと-e.com公式ブログ「なんとコラム」
2008年07月11日
過疎化、限界集落、耕作放棄地
あまり、明るい話ではない。
五箇山の現在の課題である。
「みんなで農作業の日in五箇山」の
実行委員会が生まれ、
都会などからの応援団もあり、
ようやく、元気がでてきたが。
今から200年前、
利賀村から、着のみ着のままで、
遠く茨城の霞ヶ浦へ入植した集団があった。
当時の茨城・玉造では、
重税、不作、飢饉、耕作放棄。間引きと人口減少。
生活が苦しくて、百姓たちは江戸へ逃散した。
藩主や代官、真宗寺院は、
北陸からの入百姓政策を採用した。
なかでも、越中の南砺地域は、
間引きを許さず、人口過剰。信心深く、働き者。
本来、加賀藩からの脱出は重罪。
そこで、親鸞さんゆかりの聖地めぐりツアーと
いう口実で、北関東へ集団で出かける。
もちろん、帰るつもりはない。
(井波の寺院発行の通行手形には、
万が一途中病死しても勝手に
始末してほしい、と記録されている。)
加賀藩も暗黙の了解だったらしい。
母村利賀ネットワークの
シンボルマークである。
かって存在した、33の集落名が
降る雪に見立ててデザインされた。
2年前の秋、
3年に一度の利賀村出身会。
そのシンポジューム風景です。
(私が司会・進行役を務めました。
富山県都市農山漁村交流協議会長で〜す)
それはそれは盛大です。
最後は、総員むぎやの笠踊りで締めます。
ようやく、登場。
茨城県玉造町(現行方市)の
野原小右二さん
シンポジュームや交流会で
とても印象的な方でした。
入植者達は、霞ヶ浦の低湿地、荒地を
割り振りされ、集落の中心に
真宗寺院を建てて、団結した。
この辺では珍しい、
南砺と同じ散居村にした。
実りも少なく、ようやく周囲の村なみに
なるまで50年の年月が経った。
周囲からは差別され、お嫁さんも
ほとんど貰えなかったという。
「籾寄せ」という、相互扶助制度をつくり、
病気や災害で苦しむ仲間を助けた。
野原さんは五箇山の「結い」の精神が、
今も生きていますと、きっぱり。
現在は、専業農家や、鯉の養殖、
ワカサギ漁などで、
成功している人たちばかり。
信仰心、結い、進取の気性は、
母村の利賀村より強いかも。
三重大学の中川先生(富山出身、地理学)の
多年にわたる研究からも、裏づけられます。
前夜祭で、雨の中を
地元・母村利賀のみなさんは、
山祭りの石かちで歓迎。
出身会の人たちも綱を曳きます。
村の宴会は、いつまでも続きました。
200年の時間を超えて。
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2008年06月28日
北陸の
ナショナル・ジオグラフィック誌をめざす、
「自然人」の編集長から、悲痛な電話が。
金沢で発行であるが、
富山の記事が圧倒的に多い。
夏の号の締切りが過ぎたのに、
メイン記事の相手がドタキャン。
南砺市あたりで、ふさわしい人物で
取材にムリの効く人はいないか。
編集にかかわっていると、よくあること。
定期刊行物なら、締切りが命。
美術館の入り口の
「福寿桜」を移植成功させた、
すごい桜守りがいますよ、と
紹介したのが、この人、
水口造園社長の
水口暉夫さん
「自然人」には、
この巨樹の移植を奇跡的に
成功させた特集が載った。
富山写真語・万華鏡の
173号「一木一草」にも
聞き書きインタビューで
紹介している。
小矢部川の上流の
小院瀬見のご自宅を訪問して
びっくりした。
屋敷の入り口に
どかんと、巨大な庭石が。
愛着があって、売る気はないようだ。
この数年、カシノナガキクイムシの
発生による被害が広がり、
社会問題になった。
山がおかしい。健康をとりもどさねば。
NPO法人「南砺の山々を守る
実行委員会」発起人となり、
被害樹の伐採と植樹、
さらに枯れた木をもとに、炭焼きを。
このユーモラスな、
炭のふくろうは、とても人気があり、
道の駅の目玉商品になった。
水口さんから、
一枚の写真を見せてもらった。
仕事場に飛び込んできた、
一羽の大きなフクロウ。
撮影後、森に還した。
いつも背戸の森から鳴き声がするという。
南砺の森の
見張り役であると笑う。
現在も仲間と共に、
800人もの参加で、南砺の山に
植樹祭のイベントを続けている。
本業の造園から、
地球の庭づくりへと
フクロウのように飛び立った人である。
まさに南砺の森の
生きた守り神に昇格された。
ことしの福寿桜は
ひときわ見事に花を咲かせた。
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2008年06月14日
たまには、私事で失礼。
何度も東京の重役から誘われた。
どんな魅力的な条件でも、
すべて辞退して、富山から離れなかった。
その理由は、
とやまで、すてきな人との出逢いに
恵まれてきたからである。
気が小さいオタクだったせいも。
前の会社では、ダントツの名刺の消費だった。
しかし、南砺市にお世話になってから、
さらにその3倍は使っている。
年賀状の7割は、この数年の人脈。
ありがたいことと感謝の毎日。
地方で暮らし、仕事をする醍醐味である。
人間的にうれしい人々の存在は、
8冊の名刺ファイルに収まって、
自分の何ものにも代えがたい財産となった。
ひとつだけ嫌になること。
それは、
田舎の甘さ。
むかし、
職場でコピーライターや
デザイナーを数十人、パートナーとして
苦楽を共にした。
男女を問わず、若い人たちに
チャンスをどんどん作って、世に出した。
いい時代でもあったが、
東京に負けない人材が欲しかった。
数年で、何人もが目の覚めるような、
評価される素晴らしい仕事を残してくれた。
が、
問題は、そこから。
地方では、どの世界でも10年がんばれば、
たいていその道の第一人者になれる。
マスコミに載ったり、ちやほやされだして、
本人は有頂天であるが、
人の言うことを聞かなくなる。
気持ちは理解できる。
態度がでかくなる。
部下を育てられない。
友だちも離れる。
作品の芯が止まってしまう。いや後退する。
忠告は聞かず、避ける。
最後には
こちらが恨まれてしまう。
まったく割りにあわない。
結果、どれだけ有望な
才能ある人材を失ったかわからない。
不徳の致すところで恥ずかしいが。
中国の史記から
「野郎自大」
(野郎の王が漢の広大なことを知らず、
自らを強大と思って漢の使者と接したことから)
自分の力量を知らないで、幅を利かす態度を
とるたとえ。野郎大。
実は、管理職に抜擢されたとき、
大阪の居酒屋で、役員が諭してくれた言葉。
むかしは、いい上司がいた。
ときには、このことを忘れそうになる。
東京など大都会には、
どんなに登りつめたようでも、
その上に、そのまた上に、
怖い人がうじゃうじゃ居る。
謙虚にならざるを得ないし、
先輩に礼を失しては生きていけない。
大都市は厳しい。
田舎は、甘やかす。
でも、アンテナを高くすると、
地方でも、隣のジャンルに
やはり凄い人が居る。
棟方志功は、
南砺に住んだとき、
そういう人を探す嗅覚があった。
すかさず、くらいついて、
自分のものにしてしまう。
恐るべき「食人種」でもあった。
そして、
田舎の甘えも嫌った。
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2008年06月08日
資料を集めているうちに
時間が無くて、コラム掲載が遅れました。
それにしても、この欄は
ブログと比較しても元気がない。
書き込みもほとんどありません。
なにか、いい方法がありませんか。

平成17年10月から、
富山大学、富山医科薬科大学
そして国立高岡短大が統合されました。
それに先立つ、初代学長に
西頭徳三さんが選出
されました。
今は、新キャンパスの顔、
とやまの顔、
そして南砺の誇る広告塔です。

3年前の6月15日のことです。
国立高岡短大の教授のもとへ、
写真語・万華鏡の取材で行っていました。
夕方、事務所がなんだか騒然としています。
その日、新生富山大学の
初代学長選挙の日でした。
4人の候補、2回の投票で、最も基礎票の
少ないはずの高岡短大の西頭学長が
劇的な逆転で選出されたと言うのです。
駅頭では号外が配られるという、
ビッグニュースでした。
すぐ、高岡ニューオータニホテルで、
高岡短大教授会だけの祝賀会がセットされ
私も紛れ込ませてもらいました。
主なきパーテーの途中、記者会見を
済ませた新学長がタクシーで
富山から到着、興奮のお祝いでした。
「先生、おめでとうございます」
「あれ?なんであんたがここに?」
「えへへ…」

昭和13年?旧福光町荒木で生まれ、
京都大学大学院農学研究科終了
農学博士として、
京大、山口大、愛媛大、
その間、土地改良の経済効果などの
フィールド調査、その分野の第一人者。
請われて、平成15年、
高岡短大の学長に。
そして、劇的な富大学長へ。
そのあとのご活躍は、ご存知の通り。
失礼ながら、
県知事より多忙で、人望も高い。
8学部、2万人の学生と教職員の
トップとして、権限もこれまでとは
比較にならない重責である。

ご本人によると、
高岡へ赴任が、火中の栗を拾うことだった。
おまけに、
富大学長選挙も2度目の火中の栗。
勝ち目がないことが、容易に予想できた。
このトシになって、
面接試験があろうとは、と
お祝いの会では笑わせておられたが。
やはり、過去の大学の改革の実績と理論。
ほとけの徳さん――のニックネーム通り、
知的な人柄を、選考委員は見逃さなかった。
町(当時)の有志に呼びかけて、
すぐ、お祝いの会をセッテイングした。
これまでも、
専門領域を生かして、米のフォーラムや
米騒動のゆかりの「米蔵」保存運動に
ご尽力をいただいた。
実は、
この秋の農水関係全国大会にも
郷里の先人、松村謙三さんの
顕彰の講演をお願いしたばかり。
いよいよ、
南砺市の顔として、
出番が生れようとしている。

かって、松村謙三さんは、
「政治家の使命は、若者の眼前に炎を
燃え上がらせることです。それ以外に
政治の眼目はありません」という
有名な語録を残している。
西頭学長は、いま、
まさに、若者に未来を説くことができる、
最高の適任者であろう。
時間が無くて、コラム掲載が遅れました。
それにしても、この欄は
ブログと比較しても元気がない。
書き込みもほとんどありません。
なにか、いい方法がありませんか。
平成17年10月から、
富山大学、富山医科薬科大学
そして国立高岡短大が統合されました。
それに先立つ、初代学長に
西頭徳三さんが選出
されました。
今は、新キャンパスの顔、
とやまの顔、
そして南砺の誇る広告塔です。
3年前の6月15日のことです。
国立高岡短大の教授のもとへ、
写真語・万華鏡の取材で行っていました。
夕方、事務所がなんだか騒然としています。
その日、新生富山大学の
初代学長選挙の日でした。
4人の候補、2回の投票で、最も基礎票の
少ないはずの高岡短大の西頭学長が
劇的な逆転で選出されたと言うのです。
駅頭では号外が配られるという、
ビッグニュースでした。
すぐ、高岡ニューオータニホテルで、
高岡短大教授会だけの祝賀会がセットされ
私も紛れ込ませてもらいました。
主なきパーテーの途中、記者会見を
済ませた新学長がタクシーで
富山から到着、興奮のお祝いでした。
「先生、おめでとうございます」
「あれ?なんであんたがここに?」
「えへへ…」

