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なんと-e.com公式ブログ「なんとコラム」
2008年07月10日
この日は例年のように初夏の爽やかな太陽の風美が、漂う朝であった。そして、ローマ法王謁見のため来伊された宗教団体総領の方にお会いし、謁見に行く予定である。ローマ市外約30km南方に『カステル・ガンドルフォ』という小さな町がある。その町にはローマ法王庁の別館がある。また、カステル・ガンドルフォは、古くはローマ時代からの歴史的流れを持つ、丘の上の静観な町で中世頃からローマの人々の別荘地としても、知られる地でもある。
ガンドルフォのローマ法王庁夏の別荘では例年法王さま静養中に世界各国から集まって来る人々への夏の謁見が行われる。ローマのヴァチカン市国内での謁見場に次ぐ大会場もある。さて、ローマ市内のホテルに客人を向え2名の謁見者を自分の車でカステル・ガンドルフォ会場に向う。目的地はローマ市内から遠くはないが、市内から約25km程。当日はなんだか道路が混雑していたのでややイライラ。11時予定の法王謁見時刻が近づく中、ようやくガンドルフォ別館に着くやいなや、法王庁の係官が近づき急ぐように誘導して下さった。受付を終え謁見会場の控え間へ進む、横面からは一部会場の中がカーテン越しに見え、想像したように世界からの一般謁見者が多いようだ!!そして、会場の正面には高い壇上が設置されているのも見え、またその5〜6m先には、パウロ6世 ローマ法王さまも見えるし、もう個人謁見が始まっていたので、僕は少々興奮状態になっていた。謁見数分前なのであろうが、係官が近付くにつれ動機が激しく感じる...まぁドキドキ等と言うものではない。
そして、法王秘書官が『どうぞ』と舞台の上法王さまの方へと、手が静かに僕の肩に触れ、再度「パパさまの方へ」との指示である、我々3名は緊張のまま、しかし、なんだかす〜っと風にでも乗ったかの様に壇上舞台上ローマ法王 パウロ6世の前に出て行っていた。そしてほんの数分間の時ではあったが、壇上から見回すと、とにかく大勢の人々からの拍手が聞こえる中...。謁見は夢中であるが、一瞬体が硬くもなっている様だ。法王さまが差し出される御手には王位を表す指輪が見え、その指輪に敬意を表し、後に日本からの総領A氏B氏を法王さまにご紹介した。法王さまは一言、「日本からの仏教の方ですね。」と、尋ねられた。僕は「はい、その通りでございます。法王さまご謁見の為お見えになりました。」と、お答えしたまでは覚えている。しかし、それから以後何をお話したかは、頭に残るような、残らないような、、、覚えていない程に興奮していた様であった。
後によく考えて見ると、興奮のあまり数分前には法王さまの御手から渡されたヴァチカン市国法王庁パウロ6世のメダルを頂戴していたのを忘れていた。驚きである!!共に謁見を受けられた方々は、大きな目的を終えられ大変にご満足され、その上非常に興奮もなさっているのが目に見えるほどであった。当然の事であろう、遠くの国々から訪問され法王さまを一般謁見する事だけでも大変な出来事であるにもかかわらず、通訳とはいえ個人謁見が可能とは、感動である。その時の瞬間的感動や後の余韻の様な時間の流れは、言葉に表現出来ない程であったが、この一日は2名の謁見者の方々と共に清心共に疲れたものの、大きな満悦感を受けた素晴しい、一世の思い出となっている。(ローマの日記より)
ガンドルフォのローマ法王庁夏の別荘では例年法王さま静養中に世界各国から集まって来る人々への夏の謁見が行われる。ローマのヴァチカン市国内での謁見場に次ぐ大会場もある。さて、ローマ市内のホテルに客人を向え2名の謁見者を自分の車でカステル・ガンドルフォ会場に向う。目的地はローマ市内から遠くはないが、市内から約25km程。当日はなんだか道路が混雑していたのでややイライラ。11時予定の法王謁見時刻が近づく中、ようやくガンドルフォ別館に着くやいなや、法王庁の係官が近づき急ぐように誘導して下さった。受付を終え謁見会場の控え間へ進む、横面からは一部会場の中がカーテン越しに見え、想像したように世界からの一般謁見者が多いようだ!!そして、会場の正面には高い壇上が設置されているのも見え、またその5〜6m先には、パウロ6世 ローマ法王さまも見えるし、もう個人謁見が始まっていたので、僕は少々興奮状態になっていた。謁見数分前なのであろうが、係官が近付くにつれ動機が激しく感じる...まぁドキドキ等と言うものではない。