昭和13年?旧福光町荒木で生まれ、
京都大学大学院農学研究科終了
農学博士として、
京大、山口大、愛媛大、
その間、土地改良の経済効果などの
フィールド調査、その分野の第一人者。
請われて、平成15年、
高岡短大の学長に。
そして、劇的な富大学長へ。
そのあとのご活躍は、ご存知の通り。
失礼ながら、
県知事より多忙で、人望も高い。
8学部、2万人の学生と教職員の
トップとして、権限もこれまでとは
比較にならない重責である。
ご本人によると、
高岡へ赴任が、火中の栗を拾うことだった。
おまけに、
富大学長選挙も2度目の火中の栗。
勝ち目がないことが、容易に予想できた。
このトシになって、
面接試験があろうとは、と
お祝いの会では笑わせておられたが。
やはり、過去の大学の改革の実績と理論。
ほとけの徳さん――のニックネーム通り、
知的な人柄を、選考委員は見逃さなかった。
町(当時)の有志に呼びかけて、
すぐ、お祝いの会をセッテイングした。
これまでも、
専門領域を生かして、米のフォーラムや
米騒動のゆかりの「米蔵」保存運動に
ご尽力をいただいた。
実は、
この秋の農水関係全国大会にも
郷里の先人、松村謙三さんの
顕彰の講演をお願いしたばかり。
いよいよ、
南砺市の顔として、
出番が生れようとしている。
かって、松村謙三さんは、
「政治家の使命は、若者の眼前に炎を
燃え上がらせることです。それ以外に
政治の眼目はありません」という
有名な語録を残している。
西頭学長は、いま、
まさに、若者に未来を説くことができる、
最高の適任者であろう。
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2008年05月31日
すっかり、
南砺市の顔になってしまった、
嵐 龍夫さん(80)
先日、元気なお顔を
美術館へ見せられた。2年ぶりである。
実は、富山写真語・万華鏡の
176号「樹皮」にご登場いただいた。
人柄もあるけれど、その風貌が、
北陸銀行さんの目にとまり、昨年の
創業130年記念のCMのモデルになった。
北陸だけでなく、北海道まで
この笑顔がコマーシャルに流れていた。
立野脇の小矢部川上流で、
写真家・風間耕司さんの隣からスナップ。
ポスター、チラシに登場のシーンである。
自分の持ち山で、苦労してシイタケ栽培を。
浄土真宗の信心の篤い、
平成の妙好人でもある。
現在も、干ししいたけを
週2回、砺波市の昼市で販売されている。
嵐さんは、18歳のとき、
志願して海軍へ。駆逐艦の「朝顔」に乗船。
台湾の軍港キールンから、
フィリッピン沖海戦に2回も出撃。
九死に一生を得て奇跡的に帰還。
戦後、太美山村長の祖父に引き続いて、
山仕事ひとすじ。
まだ、杉材が高価だったころである。
その後、シイタケ栽培に切り替えて、
今日がある。
山のくらし、中でも絶えようとしている
樹皮の文化、民俗の貴重な記録をまとめた。
関係方面から、絶賛された特集である。
縄文時代以前から、我われ先人が守ってきた、
森の恵みを、どう後世に伝えることが、
可能かを悩みながら、取材した。
実は、4月19日の開会式には、
重症の風邪で出席は叶わなかった。
10日間も飲まず食わず。
救急車で担ぎこまれる。
それでも療養中は、
娘さんが届けたポスターを
毎日眺めながら、なんとしても恢復して、
100景展を見に行きたい一念で、
ようやく実現したのだったとのこと。
この日、ずっと取り上げられていた、
免許証とキーがもらえたと、うれしそう。
いい冥土のみやげができたちゃ。
いつ死んでも本望や。
ダメダメ。南砺の顔さん、
がんばってもらわなくっちゃ。
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2008年05月17日
今回の「忘れ得ぬ人」
ちょっと変わって、
まだお会いしたことのない、
3000年前の縄文人です。
まちがいなく、
南砺市のご先祖さまです。
本籍地は、
南砺市井口地区です。

いま、福光美術館で、
異例の展示品です。
南砺の100景展
写真家の、
風間耕司さんが撮影した
井口出土の縄文土器
「イノシシ形注口土器」の
モノクロ写真が飾ってあります。
その前に、
陳列ケースに入った、
実物の土器も展示されています。
富山県埋蔵文化財センターの
格別のご好意で、
お借りすることができました。
センター発行の「埋文とやま」92号に
くわしく報告されています。
日本で唯一の
貴重で珍しい縄文土器です。
昭和54年の遺跡発掘調査で、
イノシシ形の注口土器が発掘されました。
液体(お酒や灯油など?)を入れた、
縄文土器ですが、
イノシシが口を空けた造形は
いま見ても、立派な現代アートです。
南砺の3000年前の、
優れた無名の?芸術家がいました。
井口という地名は、
案外、この「猪口」から付いたのかも。
同じく、
立野ヶ原遺跡から出土の、
メノウの石器も展示中。
これは、なんと、
3万年前の南砺市民の作品です。
6月8日(日)まで開催です。
火曜日定休。中学生以下は無料。
ちょっと変わって、
まだお会いしたことのない、
3000年前の縄文人です。
まちがいなく、
南砺市のご先祖さまです。
本籍地は、
南砺市井口地区です。
いま、福光美術館で、
異例の展示品です。
南砺の100景展
写真家の、
風間耕司さんが撮影した
井口出土の縄文土器
「イノシシ形注口土器」の
モノクロ写真が飾ってあります。
その前に、
陳列ケースに入った、
実物の土器も展示されています。
富山県埋蔵文化財センターの
格別のご好意で、
お借りすることができました。
センター発行の「埋文とやま」92号に
くわしく報告されています。
日本で唯一の
貴重で珍しい縄文土器です。
昭和54年の遺跡発掘調査で、
イノシシ形の注口土器が発掘されました。
液体(お酒や灯油など?)を入れた、
縄文土器ですが、
イノシシが口を空けた造形は
いま見ても、立派な現代アートです。
南砺の3000年前の、
優れた無名の?芸術家がいました。
井口という地名は、
案外、この「猪口」から付いたのかも。
同じく、
立野ヶ原遺跡から出土の、
メノウの石器も展示中。
これは、なんと、
3万年前の南砺市民の作品です。
6月8日(日)まで開催です。
火曜日定休。中学生以下は無料。
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2008年04月29日
南砺に春を呼ぶ「歓喜」の夕べ。
あれから1ヶ月。
大テーブルいっぱいに積み上げていた、
資料を整理していたときに、
井波小学校合唱部から、ずっしりと
分厚い便りが届きました。


第九を歌ったときは、
3年、4年、5年生の40人。

いまは6年生になった、樹里ちゃん。
私たちは、ドイツの人と歌ったり、
玄楽器とあわせて歌うのがはじめてでした。
とても楽しかったです。
グーテンターク!
ドイツの合唱団も
このちびっ子合唱団がお気に入り。
子どもたちも、しっかりあいさつを覚えて、
ちゃっかり交流していました。

同じく6年生の薫ちゃん。
いろんな体験ができて、
とても勉強になりました。
何よりもおどろいたのは、座席に
お客さんがあふれていた事です。
あんなにたくさん来てくださったのは
初めてですごくうれしかったです。
そのほか、32人もの
作文が書かれています。
最初は、
ドイツ語と楽譜を見て、こりゃダメだと
あきらめそうになったり、
巻き舌の発音練習をくりかえし、
家でCDを聞き、
学校の行きかえりにも、
必死に練習したことなどがつづられています。
そうして、
みんなが暗譜で覚えたことも。

大人と一緒に歌うのに
びっくりしたり、
カウフボイレンの歌声にうっとり。
弦楽六重奏に合わせたことが、
とても新鮮な体験だったようです。

超満員の客席に感激し、
ソリストの迫力にびっくり。
うまく歌えたことに
全員がうれしかったと書いています。

家族が来てくれたこと、
これからもめったに体験できないだろう、
自分が、がんばって、
大きい声で精いっぱい歌えたこと、
そして、成長したと実感しています。
小学生が本場のメンバーと、
一緒に歌う第九は
おそらく日本で初めてのこと。
きっと、
小さな南砺市民たちの
未来に対して、
大きなプレゼントに
なったことでしょう。
指導の先生、保護者のみなさん
スタッフのみなさん、
ありがとうございました。
あれから1ヶ月。
大テーブルいっぱいに積み上げていた、
資料を整理していたときに、
井波小学校合唱部から、ずっしりと
分厚い便りが届きました。
第九を歌ったときは、
3年、4年、5年生の40人。
いまは6年生になった、樹里ちゃん。
私たちは、ドイツの人と歌ったり、
玄楽器とあわせて歌うのがはじめてでした。
とても楽しかったです。
グーテンターク!
ドイツの合唱団も
このちびっ子合唱団がお気に入り。
子どもたちも、しっかりあいさつを覚えて、
ちゃっかり交流していました。
同じく6年生の薫ちゃん。
いろんな体験ができて、
とても勉強になりました。
何よりもおどろいたのは、座席に
お客さんがあふれていた事です。
あんなにたくさん来てくださったのは
初めてですごくうれしかったです。
そのほか、32人もの
作文が書かれています。
最初は、
ドイツ語と楽譜を見て、こりゃダメだと
あきらめそうになったり、
巻き舌の発音練習をくりかえし、
家でCDを聞き、
学校の行きかえりにも、
必死に練習したことなどがつづられています。
そうして、
みんなが暗譜で覚えたことも。
大人と一緒に歌うのに
びっくりしたり、
カウフボイレンの歌声にうっとり。
弦楽六重奏に合わせたことが、
とても新鮮な体験だったようです。
超満員の客席に感激し、
ソリストの迫力にびっくり。
うまく歌えたことに
全員がうれしかったと書いています。
家族が来てくれたこと、
これからもめったに体験できないだろう、
自分が、がんばって、
大きい声で精いっぱい歌えたこと、
そして、成長したと実感しています。
小学生が本場のメンバーと、
一緒に歌う第九は
おそらく日本で初めてのこと。
きっと、
小さな南砺市民たちの
未来に対して、
大きなプレゼントに
なったことでしょう。
指導の先生、保護者のみなさん
スタッフのみなさん、
ありがとうございました。
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2008年04月19日
これは、終戦直後
立野ヶ原の開拓と水田化のために
完成された、是ヶ谷溜池である。
このあたりは、丘陵地帯のため
水が慢性的に不足していて、
いくつもの溜池が作られていた。
最も大きいのが、桜ヶ池である。
この医王山が映り込んだ
神秘的な溜め池の写真撮影は
風間耕司氏によるものである。
南砺の100景展で
最も話題を集めている作品。
立野ヶ原出土の、
3万年前の新石器時代の
立野ヶ原型ナイフ型石器。
メノウ製のするどい石器である。
会場には、
県の埋蔵文化財センター所蔵の
現物も特別展示され、
話題を集めている。
風間氏(写真手前)は、
45年前に、東京から、富山の魅力に魅かれ
富山へ移住した、商業写真家。
コマーシャル・フォトのプロである。
レベルの高い技術とともに、
第二のふるさと、富山に
写真によるメッセージを
送り続けている。
実は、彼とは半世紀近くの
仕事のパートナーである。
二人で、仲間の写真家・関口照生と
女優・竹下景子さんの
仲を取り持った、不思議な縁もあり、
竹下さんも
今回の開会式に応援のため
ドラマ収録を中断して駆けつけた。
富山写真語・万華鏡などでは、
とりわけ、南砺地方の取材が多く、
おそらく、
どんな南砺の市民よりも、
風間氏は南砺市を知り尽くしているだろう。
そして、
いま南砺市のかがやきを
内外に発信し続けている。
ふるさと南砺市の
知られざる姿を
発見するためにも、
ぜひ、
風間ワールドを
美術館でご覧いただきたい。
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2008年04月06日
この公式コラム「忘れ得ぬ人」で、前回
はじめて一回お休みしてしまいました。
夕べも生誕100年記念でBSで特集していた、
カラヤン指揮、ベルリンフィルの、
1983年・第九の4楽章を聴きながら、
この記事を書いています。

ゴットフリート・ハーン
1945年、カウフボイレン市生れ。
ミュンヘンでクルト・エンゲルトに師事する。
1968年より名門・シュトウットガルト放送交響楽団
のチェリストを務めるかたわら、
50年前に父親ルードヴィッヒ・ハーンが創設した、
カウフボイレン市のマルテインスフィンケン教会
専属合唱団の常任指揮者も引き継いだ。
つまり、南ドイツのトップのアーテイストであり、
室内楽と合唱団の二つの世界で活躍されてきた。
もちろん、両者が合同で公演されたことはない。
南砺市で、初めて実現したことになる。
結果として、ハーンさんは
両方掛け持ちで大活躍の忙しさとなった。

ハーンさん親子が、
手塩にかけて育てられた、合唱団。
福野ヘリオス公演で、多くの方々に
感動していただいた。
南砺中央病院ロビーでの
チャリテイーでは、患者の皆さんからも、
とても喜ばれたという。


第九では、チェロ奏者に。(赤いチェロ)

記念すべき、「歓喜」の夕べ。
フィナーレ、カーテンコールに際して、
実行委員会から、ハーンさんにも
感謝の花束が贈られた。
実際のハーンさんは、とてもシャイで、
いつも静かにほほえんでいる方。

2つのドイツの音楽グループが、
南砺市で合流して、役割分担するという、
離れ業は、スケジュールを運営する側として、
実にややこしい作業であった。
なぜなら、ハーンさんが、
あちら、こちらで立場を変えて出演されるから。
帰りのバスは、名古屋へ。
2台に分乗の予定を、ハーンさんの希望で、
両者一緒に名古屋へ向うことができた。
南砺に
2つのホンモノの音楽を
ありがとう、ハーンさん。
また、お会いしましょう。
<蛇足ながら>
ギャラの支払いに悩んだ。シュトウットガルト
ゾリステンはプロ。
カウフボイレンはアマチュア。
さて、指揮者も兼ねたハーンさんのギャラは?
プロデユーサーの小出さんに相談したら、
なんと、弦楽六重奏のメンバーは、
出演のあるなしにかかわらず、
6人公平に分配するのだという。
30年間、結束して活動するひとたちの、
素顔をこのたび、かいま見て感動した。
はじめて一回お休みしてしまいました。
夕べも生誕100年記念でBSで特集していた、
カラヤン指揮、ベルリンフィルの、
1983年・第九の4楽章を聴きながら、
この記事を書いています。
ゴットフリート・ハーン
1945年、カウフボイレン市生れ。
ミュンヘンでクルト・エンゲルトに師事する。
1968年より名門・シュトウットガルト放送交響楽団
のチェリストを務めるかたわら、
50年前に父親ルードヴィッヒ・ハーンが創設した、
カウフボイレン市のマルテインスフィンケン教会
専属合唱団の常任指揮者も引き継いだ。
つまり、南ドイツのトップのアーテイストであり、
室内楽と合唱団の二つの世界で活躍されてきた。
もちろん、両者が合同で公演されたことはない。
南砺市で、初めて実現したことになる。
結果として、ハーンさんは
両方掛け持ちで大活躍の忙しさとなった。
ハーンさん親子が、
手塩にかけて育てられた、合唱団。
福野ヘリオス公演で、多くの方々に
感動していただいた。
南砺中央病院ロビーでの
チャリテイーでは、患者の皆さんからも、
とても喜ばれたという。
第九では、チェロ奏者に。(赤いチェロ)
記念すべき、「歓喜」の夕べ。
フィナーレ、カーテンコールに際して、
実行委員会から、ハーンさんにも
感謝の花束が贈られた。
実際のハーンさんは、とてもシャイで、
いつも静かにほほえんでいる方。
2つのドイツの音楽グループが、
南砺市で合流して、役割分担するという、
離れ業は、スケジュールを運営する側として、
実にややこしい作業であった。
なぜなら、ハーンさんが、
あちら、こちらで立場を変えて出演されるから。
帰りのバスは、名古屋へ。
2台に分乗の予定を、ハーンさんの希望で、
両者一緒に名古屋へ向うことができた。
南砺に
2つのホンモノの音楽を
ありがとう、ハーンさん。
また、お会いしましょう。
<蛇足ながら>
ギャラの支払いに悩んだ。シュトウットガルト
ゾリステンはプロ。
カウフボイレンはアマチュア。
さて、指揮者も兼ねたハーンさんのギャラは?
プロデユーサーの小出さんに相談したら、
なんと、弦楽六重奏のメンバーは、
出演のあるなしにかかわらず、
6人公平に分配するのだという。
30年間、結束して活動するひとたちの、
素顔をこのたび、かいま見て感動した。
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2008年03月08日
いよいよ、南砺に春を呼ぶ
「歓喜」の夕べです。
南砺市合併の際、第九をという声が
あったそうですが、このほどようやく実現します。
企画段階で、井波小学校の山田先生が、
「うちの子どもたちにも、第九を歌わせたい」
ええーッ!?
思わず絶句、関係者も顔を見合わせました。
楽譜も読めない。ドイツ語の原語で?
声の質は合うのか?日数が足りない。
前例も聞いたことがない。
ところが、さすが音楽の教育現場の経験者の
みなさんが、子どもの素晴らしさを信じて、
挑戦することに決定しました。
成人の7つの合唱団による合同練習は
昨年暮から久田 潤先生の楽しい指導で、
着々と仕上がっていきます。
子どもたちは、学校行事の発表会が済んで、
やっと2月から、練習開始です。
大丈夫かいな?

心配になって、新聞社の記者と
練習風景をのぞきにいきました。
3年生〜5年生の40人です。
いやはや、その透明な美しい声。迫力!。
天使の声というのは、
こんなのを言うのでしょうか。
思わず涙がこぼれそうになりました。
ベートーベンが聴いたら?(でも、彼は
この頃には耳が聞こえませんでした)
資料を調べていましたら、ベートーベンの
この第九の初演の合唱団員は100名もいません。
大半がアマチュアで、少年合唱団も
20数名参加しています。
ソプラノとアルトを担当していました。
南砺の第九は、ベートーベンも副指揮していた、
初演より2倍の人数なのです。

富山県の合唱コンクールで金賞、
中部ブロックで銀賞。その子どもたちの
怖いもの知らずの挑戦を続けているのが、
指導の山田和美先生です。
子どもたちを信じていればこその、
練習風景でした。