そして、法王秘書官が『どうぞ』と舞台の上法王さまの方へと、手が静かに僕の肩に触れ、再度「パパさまの方へ」との指示である、我々3名は緊張のまま、しかし、なんだかす〜っと風にでも乗ったかの様に壇上舞台上ローマ法王 パウロ6世の前に出て行っていた。そしてほんの数分間の時ではあったが、壇上から見回すと、とにかく大勢の人々からの拍手が聞こえる中...。謁見は夢中であるが、一瞬体が硬くもなっている様だ。法王さまが差し出される御手には王位を表す指輪が見え、その指輪に敬意を表し、後に日本からの総領A氏B氏を法王さまにご紹介した。法王さまは一言、「日本からの仏教の方ですね。」と、尋ねられた。僕は「はい、その通りでございます。法王さまご謁見の為お見えになりました。」と、お答えしたまでは覚えている。しかし、それから以後何をお話したかは、頭に残るような、残らないような、、、覚えていない程に興奮していた様であった。
後によく考えて見ると、興奮のあまり数分前には法王さまの御手から渡されたヴァチカン市国法王庁パウロ6世のメダルを頂戴していたのを忘れていた。驚きである!!共に謁見を受けられた方々は、大きな目的を終えられ大変にご満足され、その上非常に興奮もなさっているのが目に見えるほどであった。当然の事であろう、遠くの国々から訪問され法王さまを一般謁見する事だけでも大変な出来事であるにもかかわらず、通訳とはいえ個人謁見が可能とは、感動である。その時の瞬間的感動や後の余韻の様な時間の流れは、言葉に表現出来ない程であったが、この一日は2名の謁見者の方々と共に清心共に疲れたものの、大きな満悦感を受けた素晴しい、一世の思い出となっている。(ローマの日記より)
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2008年02月21日
又も友人の紹介で漫画家の小島功さんがローマに見えるとの連絡を受ける。そして何かお手伝いをしてほしいとの事である。僕はその日からお会い出来る事が楽しみであった。思い出して見ると日本にいる頃から小島功さんのマンガを良く知っていたので時代が頭に浮かび一段とお会いする日が待ち遠しく思っていた。また僕なりには小島功さんのマンガは当時から社会の働きや老若男女が楽しめるモチーフが多く楽しかったし又特に女性への美的観察力とでも言おうかイメージの捕らえ方や表現では実にユニークであると思っていた。
お会いする当日が来た。何だろうか僕だけが勝手にわくわくして、たまらないのである。当のご本人は何一つ僕の勝手な思いを知る由もない。朝、HOTELに伺いお会いして見ると小島功さんは普通の背丈でやや細めのスーツとされた体形だ。僕はなぜか背の大きい人を想像していた。また同行のご夫人は少ししっかりとされた体形だろうか、しかしとっても穏やかで暖かい感じを受けた。そして元気そうな小学生頃の男の子供さんもごいっしょであった。少々お話をお聞きすると特別な通訳等のお手伝いはなく、市内を散策する事になった。
さて、僕は勝手ながら小島功さんにお会いする数日前から異様に過剰判断ばかりしていたのでやはりお会いしても何となくういているのであり功さんの傍にいるだけで何か面白い出来事でも起きないのであろうかと想像や期待ばかりしていたもの、しかしちょっと冷静に戻り考えると、マンガ家をあまり特別な視点で想像してはいけないのだ!!と、自分に言い聞かせたりもした。なのにすぐ後、軽々しくも再度以前の様な思いを起こす。マンガ家だから何か楽しい話か言動が現れるかも等・・・思いもする。そして又冷静に戻り市内を見学して回る。小島功さんご夫妻らは朝HOTELでお会いした時と比べても何らかも特別変わらず平然とされ、僕が思う程何も気にされていない。それよりROMA市内散策では好奇心でいっぱいの様で楽しそうである。
そうこうしている内にローマの日が暮れ時が過ぎ行く、家内も共々夕食を市内レストランで楽しく味あわれる。ご家族はあまりお疲れの様子も無く功さんを僕が勝手に想像をするとマンガ家だから言葉や体の動きから何か面白いものでも飛び出すような出来事のある人ではなかったのである。当然ながらその様な事を考えたり想像してはいけない事だ!!ご本人はさっぱり穏やかで人静かな方なのであったのだ。僕は時々イタリア的というかローマ式とでもいうか冗談話等をしたりすると、功さんは楽しそうにニコニコされているのである。繰り返す様だけれど功さんと云うマンガ家に対して何だか自己暗示にでもかかっていたかの様に無意味とも言える想像の世界に入った一時であったのだと思うとおかしな気もする。小島さんご家族は古い歴史の味と料理の美味と共にマンガ家としても多くのアイディアを受け止めておられらものと思う。マンガで見る小島流喜怒哀楽がローマでの一時的生活の中でも見えるか等とは一方的で浅はかな僕の想像的思いに過ぎなかったと感じたのも当然であろう。
マンガ家として想像、創作される次元と私生活感との一元化する発想は、ありえないことなのであろう・・・
その後数年が過ぎ小島さんは再度ローマに旅行されていたが、僕は知らなかった。そして偶然にも家内がローマ市内で小島功さんにお会いし、ご挨拶をしたという。その後、残念ながら知ったことでは小島さんは大切な奥様を亡くされてのローマ旅行であったと・・・。
僕は仕事で一時帰国を繰り返していた頃、東京会館に行った際に会館のマネージャー氏より「小島功さんが良く会館に見えますよ!」と、そして会館設置の作品をご覧になり「懐かしいなァー、一度川原さんとお会いしたい」と話されておられましたよ。と話された。その時僕も一度お会いしたいとの思いを申し上げたが中々時間がなかった。そこで次回の個展には是非ご案内をお出しし、お会い出来るようなことになれば嬉しいと思っている此の頃である。(おわり)
お会いする当日が来た。何だろうか僕だけが勝手にわくわくして、たまらないのである。当のご本人は何一つ僕の勝手な思いを知る由もない。朝、HOTELに伺いお会いして見ると小島功さんは普通の背丈でやや細めのスーツとされた体形だ。僕はなぜか背の大きい人を想像していた。また同行のご夫人は少ししっかりとされた体形だろうか、しかしとっても穏やかで暖かい感じを受けた。そして元気そうな小学生頃の男の子供さんもごいっしょであった。少々お話をお聞きすると特別な通訳等のお手伝いはなく、市内を散策する事になった。
さて、僕は勝手ながら小島功さんにお会いする数日前から異様に過剰判断ばかりしていたのでやはりお会いしても何となくういているのであり功さんの傍にいるだけで何か面白い出来事でも起きないのであろうかと想像や期待ばかりしていたもの、しかしちょっと冷静に戻り考えると、マンガ家をあまり特別な視点で想像してはいけないのだ!!と、自分に言い聞かせたりもした。なのにすぐ後、軽々しくも再度以前の様な思いを起こす。マンガ家だから何か楽しい話か言動が現れるかも等・・・思いもする。そして又冷静に戻り市内を見学して回る。小島功さんご夫妻らは朝HOTELでお会いした時と比べても何らかも特別変わらず平然とされ、僕が思う程何も気にされていない。それよりROMA市内散策では好奇心でいっぱいの様で楽しそうである。
そうこうしている内にローマの日が暮れ時が過ぎ行く、家内も共々夕食を市内レストランで楽しく味あわれる。ご家族はあまりお疲れの様子も無く功さんを僕が勝手に想像をするとマンガ家だから言葉や体の動きから何か面白いものでも飛び出すような出来事のある人ではなかったのである。当然ながらその様な事を考えたり想像してはいけない事だ!!ご本人はさっぱり穏やかで人静かな方なのであったのだ。僕は時々イタリア的というかローマ式とでもいうか冗談話等をしたりすると、功さんは楽しそうにニコニコされているのである。繰り返す様だけれど功さんと云うマンガ家に対して何だか自己暗示にでもかかっていたかの様に無意味とも言える想像の世界に入った一時であったのだと思うとおかしな気もする。小島さんご家族は古い歴史の味と料理の美味と共にマンガ家としても多くのアイディアを受け止めておられらものと思う。マンガで見る小島流喜怒哀楽がローマでの一時的生活の中でも見えるか等とは一方的で浅はかな僕の想像的思いに過ぎなかったと感じたのも当然であろう。