24日、そして3月2日と、
大人たちとの合同練習です。
最初は始めての経験で戸惑っていましたが、
次第に、場の雰囲気に馴染んで
いい声が出始めました。

子どもたちは楽譜はまだ読めません。
大人と同じ楽譜のカタカナの歌詞を
メモしながら、あっという間に覚えてしまいます。
指揮者の顔を見ながら歌えるのです。
まあ、暗譜ですね。
それを見た大人たちは、参ったなあ、と
こぼしていました。
いよいよ、春が近づいてきます。
「歓喜」の夕べです。
南砺市合併の際、第九をという声が
あったそうですが、このほどようやく実現します。
企画段階で、井波小学校の山田先生が、
「うちの子どもたちにも、第九を歌わせたい」
ええーッ!?
思わず絶句、関係者も顔を見合わせました。
楽譜も読めない。ドイツ語の原語で?
声の質は合うのか?日数が足りない。
前例も聞いたことがない。
ところが、さすが音楽の教育現場の経験者の
みなさんが、子どもの素晴らしさを信じて、
挑戦することに決定しました。
成人の7つの合唱団による合同練習は
昨年暮から久田 潤先生の楽しい指導で、
着々と仕上がっていきます。
子どもたちは、学校行事の発表会が済んで、
やっと2月から、練習開始です。
大丈夫かいな?
心配になって、新聞社の記者と
練習風景をのぞきにいきました。
3年生〜5年生の40人です。
いやはや、その透明な美しい声。迫力!。
天使の声というのは、
こんなのを言うのでしょうか。
思わず涙がこぼれそうになりました。
ベートーベンが聴いたら?(でも、彼は
この頃には耳が聞こえませんでした)
資料を調べていましたら、ベートーベンの
この第九の初演の合唱団員は100名もいません。
大半がアマチュアで、少年合唱団も
20数名参加しています。
ソプラノとアルトを担当していました。
南砺の第九は、ベートーベンも副指揮していた、
初演より2倍の人数なのです。
富山県の合唱コンクールで金賞、
中部ブロックで銀賞。その子どもたちの
怖いもの知らずの挑戦を続けているのが、
指導の山田和美先生です。
子どもたちを信じていればこその、
練習風景でした。
24日、そして3月2日と、
大人たちとの合同練習です。
最初は始めての経験で戸惑っていましたが、
次第に、場の雰囲気に馴染んで
いい声が出始めました。
子どもたちは楽譜はまだ読めません。
大人と同じ楽譜のカタカナの歌詞を
メモしながら、あっという間に覚えてしまいます。
指揮者の顔を見ながら歌えるのです。
まあ、暗譜ですね。
それを見た大人たちは、参ったなあ、と
こぼしていました。
いよいよ、春が近づいてきます。
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2008年02月23日
南砺市内外に、貼られている
ショッキング・ピンクのポスター。
南砺に春を呼ぶ
「歓喜」の夕べ
あと、一ヶ月となりました。
ベートーベンの第九、その第4楽章「合唱」
歓喜の歌とも呼ばれる名曲の
作詞者は、シラーです。
200年前、フランス革命のあと、
ヨーロッパ全土は、新しい時代の到来に、
熱狂していた頃の詩ですから、
ベートーベンは、この詩に熱い想いを持ち、
30年間暖めて作曲したのが、
この第九、歓喜の合唱曲です。
歌詞もそうですが、合唱を聴いているだけで
気分が高揚してきます。歌っている人は
なおのことですね。
(練習の雰囲気でわかります)
南砺市の3つの文化ホールを結んで
連日素晴らしいコンサートが開かれる。
そのきっかけを作ったのは、
南砺市合併の際にヘリオスで公演した、
シュトウットガルト弦楽六重奏のみなさんです。
シラーは、南ドイツの中心都市である、
シュトウットガルト市がふるさとです。
(4年前に行きました)
ダイムラー・ベンツの本社があります。
かって、ヒットラーは、このヨーロッパ随一の
美しい都市を爆撃から守ろうと必死になり、
連合軍は徹底して破壊しました。
戦後、市民はみごとにむかしの姿に復元しました。
森に包まれた中心部に2000人収容の
ベートーベンホールがあり、
ベルリンフィルに次ぐ、有名な100人近い編成の
シュトウットガルト・オーケストラがあります。
その主席奏者たちが、今回のみなさんです。
いちばん手前のヴァイオリンが、
アルベルト・ブーゼンさん。モニカ夫人と同伴。
このほど、ドイツからプロデューサーの
小出さんを通じて、連絡が入りました。
南砺市・じょうはな座や第九での演奏を
大変楽しみにしている。
ついては、予定より一日はやく南砺市へ入りたい。
そのぶん、自費で払うからとのこと。
体調をととのえ、しっかり練習もしたい。
30年もの呼吸のあった、世界トップのメンバー。
それでも、直前まで練習し、みなさんに
いい音楽を楽しんで欲しいという理由です。
(宿は取りました。ブーゼンさんは、
胸の重い石が取れたと喜んでいます。)
彼らの音楽に対する真摯な姿勢に感動します。
メンバーの弦楽器は18世紀の名器ばかり。
信じられないような素敵な音です。
プログラムも、
今回はめったに聞けない名曲揃いです。
じょうはな座は、室内楽にぴったりです。
東京も大阪も興味なし。
風光明媚な南砺市へは今回が4回目、
南ドイツとよく似た、この地が大好きな
メンバーを、満席で迎えたいものですね。
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2008年02月09日
去る、1月26日に
砺波市のチューリップ四季彩館で、
成瀬有紀「萌」展がオープンしました。
モダンアート協会会員推挙と、
棟方志功献花展25周年の記念展です。
会場を圧倒する、オブジェ「萌(もえ)」
さすが草月流師範です。
年齢を感じさせません。(失礼)
各方面から、予想以上の
お客様で埋まりました。
かって、利賀村で
無謀ともいえる「世界そば博覧会」が
開催され、大成功を収めました。
そこで、会場で展開されたのが、
成瀬さんの、会場のオブジェでした。
旧井口村の
むらおこし事業で、
椿によるむらおこしを提案しました。
そのときの、記録写真です。
(私が撮影しました。)
その会場のメインデスプレイは
いつも、成瀬さんの社中による
椿のオブジェの大作です。
棟方志功ゆかりの、
光徳寺でも、つばき祭りを
境内、寺院内いっぱいに
展示されてきました。
棟方志功記念館の
愛染苑で、
なんと25年間も献花展と、
館内に花を生けてもらってきました。
感謝、感謝以外、ことばはありません。
愛染苑は、
街中の小さな美術館。
年間1万人近いお客様が見えますが、
その7割が県外客。
クチコミだけで、全国から
ムナカタファンがやってきます。
県内に、こんな文化施設はありません。
それも、成瀬さんの華のおかげでしょう。
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2008年01月26日
南砺の平野のどこからでも望める、
とんがり屋根のような桑山。
そのふもとの雑木林をバックにして、
白いレストランがあり、その隣にある
玄太グラス工房
レストランのランチの折には、
たいていこの工房を覗くことにしている。
真っ赤なガス炉から、
溶けたあめのようなガラスを頻繁に、
出し入れする、鈴木玄太さんは、
いつ見ても、髭面に汗びっしょり。
1971年、京都の有名な漆芸家の
長男に生まれる。36歳。
ガラス工芸の道を志して、スエーデンの学校や
スイスのグラス工房、ニュージーランド、
ドイツの先生、
イタリアのヴェニスなどの工房で
いわば、武者修行の日々を重ねる。
旧福光、川西に工房を構えたのは、
なんといっても、南砺の風光。
「ここの風がいいんですよ。
立山連峰も遠望できるし。」
奥さんのちなみさんも、
絵に描いたような、パートナー。
富山市でも公的なガラス工房が
活発な活動を続けている。
チェコからの先生や、すぐれものの
教授陣とも、ずっとお付き合いしているが、
どちらかというと、芸術志向である。
しかし、ここ玄太グラスは、
日用品としての作品づくりをめざす。
しかし、その作品は、芸術の域である。
東京や大阪、京都など大都市の
一流百貨店で、個展を開いて販売される。
工房のなかのギャラリーに展示されているが、
結構な値段である。
でも、仕事ぶりや、完成度の高い出来は、
当然という気がする。
事実、何点も購入して愛用している。
北陸特有の気候も人間性も、
じとっとした風土にあって、
いつも明るく、制作を楽しむお二人は、
南砺に、新しい、
創造の風を吹き込んでくれるだろう。
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2008年01月12日
ちょうど20年前。
平成と年号が変わった4日目の、
1年1月11日の午前11時。
みごとに、ぞろ目の
忘れられない、記念すべきとき。
利賀村とネパール王国ツクチェ村の
友好村提携の調印式が現地でなされた。
この写真は、私が撮ったものです。
調印直後、好天でありながら、
ヒマラヤの山上からひらひらと、
白い雪がふりかかった。
村の道場主でもある村長は
「散華だなあ」と感慨を漏らされた。
そばによる、国際交流をめざし、
利賀村から友好交流調査団の団長として、
大変な苦労をしながら、調印に
こぎつけたのが、当時の村長
宮崎道正さんである。
前任の村長、野原啓蔵さんが立ち上げた、
そばによる、むらおこし。
そば祭りが大盛況であったことを受けて、
宮崎村長がリーダーとなって、
ネパールとの国際交流をスタートさせた。
それは、世界初の「そばの博物館」を
作り上げるための調査が、きっかけだったが、
ツクチェ村出身のマンダラ画僧、
サシドージ師との
出逢いがあって、瞑想の郷づくり、
世界初の世界そば博覧会へと、
構想はどんどん、膨らんだ。
時代も、高度成長の、バブル絶頂期。
日本も、利賀村も元気いっぱいだった。
4000人が1000人を切るまでに、
過疎が進行していた村の
積極果敢な挑戦は、内外から
高く評価されるようになっていた。
すべてが、さきがけ精神で動いていった。
もし、この村が何もしていなかったら、
おそらく、利賀村は消滅していたことだろう。
のどかな、村まつりも見られなくなったかも。
交流10年目には、友好提携から、
姉妹村提携に発展し、
カトマンズの国際会議場で、
双方の村民が合流して、3日間にわたる
シンポジュウムも開催した。
12年目に、役場で不祥事が発生。
その責任を取って、宮崎村長が退任になる。
さきがけて、村を牽引してきた日々の
しめくくりを兼ねて、
春のツクチェ村への旅。
それは、両村の共同植林事業でもあった。
20年という歳月は、二つの村を
ずいぶん変えてきたが、
その心の絆は、世代交代しながらも
しっかりと受け継がれている。
さきがけて 緑の里から 世界へ
これは、新生南砺市の
総合計画のスローガンである。
宮崎元村長は、
南砺市のさきがけ人のモデルである。
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2008年01月05日
約70年前、
南砺の風土を表現した、
郷土玩具が生まれました。
福光人形です。
福光新町出身の彫刻家、松村秀太郎は
東京美術学校(現東京藝大)を卒業したあと、
ふるさと福光へUターンしました。
彫刻家として制作に励む一方で、
地元に生まれたYM玩具商会(後の太平社)で、
玩具の設計、デザインを担当します。
昭和の始め、青柳喜平衛が
郷土玩具の専門雑誌「べにうし」を編集。
そのなかで、この北陸の片隅で生まれた
風俗人形を見つけて、感激しています。
「たかが一寸五分(5センチ強)の小さな
木彫人形であるが、北方の山農村の
生活が浮かび上がってくる。
厳しい自然の中で頑強に生き抜こうとする
息吹が感じられる。」
あかげっと、ばんどり、ござぼうし、
はんちゃ、うだわら、など
5体がありました。
ノミの鋭さ、泥絵の具の素朴さ。
いま見ても新鮮です。
いま、湯浅直之さんが、
棟方志功記念館・愛染苑に勤務のかたわら、
この復元に取り組んでいます。
福満天神は、この福光人形の伝統と、
その技術から制作されたものです。
ルーツは、鎌倉時代にまで遡ります。
湯浅さんは、
ぜひ、このシリーズを完全に
甦らせるための教室、グループを
作りたいという夢を抱いておられます。
興味のある方は、ぜひご参加ください。
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2007年12月29日
南砺市は、浄土真宗の王国である。
城端の善徳寺も、井波の瑞泉寺も、
檀家というものがない。
それを支えているのが、巡回員という、
信者の懇志金を集める人の存在である。

南砺市竹林の
竹田義治さん(81)
城端別院の巡回員。
春の田植えや、秋の稲刈りを終えると、
城端、福光、井波、福野、戸出、中田
西部金屋、庄川東、柳瀬と
かなり広い範囲、小矢部川東側一帯の、
旧村の世話役を
懇志金のお願いに回る。
また、11月の報恩講のお世話もあり、
真宗王国の貴重な縁の下の人である。
まさに、平成の妙好人であろう。
その一方で、
写真の趣味や、あけぼの会などで、
ふるさとの歴史や風景を記録されている。
その、おだやかな笑顔からは、
想像もできないが、まだ若年のころ、
海軍へ召集され、
海上特攻隊員でもあった。
終戦間際の「カミカゼ」は
よく知られているが、海軍にも
水中、水上、そして戦艦大和のような
特別攻撃隊があった。
生きて還れない、悲壮な歴史である。
竹田さんは、
水上特攻「震洋」という、木製の
小型水上艇のへさきに爆薬を満載し、
敵艦に夜襲をかけるという、特攻である。
いったん出撃命令が下れば、
一巻の終りである。
沖縄戦を目前にして、東南アジアや
台湾などへ配備されたが、
もう、その頃には、こんな軽便船でさえ、
調達出来なくなっていて、
特攻の機会はなく、
生きながらえることが出来た。
農地を耕し、柿を収穫して
ふるさととともに感謝のこころで、
ボランティアを続けられる姿に、
平和のありがたさが体現されている。
南砺の心、そのものではないだろうか。
富山写真語・万華鏡の191号
「となみ詰所」にも紹介しています。
城端の善徳寺も、井波の瑞泉寺も、
檀家というものがない。
それを支えているのが、巡回員という、
信者の懇志金を集める人の存在である。
南砺市竹林の
竹田義治さん(81)
城端別院の巡回員。
春の田植えや、秋の稲刈りを終えると、
城端、福光、井波、福野、戸出、中田
西部金屋、庄川東、柳瀬と
かなり広い範囲、小矢部川東側一帯の、
旧村の世話役を
懇志金のお願いに回る。
また、11月の報恩講のお世話もあり、
真宗王国の貴重な縁の下の人である。
まさに、平成の妙好人であろう。
その一方で、
写真の趣味や、あけぼの会などで、
ふるさとの歴史や風景を記録されている。
その、おだやかな笑顔からは、
想像もできないが、まだ若年のころ、
海軍へ召集され、
海上特攻隊員でもあった。
終戦間際の「カミカゼ」は
よく知られているが、海軍にも
水中、水上、そして戦艦大和のような
特別攻撃隊があった。
生きて還れない、悲壮な歴史である。
竹田さんは、
水上特攻「震洋」という、木製の
小型水上艇のへさきに爆薬を満載し、
敵艦に夜襲をかけるという、特攻である。
いったん出撃命令が下れば、
一巻の終りである。
沖縄戦を目前にして、東南アジアや
台湾などへ配備されたが、
もう、その頃には、こんな軽便船でさえ、
調達出来なくなっていて、
特攻の機会はなく、
生きながらえることが出来た。
農地を耕し、柿を収穫して
ふるさととともに感謝のこころで、
ボランティアを続けられる姿に、
平和のありがたさが体現されている。
南砺の心、そのものではないだろうか。
富山写真語・万華鏡の191号
「となみ詰所」にも紹介しています。
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2007年12月15日
名古屋で、英語の先生をされている、
小出俟子さん。(こいでまちこさん:右側)
大学のとき、奨学生として渡米。
当時、アメリカの大学で講演していた、
棟方志功の通訳をしたことも。
お兄さんは、N響の有名な主席フルート奏者の
ヒゲの小出信也さんです。
福光・高徳寺で何度も演奏されています。
来年3月24日から27日まで、
南砺市のじょうはな座、福野ヘリオス、
井波総合文化センターを会場に、
ドイツのシュトウットガルト弦楽奏団、
同じく、カウフボイレン混声合唱団、
そして、
南砺市民との合同「第九」合唱と、
3つの文化ホールを結んでの、
音楽イベントが盛大に開かれます。
東海北陸自動車道の全線開通を前にした、
プレイベントでもあります。
小出さんの数十年にわたる、
個人的なボランティア活動で、
ヨーロッパの一流アーテイストとの
信頼関係があり、
このプランが実現します。
シュツットガルトは、南砺市で4度目、
カウフボイレン合唱団は、
2度目になりますが、
市民との合同公演や、ホームステイは
初めてのことです。
このドイツのアーチストたちは、
東京や大阪には興味が無く、
南砺市のような、里山の生活文化のある、
自然や人情が大好きなのです。
こころ優しい、楽しい人たちです。
第一回の練習では、
メゾソプラノの大成勝代(写真:左)が
用意したCDで、ドイツの2つの
メンバーのすばらしい演奏の音色を、
結団式で聞いてもらいました。
とかく、あちこちで暮れに歌われる、
大合唱団の迫力だけてなく、
本場ドイツのみなさんの、
澄んだ繊細な音と声を大事にしませんか、と
提案しました。
南砺市らしい、第九になりそうです。
さきがける南砺市。
そして、世界と交信する南砺市。
そのためには、小出さんのような、
南砺市ファンの存在は貴重です。
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2007年12月01日
いつも列車の窓から眺める、
緑の里の風景。
五箇山も含めて、
かけがえのない遺産。
南砺市の宝ものである。
さる11月25日に、砺波市の
ニチマホールで、佐伯安一さんの
近著の出版記念パーテーが開かれた。
佐伯さんのことを書けば、
それだけで分厚い本になってしまう。
佐伯安一
昭和5年、砺波市久泉生まれ77歳。
高岡商業卒、新聞記者、商工会議所、
そして建設会社総務のかたわら、
民俗学研究ひとすじで、昭和29年から、
当時若干24歳で、
「砺波民俗方言稿」8分冊をガリ版で発行。
それが、民俗学者、柳田国男の目にとまり、
高く評価され、ぜひ出版するようにと
すすめられたのが、
「砺波民俗語彙」である。
柳田国男の最晩年の弟子であった。
以来、民俗学ひとすじの人生。
砺波郷土資料館長を経て、
現在、富山民俗の会代表である。
最近出版された、この本は、
長年にわたる庄川水系と
県西部一円にわたる、散村の
成立のなぞを、膨大で地道な調査により、
解明された、貴重なものである。
世界遺産の合掌民家とならぶ、
豪壮な砺波平野のアズマダチ。
日本一の民家であるが、
それは、比較的近年のことであるという。
本格的な散居村の成立は、
篤い信仰心に裏打ちされた、
一向一揆のころの、爆発的な
農民のエネルギーとともに生まれたとも。
また、庄川の暴れ川との、
闘いの歴史でもある。
―佐伯さんの著作から―
南砺市の旧8町村の町村史で、
先生の監修がないものは皆無のはずである。
先般も、利賀村の
報恩講料理のフォーラムで、
佐伯先生の解説が大好評だった。
かれこれ40年にわたる、
丁寧な指導を受けながらも
何のお返しもできなかったことが
悔やまれる。
とにかく超がつく、謙虚な人柄で、
自分の眼で、足で確かめたもの以外は
絶対、文章にされない。
凡人にはとうてい真似ができない。
民俗学を超えた歴史学者でもあるが、
やわらかい話もされる、楽しい先生である。
その一面、原稿はどんなに忙しくても、
徹夜しても、締め切りに間に合わされる。
温厚な先生を、一度だけ怒らせた。
若いデザイン学生を連れていったら、
「卒業したら、東京へでも行こうかな」
という彼女に対して、
「東京には、あだ花しかない!!」と
きっぱり。
地域を愛する先生の哲学である。
小さな農家のまま、
お金にならない、民俗学という地域貢献。
奥さまの介護しながら、
ご自身も大病を克服された。
お元気で、南砺市の面倒も、
現役で見守っていただきたい方である。
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2007年11月17日
民藝運動は、昭和初年に始まり、
10年代、20年代にピークに達した。
バーナード・リーチや、柳宗悦らが提唱し、
そのなかで、棟方志功も見い出された。
民芸運動は、その後の日本の工業化社会、
ものづくり日本に、大きな貢献をしている。
民藝運動とは、ご存知のように、日本だけの現象で
無名の工人の仕事の美を、過大評価した、
いわば、いっときの流行であった。
無名性のいいものは、あらかた蒐集されてしまい、
実際には著名な河井寛次郎、濱田庄司などの作品が
もてはやされた。
柳の活躍したころの蒐集品には、優れたものが
多い。あとは、いわゆる「民芸調」という駄作である。
民芸ブームに飛びついた、富山市や南砺の人々。
工業県で、隣りの伝統工芸の金沢への対抗意識も
作用したのだと思う。
これらの人々のご縁で棟方志功は、南砺へ疎開した。
やがて、棟方は南砺の浄土真宗の風土に辟易し、
民芸の縛りから超越したくて、苦悩する。
ナムアミダブツや、民芸の申し子のイメージと
棟方志功の実像には、大きな乖離がある。
(宇賀田達雄・祈りの人棟方志功)