マンガ家として想像、創作される次元と私生活感との一元化する発想は、ありえないことなのであろう・・・
その後数年が過ぎ小島さんは再度ローマに旅行されていたが、僕は知らなかった。そして偶然にも家内がローマ市内で小島功さんにお会いし、ご挨拶をしたという。その後、残念ながら知ったことでは小島さんは大切な奥様を亡くされてのローマ旅行であったと・・・。
僕は仕事で一時帰国を繰り返していた頃、東京会館に行った際に会館のマネージャー氏より「小島功さんが良く会館に見えますよ!」と、そして会館設置の作品をご覧になり「懐かしいなァー、一度川原さんとお会いしたい」と話されておられましたよ。と話された。その時僕も一度お会いしたいとの思いを申し上げたが中々時間がなかった。そこで次回の個展には是非ご案内をお出しし、お会い出来るようなことになれば嬉しいと思っている此の頃である。(おわり)
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2007年12月27日
3年前から今日までの出来事と云えばそうなのであろう。実は僕の仕事場の庭には3年前まで約80本程のバラ(つるバラを含む)が植えられていた。それらのバラが都合により移植「植え変え」が必要になった。幸いにも知人友人の方々がインターネットに載せた為か移植すべき日には自分の見知らぬ人々が多く来られ驚いたのであった。その理由と言えば、少々私事になるけれど、おそらくバラの移植を知った方々は義父が植物でも特にバラの研究と育種家と云う大変な仕事をしていたからで、大げさではなく世界各種のバラも数種植えられていたことは事実だった。
取りに来られた人々の中には僕が心の支えとしている近くのカトリック所属教会信者の方も偶然ながら見えていて、何本でも良いので教会の庭にいただきたいと云う。僕も長くから知り合う教会の方が見えるとは思いもしなかったので嬉しくもあった。この数々のバラは義父が深く心して育ていろいろな方や近所に住む方が季節になると花の色や香りが素晴らしいと楽しんで下さったバラ達だ。新しい庭で新たに生きると思うと嬉しくも思った。
さて、教会の庭は非常に広いので中でも大きめのつるバラ3本程を運ぶことになった。しかし、枝や根本が大きく当日では無理になり後日改めて運ぶ事になった。そして後日、今時には珍しいリヤカーを引き取りに来られた事は驚きだった。僕も手伝って大人5人大きなつるバラ、高さ3m、巾4mにもなっているもっこうバラ、白と黄色の2本とピンクの花が咲く美しいつるバラ1本を運んだ。そして移植後日には男性3人で竹や木の棒を買って来てつるバラが強く広がる様に又、台風等にも負けないように高さ1m50、巾3mの柵でバランス良く出来た。
又、もっこうバラの2本の内1本は義父が以前皇室の紀子妃殿下のご希望で殿下の庭に植え付けられたバラの姉妹の一本で美しい黄色であり僕も好みの一本で大切にしていたものだった。したがって広い庭で大きく広がれば豪華と云える程に美しく素晴らしい花を咲かせると期待していた。そして移植した当日、僕は未熟ながらも一応庭の世話をされる教会信者の方にバラの育て方を説明した。つまり「バラは花の女王なのだから普通の鑑賞バラ、つるバラ、全てのバラの周りには背の高い他の種の草花を植えないで下さい。」と。「又、バラは特に太陽が好み広々と自由に育てる必要がありますのでどうか宜しくお願いします。」と、伝えていた。
丁度その頃当教会のカナダ人神父さんが庭に見に来られりゅうちょうな日本語で嬉しそうに「花が楽しみだネエ」と云って下さった。僕は再度話を続け、「つるバラは大形になるのですが、現状での移植の為、根の一部や枝を小さく切り込んである為移植一年目は、まだ木も小さく、又花の数も少ないと思う、しかし2年目程からは根も広がり良く太陽を受けると40個から60個以上の花が咲きます。」と伝えた。
その後、年が明け春には想像した様にわずか10個程の花をつけたのを見た。僕は中々自由時間もなく何度か追肥や水やりに行った程で一応気にはなっていたもの、しかしその時点では庭の手伝いの人々の協力を期待し安心していた。自分が教会に行けるのは夕方や夜のミサで日中バラに会う時間はなかったが、先日11月には日中ミサに出掛ける事が出来、庭のバラが気になり行って見た。
すると唖然とする情景を見てしまった。3年目のつるバラは広がっているものとばかり想像していたが、そのつるバラの周りと正面には他の花が植えられ、つるバラの為に時間を掛けて作った柵には一面が大形で外種系の葉も多く大きい強種朝顔のつると花や葉で覆いつくしカーテンを広げたようで太陽が妨げとなり全然日光が受けられなくなっていたのである。又、後ろに回って見ると3m以上にも伸びるつるバラが、50cmにも伸びられず日陰にひっそり何か叫んで小さくなり淋しそうであった。以前カナダ人の神父さんが楽しみになさっていたはずが何と言う様なのだろうと残念に感じ、たまらなかった。以前、自分が育てていたつるバラと云う事を別にしても植物が生きられる状態ではなかったからだ。最初に5名の大人が移植した際にはあれ程にも良くお願いしたはずなのに・・・・??
僕はその情けない心の人の好意には残念さと淋しさ、そして少々の怒りさえ思ったもの・・・・信じられないのである。しかしいろいろ考えて見るとこの教会の信者には75年前後の歴史があり、数千人もの家族が出入りし、又庭も多くの人々が利用している。又、ボーイスカウトも2組あり、バラの為の柵の意味等誰も話さなかったのか・・・・。しかし大人の指導者も必ずいたはず。又、他の花や強種朝顔にしてもただ自己満足のためのみの考えで植えたのであろうか。子供達にしても大人の一部の人々にしても自分の希望や思いを自由気ままに進める行為は決してめずらしくはない今日を思うと残念に思う時がある。朝顔や他の種の花を植える際の土作りやつるが伸びる為の時間的準備等を考え肝要であってほしいもの・・・・。
繰り返す様だがバラの為既に作られた柵全体を勝手に使う等は考えられない。小さく叫んでいるバラの声が聞こえないのであろうか。これでは何年過ぎてもつるバラは太陽を受け広く育ち花が咲くはずがない。こんな小さいことと云う人もいるだろうが植物としての命として考えても見るべきである。
そこで思うのだが世界の教会も日本の教会も長い歴史の流れの中では言うまでもなくおそらく人々や生き物への「生」「命」「慈悲」「愛」等の尊さを伝え教え続けているはずだと思う。植物にも生き物としての命がある。勝手な自己満足の為のみに前進する行為は良く考えてもらいたいものだ。大人の信者も共に植えたものと思われるが人の道を知るものであれば正しい道を伝えてほしいのだが不思議でならない。3m以上にも伸びる各種バラの女王の叫びを静かに聞きとめ再度美しい命を取り戻してほしい。このままではバラの命はあやぶいのである。この意見に関し僕はすべて寛容であろうと考えているゆえに教会の信者にももう一度生き物へのプロセスを良く話し考えてもらおうと思っている。(おわり)
取りに来られた人々の中には僕が心の支えとしている近くのカトリック所属教会信者の方も偶然ながら見えていて、何本でも良いので教会の庭にいただきたいと云う。僕も長くから知り合う教会の方が見えるとは思いもしなかったので嬉しくもあった。この数々のバラは義父が深く心して育ていろいろな方や近所に住む方が季節になると花の色や香りが素晴らしいと楽しんで下さったバラ達だ。新しい庭で新たに生きると思うと嬉しくも思った。
さて、教会の庭は非常に広いので中でも大きめのつるバラ3本程を運ぶことになった。しかし、枝や根本が大きく当日では無理になり後日改めて運ぶ事になった。そして後日、今時には珍しいリヤカーを引き取りに来られた事は驚きだった。僕も手伝って大人5人大きなつるバラ、高さ3m、巾4mにもなっているもっこうバラ、白と黄色の2本とピンクの花が咲く美しいつるバラ1本を運んだ。そして移植後日には男性3人で竹や木の棒を買って来てつるバラが強く広がる様に又、台風等にも負けないように高さ1m50、巾3mの柵でバランス良く出来た。