そんなとき、棟方の住居・愛染苑に割り込んできたのが
精神科医の式場隆三郎である。
時代の動向を巧みに泳ぎまわり、ゴッホの
精神鑑定のような著作もあるが、
医学的な実績は皆無である。
その5年前に、放浪の画家・山下清を見つけ出し、
世に売り出して、大いに稼いだばかりのときだった。
なんと、棟方の精神鑑定を手がけ、民芸の
機関誌に発表までしている。
結果は、当たり前だが、普通人より飛びぬけて
才気があり、極めて常識人であった。
志功を山下清なみに知的障害者扱いし、
二匹目のどじょうとして、売り出そうとしたのだ。
これは許せない。
そのために、民芸運動に取り入り、柳宗悦を
担ぎ出し、南砺まで、足を運んだ。
終戦間際には、志功に480枚もの不動明王を
タダで描かせている。軍部の幹部に取り入るために
プレゼントしたのではないかとされるが、
依然なぞである。
民芸を語り、棟方を利用した、うさんくさい
こんな人物は、式場だけでなく、
富山市や南砺にもいた。棟方の世話を口実にして
たっぷり役得をモノにしている。
南砺を離れて、棟方はその種の人種には
注意ぶかく距離を置いているし、
地元と遺族との関係悪化という不幸が、
長く続く原因となった。
棟方の膨大な著作の行間には、その不満が
あちこち見受けられ、証言も多い。
棟方一家に支援した松井寿美子、石崎俊彦、
岩倉政治ほか、多くの人たちは、生前
決して自ら、自慢されなかった。
民芸運動は、関係者の物故や、高齢化が続き、
各地の協会や会員も減少している。一定の
役割を果たしたのであろう。
それでも過去の精神論にこだわったり、
南砺が民芸の聖地のように喧伝されている。
そこには「創造」というものは見当たらず、
ただ、名号を唱えて有難がるだけのような気がする。
棟方をはじめ、河井、浜田、芹沢、黒田などの
民芸の巨人は、みな作家である。
クリエーティブのないところに、展望は開かれない。
個人的には、どうも釈然としない。
10年代、20年代にピークに達した。
バーナード・リーチや、柳宗悦らが提唱し、
そのなかで、棟方志功も見い出された。
民芸運動は、その後の日本の工業化社会、
ものづくり日本に、大きな貢献をしている。
民藝運動とは、ご存知のように、日本だけの現象で
無名の工人の仕事の美を、過大評価した、
いわば、いっときの流行であった。
無名性のいいものは、あらかた蒐集されてしまい、
実際には著名な河井寛次郎、濱田庄司などの作品が
もてはやされた。
柳の活躍したころの蒐集品には、優れたものが
多い。あとは、いわゆる「民芸調」という駄作である。
民芸ブームに飛びついた、富山市や南砺の人々。
工業県で、隣りの伝統工芸の金沢への対抗意識も
作用したのだと思う。
これらの人々のご縁で棟方志功は、南砺へ疎開した。
やがて、棟方は南砺の浄土真宗の風土に辟易し、
民芸の縛りから超越したくて、苦悩する。
ナムアミダブツや、民芸の申し子のイメージと
棟方志功の実像には、大きな乖離がある。
(宇賀田達雄・祈りの人棟方志功)
そんなとき、棟方の住居・愛染苑に割り込んできたのが
精神科医の式場隆三郎である。
時代の動向を巧みに泳ぎまわり、ゴッホの
精神鑑定のような著作もあるが、
医学的な実績は皆無である。
その5年前に、放浪の画家・山下清を見つけ出し、
世に売り出して、大いに稼いだばかりのときだった。
なんと、棟方の精神鑑定を手がけ、民芸の
機関誌に発表までしている。
結果は、当たり前だが、普通人より飛びぬけて
才気があり、極めて常識人であった。
志功を山下清なみに知的障害者扱いし、
二匹目のどじょうとして、売り出そうとしたのだ。
これは許せない。
そのために、民芸運動に取り入り、柳宗悦を
担ぎ出し、南砺まで、足を運んだ。
終戦間際には、志功に480枚もの不動明王を
タダで描かせている。軍部の幹部に取り入るために
プレゼントしたのではないかとされるが、
依然なぞである。
民芸を語り、棟方を利用した、うさんくさい
こんな人物は、式場だけでなく、
富山市や南砺にもいた。棟方の世話を口実にして
たっぷり役得をモノにしている。
南砺を離れて、棟方はその種の人種には
注意ぶかく距離を置いているし、
地元と遺族との関係悪化という不幸が、
長く続く原因となった。
棟方の膨大な著作の行間には、その不満が
あちこち見受けられ、証言も多い。
棟方一家に支援した松井寿美子、石崎俊彦、
岩倉政治ほか、多くの人たちは、生前
決して自ら、自慢されなかった。
民芸運動は、関係者の物故や、高齢化が続き、
各地の協会や会員も減少している。一定の
役割を果たしたのであろう。
それでも過去の精神論にこだわったり、
南砺が民芸の聖地のように喧伝されている。
そこには「創造」というものは見当たらず、
ただ、名号を唱えて有難がるだけのような気がする。
棟方をはじめ、河井、浜田、芹沢、黒田などの
民芸の巨人は、みな作家である。
クリエーティブのないところに、展望は開かれない。
個人的には、どうも釈然としない。
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2007年11月03日
雨上がりの
五箇山は、紅葉。
五箇山の
あしたを考える
ビジョンづくり
正確には
南砺市五箇山地域再生ビジョン
策定委員会。
正式に発足しました。
来年の3月末までに
五箇山の再生プランをつくります。
はからずも会長に指名されました。
みんなで農作業の日in五箇山に
引き続いての
大事なプロジェクトです。
林野庁の事業。
担当は、南砺市企画室。
五箇山の現状は
少子高齢社会がどんどん進んでいます。
新しいシナリオといっても
たやすいことではありません。
限界集落だらけです。
公私ともに五箇山に
かかわって40年になります。
どんなにがんばっても、
五箇山の
自助努力だけでは、
再生は不可能です。
まして、
これまでのような行政主導も
きわめてむずかしい時代。
補助金もあまり当てにならず。
残るのは
都市との交流の仕掛け。
それには、
五箇山の魅力は何か、を、
しっかり認識することが
求められるでしょう。
そんな中で、
3年先、5年先、10年後を
展望して生き残り策、
元気を出すための知恵を
どうしてまとめるか。
五箇山地域の3つの地区センターが
中心になって、意見を集約し
アンケートなども実施されると思います。
あなたの
建設的な提案をどうぞお寄せ下さい。
五箇山は、南砺の顔
南砺の源流です。
五箇山の
再生のために―。
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2007年10月20日
こんどのコラムは、いつもと趣向を変えて
町の再発見のお話です。
3年前、ちょうどいまごろ、合併直前でしたが
南ドイツのロイトリンゲン市へ、
美術館の交流事業で行ってきました。
中世そのままの、実に美しい町です。
お城や教会、森に囲まれた夢のようなところ。
人口10万人ぐらいで
ベンツの本社のある、シュトウットガルト市の
衛星都市で、別荘地です。
(来春、このシュトウットガルトの誇る
オーケストラの主席奏者による、弦楽六重奏団
を南砺市に招いています。世界の最高峰です。)
この町は、グリスハーバーという、著名な
版画家のふるさとで、ドイツの棟方志功と
いわれています。
町の中心に、木造で築500年の地上5階
地下2階の旧繊維工場があり、現在は
おしゃれなドイツ一ばんの
木版画美術館になっています。
そこへ、棟方の版画30点と大賞展の
100点を展示して大好評でした。
市内観光のとき、ボランティアのおじさんが、
世界一せまい小路というのを案内してくれました。
なるほど、大きい人は通り抜けられません。
ところで、
わが南砺市福光の宮脇町から
新町へ抜ける
「世界で2番目に狭い小路」が
存在しています。
やはり、二人がすれ違うのが難しい。
まあ、勝手に私が名付けた世界で2番目です。
いちど、探検してみませんか。
きっと、棟方志功さんも
ここを通っていることでしょう。
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2007年10月06日
それはまさに事件でした。
9月15日の
美術館での開会式で、
400人が朝から詰めかける。
お昼にロビーでみなさんが
弁当を広げられて慌てる。
午後には会場が最高潮。
日本の絵手紙の総帥・小池邦夫さんが
現われて、騒然となる。
松山出身、東京学芸大の書道科卒。
初めて「絵手紙」を提唱して40年。
現在では、講師だけで3万人。
絵手紙ファンは120〜150万人。
ほとんど神様のような存在の人。
2年前に、宇奈月で20周年の
記念大会のお手伝いしたことから、
本格的なおつきあいが生れた。
棟方志功と絵手紙というテーマを提案し、
大会には、たった一日の締め切りで
全国から800人の申込みが殺到。
絵手紙界の凄さを実感した。
大会では、世界のムナカタについて、
講演や展示もさせてもらった。
小泉ちよゑさんにも登場願った。
昨年は、山梨県の小池美術館へ招待受ける。
絵手紙の神様
小池邦夫さんは
福光時代の棟方志功の絵と書がいちばんと
高く評価されている。
志功の素朴であり、エネルギーにあふれた、
その生き方に深く共鳴されます。
心の仏様として大事にされています。
神と仏が合体した企画展だから、
多くの来館者があります。
じっくり、時間をかけて
楽しまれる方が多い。
―10月28日(日)まで開催―
五箇山の合掌の村を見たい。
愛染苑も見たいと所望されました。
以来すっかり、
志功の芸術を育んだ、
南砺ファンです。
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2007年09月21日
とかく、民俗学は農山村、漁村の
人々の暮らしと文化を記録する学問分野でした。
残念ながら、町の民俗はきわめて少ない。
その貴重な記録を、このたび自費出版という
身銭を切って出版された、松村 寿さん。
お祖父さんは、あの高名な
政治家・松村謙三さんです。
最近、風貌が似てきました。
こよなく、
この趣きのある新町を大切にされて、
朝顔通りに育てられました。
松村 寿さん(70歳)は、
大学卒業後、東京、大阪の
大手製薬会社に勤務するも、父親が倒れて
30年前に、福光新町の家業
松村薬局を継ぐため帰郷されました。
(お店の前には、あの有名な
ど根性サクラが元気です。)
登山が好きで、
ライフワークは日本の登山史。
新田次郎の名作「点の記」は
松村さんの著作が資料となっていて、
この世にでました。現在、
映画化中のことはご存知のことでしょう。
昨年、立山の雄山に50年ぶりに登頂。
大学2年以来で、お祓いを受けたときは
涙が出たそうです。
松村 寿さんの
「福光ゆめ散歩」
小さいけれど、おしゃれな本。
新町界隈の、石垣や清水(しょうず)、
伝承などが丹念に紹介されていて、
圧巻は、
呉服の大店・吉江家のもと番頭さんの
聞き書きによる記録。
そして、城端の善徳寺や
掛け所をめぐる宗教戦争の
すさまじい歴史です。
この2編だけでも、
町の歴史と民俗の論文になっています。
もとはといえば、
このnanto-eのコラムの前身、
いーふく3で連載されたものをもとに
改稿されたものです。
(現在でも、いーふくさんの福光コラム集、で
閲覧できます)
発行部数は、わずかだったので、
図書館か、ネットでご覧いただきたい。
とても読みやすく、
楽しい郷土史となっています。
なかなか、この商売も厳しいですよと
白衣姿で、にこにこ。
ちょっとお茶をいただくのが
この通りへ立ち寄る楽しみです。
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2007年09月08日
昭和23年ころ、
福光に疎開していた棟方一家と
親しいお付き合いをされていた、
詩人の稗田菫平さん(81歳)
弱冠22歳の詩人で
小学校の先生だった稗田さんは、
47歳の棟方志功の家へ
足しげく通ってこられました。
棟徑の会主催で、詩の朗読会を
棟方さんから頼まれて、
福光図書館で一緒に開いています。
その夜は愛染苑に宿泊です。
稗田さんの詩集の表紙を
棟方さんが描き、
まだ子どもだった二男の令明さんも
クンペイさんと慕っていました。
志功さんは、キンペイちゃんと
親しく呼んで可愛がり、
東京へ帰っても泊めています。
菫平さんは、望んで
南砺市の僻地教育に
尽くされています。
小矢部川最上流の「下小屋分校」で
数名の児童とともに、詩をつくり、
利賀村の「上畠分教場」で
児童文学を読み聞かせています。
現在も、小矢部市の谷あいの
静かなたたずまいの離れの書斎で
旺盛な詩作を続けられ「牧人(まきびと)舎」を
主宰して、出版活動もされている毎日です。
9月13日は、棟方志功の命日。
ことしは33回忌にあたります。
9月14日(金)の午後6時から
愛染苑で、愛染忌の記念講演を
稗田さんをお招きして開催します。
遠く千葉県から、
棟方の二女・小泉ちよゑさんも
駆けつけます。
現在の貴重な、
ムナカタの語り部といえます。
(詳しくは、美術館友の会52-7576へ)
奇縁ですが、
私が20歳直前に、富山の印刷会社へ
就職したとき、
菫平さんの実弟のお宅へ
下宿していたことがあります。
お兄さんの菫平さんを紹介いただきました。
そのころからのお付き合いですから、
半世紀に近いです。
不思議なご縁です。
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2007年08月25日
高岡市在住の
本田恭子さん
年齢不詳。

月刊の写真誌、万華鏡は
とやまの自然や風土に魅せられて
東京から移住して45年の
写真家・風間耕治氏が精力的に発刊を
続けている。(ふるさと開発研究所)
本田恭子さんは、専属スタッフとして、
最後のページの聞き書きコーナーの
インタビュアーである。
最近出た187号は
「火の見櫓」は、南砺市山田の写真と
文は、渡辺消防団長が書いている。
南砺市の火伏せや
広瀬舘少年消防クラブも紹介され
各方面の話題になっている。


10年前、本田さんが取材し
福光の棟方志功の旧居を取り上げた、
72号「厠」は、
大変な反響を呼び、
個人所有から、町への移管、
移設と保存のきっかけとなった。
現在の棟方志功記念館・愛染苑の
「鯉雨画斎」である。
このルポ記事のおかげもある。
本田さんの
南砺市ルポのあしあと
その一部。
72号 「厠」元福光・土居邦男さん
93号 「栃」平村・鉢蝋孝一郎さん
99号 「仏壇」井波・南部白雲さん
106号 「木彫」利賀・中谷仁太郎さん
116号 「小さな街の物語」
福光新町・松村栄吉さん、松村寿さん
123号 「花街」福光観音町・松風苑の
斉藤文治・美華子さん夫妻
138号 「とやまの美」城端町商工会
141号 「かくれ湯」川会合田温泉の
おばあちゃん、山田幸子さん
142号 「白の美学」城端・小原治五右衛門さん
145号 「雪語り」刀利出身・南源右衛門さん
145号 「とやまの椿」井口を特集
156号 「刀利」滝田君子さん
164号 「屋敷林U」高宮・成川権士郎さん
168号 「立野ヶ原物語」土生新・奥野潤治さん
180号 「塩の道・塩硝の道」
利賀・中谷信一さん
もう際限がない。記事や写真で南砺市が
登場するのは、数百点になる。