又、もっこうバラの2本の内1本は義父が以前皇室の紀子妃殿下のご希望で殿下の庭に植え付けられたバラの姉妹の一本で美しい黄色であり僕も好みの一本で大切にしていたものだった。したがって広い庭で大きく広がれば豪華と云える程に美しく素晴らしい花を咲かせると期待していた。そして移植した当日、僕は未熟ながらも一応庭の世話をされる教会信者の方にバラの育て方を説明した。つまり「バラは花の女王なのだから普通の鑑賞バラ、つるバラ、全てのバラの周りには背の高い他の種の草花を植えないで下さい。」と。「又、バラは特に太陽が好み広々と自由に育てる必要がありますのでどうか宜しくお願いします。」と、伝えていた。
丁度その頃当教会のカナダ人神父さんが庭に見に来られりゅうちょうな日本語で嬉しそうに「花が楽しみだネエ」と云って下さった。僕は再度話を続け、「つるバラは大形になるのですが、現状での移植の為、根の一部や枝を小さく切り込んである為移植一年目は、まだ木も小さく、又花の数も少ないと思う、しかし2年目程からは根も広がり良く太陽を受けると40個から60個以上の花が咲きます。」と伝えた。
その後、年が明け春には想像した様にわずか10個程の花をつけたのを見た。僕は中々自由時間もなく何度か追肥や水やりに行った程で一応気にはなっていたもの、しかしその時点では庭の手伝いの人々の協力を期待し安心していた。自分が教会に行けるのは夕方や夜のミサで日中バラに会う時間はなかったが、先日11月には日中ミサに出掛ける事が出来、庭のバラが気になり行って見た。
すると唖然とする情景を見てしまった。3年目のつるバラは広がっているものとばかり想像していたが、そのつるバラの周りと正面には他の花が植えられ、つるバラの為に時間を掛けて作った柵には一面が大形で外種系の葉も多く大きい強種朝顔のつると花や葉で覆いつくしカーテンを広げたようで太陽が妨げとなり全然日光が受けられなくなっていたのである。又、後ろに回って見ると3m以上にも伸びるつるバラが、50cmにも伸びられず日陰にひっそり何か叫んで小さくなり淋しそうであった。以前カナダ人の神父さんが楽しみになさっていたはずが何と言う様なのだろうと残念に感じ、たまらなかった。以前、自分が育てていたつるバラと云う事を別にしても植物が生きられる状態ではなかったからだ。最初に5名の大人が移植した際にはあれ程にも良くお願いしたはずなのに・・・・??
僕はその情けない心の人の好意には残念さと淋しさ、そして少々の怒りさえ思ったもの・・・・信じられないのである。しかしいろいろ考えて見るとこの教会の信者には75年前後の歴史があり、数千人もの家族が出入りし、又庭も多くの人々が利用している。又、ボーイスカウトも2組あり、バラの為の柵の意味等誰も話さなかったのか・・・・。しかし大人の指導者も必ずいたはず。又、他の花や強種朝顔にしてもただ自己満足のためのみの考えで植えたのであろうか。子供達にしても大人の一部の人々にしても自分の希望や思いを自由気ままに進める行為は決してめずらしくはない今日を思うと残念に思う時がある。朝顔や他の種の花を植える際の土作りやつるが伸びる為の時間的準備等を考え肝要であってほしいもの・・・・。
繰り返す様だがバラの為既に作られた柵全体を勝手に使う等は考えられない。小さく叫んでいるバラの声が聞こえないのであろうか。これでは何年過ぎてもつるバラは太陽を受け広く育ち花が咲くはずがない。こんな小さいことと云う人もいるだろうが植物としての命として考えても見るべきである。
そこで思うのだが世界の教会も日本の教会も長い歴史の流れの中では言うまでもなくおそらく人々や生き物への「生」「命」「慈悲」「愛」等の尊さを伝え教え続けているはずだと思う。植物にも生き物としての命がある。勝手な自己満足の為のみに前進する行為は良く考えてもらいたいものだ。大人の信者も共に植えたものと思われるが人の道を知るものであれば正しい道を伝えてほしいのだが不思議でならない。3m以上にも伸びる各種バラの女王の叫びを静かに聞きとめ再度美しい命を取り戻してほしい。このままではバラの命はあやぶいのである。この意見に関し僕はすべて寛容であろうと考えているゆえに教会の信者にももう一度生き物へのプロセスを良く話し考えてもらおうと思っている。(おわり)