本田さんのルポでの代表作。
35年前に、上平・越中桂の廃村を
取材した「美しい富山」という、
環境問題を扱った仕事である。
日本新聞協会広告企画賞のグランプリ。
境川ダムの湖底に沈む直前のこと。
この記事の翌日、
連合赤軍ハイジャック事件が起きた。
40年前、富大文学部卒、
喫茶店でアルバイトしてたころ、
広告会社へスカウトした。
あっという間に
トップのコピーライターになり、
CMプランナー、映画のシナリオライターに。
以来の仕事仲間である。
富山写真語・万華鏡は
毎月初めに発刊、書店売りはしない。
(福光美術館にあります)
たいていの読者は
本田さんのルポ記事から読み始める。
マスコミや著名人たちに
隠れた本田さんのファンは多い。
その本田さんは、南砺のファンでもある。
本田恭子さんは、現在いくつもの顔がある。
環境教育、アースデー、きんたろう倶楽部
富山大学講師、そして
NPOグリーンツーリズムとやまなど
10いくつの肩書きで飛び回っている。
南砺市で、
「こんにちわ〜」と明るい声で、
次はどこへ現われるのだろうか。
※バックナンバーをご希望の方
若干残部あります。
本田恭子さん
年齢不詳。
月刊の写真誌、万華鏡は
とやまの自然や風土に魅せられて
東京から移住して45年の
写真家・風間耕治氏が精力的に発刊を
続けている。(ふるさと開発研究所)
本田恭子さんは、専属スタッフとして、
最後のページの聞き書きコーナーの
インタビュアーである。
最近出た187号は
「火の見櫓」は、南砺市山田の写真と
文は、渡辺消防団長が書いている。
南砺市の火伏せや
広瀬舘少年消防クラブも紹介され
各方面の話題になっている。
10年前、本田さんが取材し
福光の棟方志功の旧居を取り上げた、
72号「厠」は、
大変な反響を呼び、
個人所有から、町への移管、
移設と保存のきっかけとなった。
現在の棟方志功記念館・愛染苑の
「鯉雨画斎」である。
このルポ記事のおかげもある。
本田さんの
南砺市ルポのあしあと
その一部。
72号 「厠」元福光・土居邦男さん
93号 「栃」平村・鉢蝋孝一郎さん
99号 「仏壇」井波・南部白雲さん
106号 「木彫」利賀・中谷仁太郎さん
116号 「小さな街の物語」
福光新町・松村栄吉さん、松村寿さん
123号 「花街」福光観音町・松風苑の
斉藤文治・美華子さん夫妻
138号 「とやまの美」城端町商工会
141号 「かくれ湯」川会合田温泉の
おばあちゃん、山田幸子さん
142号 「白の美学」城端・小原治五右衛門さん
145号 「雪語り」刀利出身・南源右衛門さん
145号 「とやまの椿」井口を特集
156号 「刀利」滝田君子さん
164号 「屋敷林U」高宮・成川権士郎さん
168号 「立野ヶ原物語」土生新・奥野潤治さん
180号 「塩の道・塩硝の道」
利賀・中谷信一さん
もう際限がない。記事や写真で南砺市が
登場するのは、数百点になる。
本田さんのルポでの代表作。
35年前に、上平・越中桂の廃村を
取材した「美しい富山」という、
環境問題を扱った仕事である。
日本新聞協会広告企画賞のグランプリ。
境川ダムの湖底に沈む直前のこと。
この記事の翌日、
連合赤軍ハイジャック事件が起きた。
40年前、富大文学部卒、
喫茶店でアルバイトしてたころ、
広告会社へスカウトした。
あっという間に
トップのコピーライターになり、
CMプランナー、映画のシナリオライターに。
以来の仕事仲間である。
富山写真語・万華鏡は
毎月初めに発刊、書店売りはしない。
(福光美術館にあります)
たいていの読者は
本田さんのルポ記事から読み始める。
マスコミや著名人たちに
隠れた本田さんのファンは多い。
その本田さんは、南砺のファンでもある。
本田恭子さんは、現在いくつもの顔がある。
環境教育、アースデー、きんたろう倶楽部
富山大学講師、そして
NPOグリーンツーリズムとやまなど
10いくつの肩書きで飛び回っている。
南砺市で、
「こんにちわ〜」と明るい声で、
次はどこへ現われるのだろうか。
※バックナンバーをご希望の方
若干残部あります。
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2007年08月11日
この一枚のカラー写真が
すでに演劇で
世界のTOGAになっていた利賀村を
ふたたびひっくり返すことになる。
今回のコラムのテーマは
信州大学の農学部
氏原暉男教授(現在は名誉教授)
利賀村の伝統的な行事、そば会。
それをテーマに、むらおこしが始まった。
(私は、そのときからのアドバイザーでした)
第1回そば祭りの衝撃的な成功。
本格的に、そばを勉強しょうというとき、
お招きしたのが、氏原先生。
講演の最後に見せられたのが冒頭の
この1枚のカラー写真。
そばの原産地のひとつ、ネパール山中
ヒマラヤでは、こんな紅いそばの花が咲くと。
聞いていた村民は、眼がテンになる。
好奇心旺盛、行動力抜群だけがとりえの
利賀村民は、すぐヒマラヤ山中の
ツクチェ村へ。リーダーは氏原先生。
実は、氏原教授は、
そば研究のフィールドがこのツクチェ村。
ほとんど村民だったのである。
よせばいいのに、利賀村がヒマな正月に
行ったのはいいが、現地は亜熱帯とはいえ、
厳冬期のヒマラヤ。数千メートルでは
吹雪で大荒れだったのである。
飛行機も飛ばない。馬に乗って
北極を行くような旅が続く。
とにかく寒くて、
夜は眠れなくみな震えていた。
一週間遅れで、やっとたどり着いた村。
そのとき、昭和から平成になっていた。
利賀村とツクチェ村の友好村調印式。
後で見守っていた氏原教授は、
そっと涙を拭いていたのが印象的だった。
利賀とツクチェの国際交流は全国に知られる。
そして大胆にも
第1回の世界そば博覧会へ。
1000人足らずの村へ13万6000人がやって来た。
そばの研究所のあるスロベニアの
そば博士など10ヶ国、全国20余りの
自治体や団体が
この一ヶ月間、利賀村へ。
そば打ち段位認定の
全麺協もこれがきっかけで発足。
8月4日の、みんなで農作業の日in五箇山で
そばの種まきを指導される氏原教授。
この9月に、利賀村で
全国初の全麺協そば打ち名人
五段位認定が開催されるが、
これも、氏原さんがいたから実現した。
応援に駆けつけた、
白鳥製粉の社長(左)と
そば打ち日本一の上野藪そばの鵜飼さん。
日本のそば界の第一人者たちは
みな、氏原先生をあたたかく見守っている。
「利賀村では、うっかりモノが言えん。
すぐ、その通りにやっちゃうから怖い」
相変わらずのユーモアあふれる毒舌は健在。
酒量も変わらない。
もう20年にわたるお付き合いが
つい、昨日からのように思える。
南砺市の大切な現役ブレーンなのである。
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2007年07月28日
不思議な電話がかかってきた。
小学校のときの先生で、
埼玉県にひとりでお住まいの
上田トミ子さん(85)
小学校2年の2学期から7ヶ月間だけ
教わった。当時山中姓だった。
なんと、60年ぶりのことである。
(上記の写真・右下、昭29)
(写真は18年前)
富山県の教職員厚生会の発行する
退職教職員むけ機関紙「旧友」に
頼まれて、福光時代の棟方志功のことを
書かせていただいた。
それを見て、もしや、と館へ電話があった。
南砺市で30年、教鞭を取られた
上田先生は、まさに当時の困難な
日本の時代を体現されてきた。
お父さんは、旧広瀬舘村出身。
棟方志功と同じころ、東京から戦渦を避けて
疎開されたが、ご本人は女子師範を出て
教職につき、学童集団疎開引率で山梨県へ。
終戦。
帰京しても、心細い20歳そこそこのこと、
両親の住む福光へ初めてやって来た。
研修医として九州に勤務の夫と別居。
おなかには子どもを宿していた。
病を得た両親、学生の弟。
すべてがトミ子さんの肩にかかる。
教職に復帰した最初が
私の母校・東太美小学校で、
2年2学期まえに結婚退職された先生の
リリーフであった。
都会育ちには、何もかも珍しく、
おしゃれな東京の職員室とちがう
野暮ったい男先生にがっくり。
でも、田舎の子どもたちは純朴であった。
新しい先生が宿直室で、
休み時間、赤ちゃんに授乳されていたのを
かすかに覚えている。
「大きくなったら何になる?」と聞かれて、
「ボクは大工さんになるんだ」「なんで?」
「おいしいごちそうが食べられるから」
建具大工でもあった私の父は、
建祝(たちまい)で
ごちそうの折詰をもらってくる姿を見て、
あこがれたのか、ひもじかったのか。
恩師は笑いながら教えてくれた。
結局、不本意ながら夫と別れ、
両親と弟、一人息子の面倒を見るため
仮住まいのはずの福光で、
生活のために30年を過ごすことになる。
西太美小、太美山小、広瀬舘小、
そして石黒小学校で教えた。
いまも相当数の教え子が活躍中のはずである。
1人息子さんは福光中、高岡高を経て
早稲田に合格するも、お金のかからない
東大に挑戦する。母親思いである。
医者になるべく、苦労のすえ東大医学部へ。
当時、東大紛争の真っ只中に巻き込まれ、
若い情熱が学生運動へ駆り立てる。
母親が留置場へもらいうけになったりして、
理解ある母親の愛情から、心気一転勉学に復帰、
請われて三井記念病院、埼玉医大を経て
さらに帝京大医学部教授として活躍中である。
両親、兄弟、息子の世話のために
心ならずもいまで言うシングルマザー。
波乱の人生を、南砺の教育にささげた半生。
お孫さんが3人。しかし、埼玉の自宅で
ひとり悠々の生活とのこと。
「南砺の風土。
なつかしいわあ。
第二のふるさとは
忘れられません。」
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2007年07月14日
南砺市を中心に、
広く富山県、北陸にわたって、
児童文学の第一人者であった
石崎直義さん
旧福光町天神生まれ、
巴御前ゆかりの、巴松の向いに住まいされていた。
土山小学校校長など37年間、教職に。
その間、
児童文学を柱として、
郷土史、民俗、短歌など幅広く
活躍され、民話の採集では第一人者として
著作も多く残されている。
撮影:池端 滋
学者というより、
子ども好きのおじいちゃん、という
やさしい風貌がトレードマークだった。
民話の語り部、
子どもの遊びについては
ほんとに童心に帰ってしまう人。
新聞の企画特集などのとき、
どれだけお世話になったかわからない。
昨年の秋、
石黒保育園で、紙芝居の
「ちよゑちゃんとパパとだまし川」が
初めて上演され、
子どもたちだけでなく、高齢者にも
大いに受けたが、
そのとき、福光では、
20年前から、石崎直義先生の指導で
地元の民話をテーマにした紙芝居の
創作、上演(読み聞かせ)運動が
すすめられて来た事を知った。
私の母親が晩年に
短歌の指導を受けていたことも
後になって知った次第である。
検索しても、
先生を顕賞する伝記のような
文章は出てこない。
しかし、著作物のリストはどっと出る。
忘れてはならない人である。
平成3年没。
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2007年06月30日
終戦まぎわに福光へ疎開した、
棟方志功の小さな家。
現在の愛染苑の場所である。
いろんな花が年中咲き競うこの庭を、
棟方志功は、こよなく愛した。
その向かいに移築された住居。
鯉雨画斎。(りうがさい)
全国からここを訪れた文化人たち。
そこにいつも姿があったのが、
野村玉枝さん
明治44年、立野ヶ原の北端、
旧東太美村土生新、字矢留の
吉井家4女として生まれた。
東太美小学校では、
新進気鋭の若き、北大出身の歌人
荒井美蔦香と出会い、
10歳にして短歌を学ぶ。
福野の商工会の西能さんの叔母にあたるはず。
県立富山高女高等科卒、歌人の
佐佐木信綱博士に師事。
昭和10年、陸軍歩兵大尉・野村勇平と結婚。
13年に中国で戦死、古い言葉で戦争未亡人に。
それからがすごい。
2児を預けて、東京の教員養成所に学び、
歌集「雪華」を出版する。
(福光図書館蔵、昭和16年出版)
その切々とした銃後の歌の数々が
全国的な大反響を呼び、戦意高揚に利用され
各方面にもてはやされる。
そのことが、戦後教職追放につながり、
教職員適格再審査でたたかい、
教壇に復帰、歌人、画家、作家としても
その才覚を発揮し、
疎開の棟方志功、作家の岩倉政治らの
福光、城端の文化人サロンの
マドンナとして、華やかな一時代をつくった。
南砺地方随一の女流文化人として振る舞い、
棟方志功は、玉枝さんの言葉をもじって、
「われわれ文化人というのは…」と
よく冗談の引き合いにしていたそうだ。
JR福光駅に飾られた、棟方グループの
写真にしっかり写っている。
昭和38年に小説「石楠花の花」を発刊。
装丁は、東京へ帰って10余年の
あの棟方志功である。
多忙で売れっ子になっていた志功は
この種の依頼はすべて断っているが、
野村玉枝さんだけは別格である。
福野高校での教え子に
富山歌人連盟の事務局長・米田憲三氏がいる。
庄川町では、文化協会、美術協会で活躍。
鄙にまれな、才女で美人で有名な存在だった。
南砺市には薫陶を受けた人は多い。
余談であるが、玉枝さんの生家は
私の実家から歩いて5分。
母も遊んでもらっていた。
現在のつれあいの母親とは、
富山高女以来、晩年までの親友で、
「石楠花の花」の長編小説の
「母子寮の灯」にモデルになっている。
幼いときの、わがつれあいも
書き込まれていた。奇縁である。
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2007年06月16日
ずしり。
何キロあるのだろうか。この冊子。
金沢市の矢来千代子さんから送られてきた
書籍小包を手にし、開いてみて驚嘆した。
A4判 986ページ。
松本直治と茂子の
愛の軌跡
松本直治
明治末年生まれ、大正、昭和、平成と
4代を生き抜いてきたジャーナリストである。
福光町生まれ、
東京新聞記者、陸軍報道班員として
戦争中のマレー半島へ。
帰国後、疎開したふるさとで、
北日本新聞、北陸夕刊役員を経て、
北日本新聞取締役編集局長、論説委員長として
論陣を張り、健筆をふるい、
現在も活躍中のマスコミ幹部など、
数多くのジャーナリストを育てた。
撮影:池端滋・魁百首より
上掲の冊子は、57歳から13年間にわたって
執筆されたコラム3,724編である。
並外れた愛妻家で、妻の茂子さんの
80歳から毎日作られた句も1000あまり載っている。
どのページを開いても鋭い批評や、
なつかしいテーマが綴られていて、
大事に座右の書としたい。
とやまの当時の貴重な記録集でもある。
従軍記者仲間には、井伏鱒二や、
天と地の海音寺潮五郎、宮本三郎、
藤田嗣治など錚々たる顔ぶれ。
復員して、福光に疎開しても反戦の意志を
強く秘めていたため、官憲の監視を受けた。
棟方志功との出会い
松本の母親の実家は、鍛冶金物店。
城端線の車内で、異様な風体の男が
室生犀星の詩を吟じて、女子高校生が笑う。
同じ福光で下車、後をついていくと、
なんと、自分の実家へ入っていくではないか。
それが、鍛冶さん宅の2階を
アトリエとして借りていた、棟方志功であった。
(長部日出雄著『鬼が来た』にも記載)
この奇遇と、
同じ疎開者ということで
意気投合する。
昭和23年に、南砺市の立野ヶ 原開拓団へ
昭和天皇が巡行されたときの
新聞の随行記を、
棟方と、作家の岩倉政治を
起用したいきさつを直接聞いた ことがある。
棟方は、天皇陛下万歳。岩倉は、プロレタリア
作家という、マスコミ人らしい左右のバランスを
取ったんだと笑っていたが、
この二人、棟方と岩倉は終生、仲がよかった。
退職後も、ジャーナリスト人生に
さらに磨きがかかる。
東海村の被爆で失った、31歳の一人息子の
「原発死」の刊行、
従軍経験をもとに、反戦を訴える
「大本営派遣の記者たち」などを
精力的に出版を続けられた。
私の当時の仕事場へふらりとやってきて、
10分ほど雑談。それが、翌日の新聞コラムに
見事に書かれていて、その筆力にいつも
驚かされたものである。
その風貌から、お茶を出す女性社員は
おっかなびっくりであった。
そういえば、あの松村謙三も、
出発は新聞記者であった。
松本さんの姪である金沢在住の矢来さんは
富山市の膨大な遺品を整理し、
2年がかりで記録にまとめられた。
頭がさがる思いである。
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2007年06月02日
いま、
南砺市の風物詩となった、
立野ヶ原の
イチゴ狩りの郷
毎日、遠くからやってきた
子どもたちの
歓声がひろがる、
平和そのもののような郷である。
このイチゴ狩りの会場のすぐ近く、
監的壕(カンテッコウ)というのがある。
軍国日本の負の遺産である。
明治32年、この東太美村というのが
70%陸軍演習場に強制接収された。
昭和20年8月15日の終戦まで
北陸地域で数百万人の若者が、
ここで演習にあけくれて、戦場へ。
いま地元の方々の協力を得て、
数年がかりで記録をまとめています。
ここで演習していた青年将校が
後の陸軍参謀、後の参議院議員
辻 政信
これまで、南砺ゆかりの
素晴らしい人たちばかり
紹介してきたのですが、
この男だけは、書きたくない人物です。
日本をめちゃくちゃに壊した超A級戦犯です
石川県の現加賀市の東谷奥村の炭焼きの家に
3男に生まれ、陸軍士官学校を主席で卒業。
陸大も3番で出て、東条英機に可愛がられる。
関東軍の参謀として、ノモンハン事件の作戦を
独断で強引にすすめ、第23師団をまるごと
全滅させてしまった。数万人である。
終戦時、瀬島龍三とともに満州からの
在留邦人引揚げをさせず、兵士をシベリアへ
抑留させ、多大の犠牲者を出した。
私の義父は戦死、義母と義兄、つれあいが
大陸から2年がかりで乞食をしながら
朝鮮半島を歩いて帰国したのも
辻らの無謀な作戦のためである。
その前には、2.26事件にもかかわっている。
シンガポールでは6000人の華僑を虐殺、その
立案者は辻である。
フィリッピンでは、無謀なガダルカナル作戦を
独断で指揮、悲惨な敗北を招いた。すべて中央の
指示を無視し、たくみに責任を逃れた。
日本の200万人の陸軍が暴走する手本を作った。
終戦は、バンコクで迎え、戦犯として追求される
のを恐れて、僧に変装して逃げる。戦後「潜行
三千里」というベストセラーで一躍有名に。
参議院議員に当選するも、ラオスで行方不明に。
スパイ容疑で消されたとも。
知れば知るほどおぞましい。
立野ヶ原演習では、わざと背嚢に石を詰め込んで
行進してみせるというパフォーマンス。
地元の古老から聞いた実話である。
山下泰文大将は日記で「この男我意欲強く、小才に
長じ、こすき男。国家の大をなすに足らざる
小人なり。使用上注意すべき男なり」と痛烈。
理念はなく、うすっぺらだが
上へのごますり、いざというとき責任逃れ、
普段は威張っていて手に負えない。
どんな職場や組織にもいる困った存在であるが、
こと、国家・国民の命運がかかっていると、
こんなリーダーがいては、
たまったものではない。
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2007年05月19日
ネパール、ツクチェ村は
少数民族・タカリー族の中心となっている。
19年前の平成元年1月、利賀村は
真冬のヒマラヤ山中へ出かけて以来
友好関係、密度の濃い交流が続けられている。
その要になってきたのが、
日本人のヒロコ・トラチャンさんである。
手伝っている、長女アヌウちゃんは
当時11歳で、利賀村民のアイドルだった。
私の郷土玩具に
このタカリー族の民族衣装の人形がある。
昨年11月にネパールへ行ったとき買ったもの。
10年前、両村の交流10周年の記念行事で
ヒロコさん親子が
タカリー族の盛装で現れた。
実にあでやかであった。
首飾りは、とても貴重な高価なもので、
母から娘へ伝えられる。
日本へ研修にやって来たご主人と
カトマンズで出会い、結婚。
現在は立派なホテルを経営されている。
ご主人は、ダウラギリのふもとで
これまた立派なロッジを建てられた。
アルジュン・シン・トラチャン氏
上はわがつれあい殿です。
ヒロコさんは何度も
南砺市を訪れているが、
利賀村と、ツクチェ村との交流で
厳しく、注文をつけられてきた。
日本側の甘さ、国際感覚のなさに
いつも冷や汗をかく。
南砺市の国際交流に欠かせない恩人である。
次女ビヌウちゃんは、アメリカへ留学。
ハーバード大学2年生。
建築科専攻。才媛ぞろいのファミリー。
みなさん、6ヶ国語を使いこなす。
ときたま、メールでもやりとりを
させてもらっています。
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2007年05月05日
南砺市に生まれ、晩年は郷里に尽くした
稲塚権次郎さんは
ノーベル平和賞
文化勲章をうけるべき人
古くからの友人で、高岡の万葉朗唱の会発案者
でもある公認会計士、千田篤氏(富山市)の
労作。平成8年、家の光刊。
北日本新聞連載111回という、記録のある
迫真のドキュメンタリーとして本になった。
南砺市が世界に誇ることができるのは
松村謙三と稲塚権次郎の2人であろう。
明治30年、旧城端の西明の貧しい農家の
長男に生まれる。あとは姉妹だけだった。
小学校、福野農学校をトップで、
さらに帝国大学農学部(現東京農工大学学)を
抜群の成績で卒業する。
家の農業を手伝うため、福野への徒歩での
往復時間が唯一の勉学時間。二宮金次郎である。
兵役を終えて、大正8年農商務省(農水省)の
秋田・大曲の試験場に赴任。イトさんと結婚。
稲の育種の技術者として
陸羽132号を育てます。これが、
東北地方の深刻な不作を救い、米どころにします。
さらに、コシヒカリの元となる
農林1号を選抜し育成します。
この味のいい品種は、後に新潟へ送られ
富山県出身の鉢蝋さん(南砺)、
杉谷さん(上市)等によって
コシヒカリが広められます。
大正15年には、岩手県の試験場に赴任。
今度は、小麦の農林10号を生み出します。
背が低く、病気に強く、倒れず、
抜群に収量が多い。
終戦直後に来日したアメリカの
ボーローグ博士が、この農林10号を高く評価。
改良してアメリカ、インド、アフリカなど
世界のほとんどの小麦収量を2倍にし、
数億人の餓死が免れました。緑の革命と呼ばれ、
博士はノーベル平和賞を受けます。
この育種者の稲塚さんを探し求め、金沢で
はじめて出会います。
講演のため、平成2年に城端へやってきた
ボーローグ博士は、権次郎の生家を訪ねるのが
目的でもありました。
同じ貧農出身で、育種家どうしという、
尊敬の念と友情からの来日でしょう。
(残念ながら現在住宅は解体されていますが銅像が
建てられています。)
戦中戦後、中国に抑留・請われて
北京農場長から、新生中国の若い技術者を育て、
帰国、帰郷して奥さんの介護。
圃場整備の責任者としても手腕を発揮されます。
ご両親の写真を飾り、農家の跡取り長男として
家を空けていた生涯と、その親不孝を大声で
泣きながら詫びるという晩年だったそうです。
深く仏教に帰依されてた日々でした。
昭和63年、昭和の終わろうとしていた12月
城端の自宅前で没。享年91歳。
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2007年04月21日