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2007年12月13日
イタリアの世界的な巨匠エミリオ.グレコ教授は1913年、南イタリア、シシリア島のカアターニア市(CATANIA)に生まれられた。20世紀の代表的な彫刻家である。
「E.GRECO」先生はヨーロッパは言うまでもなくアメリカ、日本その他多くの国々に伸びやかで素晴らしい創造力豊かな彫刻作品を残し20世紀多くの若くして作家を目指す人々に彼の持つ独特のフォルムの捕え方を見せつけ、また、世界の美術愛好家の多くに魅了させる形を排出した作家の一人である。
さて、少し私事になるけど話は昔のことになる。僕が最初にイタリア留学を決めた頃の話である。東京で大変お世話になった方の紹介でイタリアヴェネツイア出身のジェルマノ.ヴォルカン神父、論理学、法律学者と知り合い、その方の紹介でイタリアでの彫刻の研究を進める為にE.GRECO教授を紹介される予定であった。しかし僕はローマに下宿の予定でローマの国立美術学校アカデミーアに通う計画に決めていた、が、当時グレコ先生はナポリ市の美術学校に在席されたと云う事を知り、グレコ先生は一度諦めざるを得なかった。しかし、結果的にはローマ国立美術学校(アカデミーア)の有名な巨匠、ぺリクレ.ファッツイニ教授に決まった。その後、グレコ先生は僕が既に学校を卒業した直後1967年頃ローマの美校に転勤されて来られた。
グレコ先生とはつまりその頃から1984年〜85年頃までの期間が知人合いの間柄となる。そしてグレコ教授がローマで勤められる様になってから学校の構内は非常に活気着いて来た頃である。僕は卒業後も自由課やファッツイニ教室で研究を続けていたので、学校内の動きは良く知っていたのだ。つまり美術学校では2人の世界的巨匠が存在する訳で学校の生徒の数も非常に多くなり学科の教室の数を増やす等も起きたりしたものだ。そんな頃、僕も初めてグレコ先生にお会いした。その時の印象としてはグレコ先生はとても口数の少ない方で静かな感じの教授に受けた。しかし、その一方では情熱的な方の様にも受けた。また、製作されている時や形ちを見られる目は何か力強い輝きが感じられる思いでもあった。
さて、E.グレコ先生のご自宅はローマ市内の静かなモンテマリオにあり、個人的にも訪問していたある時、日本から知人の紹介で年間数回もヨーロッパの有名ブランドの商品買い付けでローマに来られた(サンモトヤマ)茂登山長一郎氏を何度かグレコ先生のアトリエに紹介し、訪問した際には茂登山氏の若々しい話しっぷりにグレコ先生もご機嫌な様子で作品の話や、日本文化の話に花が咲いたりもした。その頃既に茂登山氏は日本でグレコ先生の作品コレクションをされている話もされたりしていた。
又、70年代に入り、日本で有名な日動画廊婦人、長谷川智恵子さんをも紹介し数回の訪問もする。その際には長谷川夫人は背も高く美人なのでグレコ先生は目を大きくして夫人を良く見つめ話ておられたものだ。
またグレコ先生はファッツイニ先生やマンズ先生らとやや違う点ではグレコ先生は非常に几帳面な点からか少々神経質な点が時々感じる事であろうか・・・。しかし心の底から暖かい方でもある。学校内の生徒等からはとっても優しい人柄とも聞いている。又別に他の2人の巨匠と違うもう一点がある様に思った。それはブロンズ小品の作品が少ない面でも珍しいとも思った。又、マンズ先生の様に多くの冗談も話されずと前にも言った様に口数が少なく、又、長年の知り合いでは一度グレコ夫人を紹介された時があり、夫人は大変な美人であった。その後毎回かの訪問で夫人にはあまりお会いした事はなかった。
さて、友人から聞いた話だがグレコ先生は一度日本を訪問された際、数人で熱海の温泉へ招待され先生は同行者と共に風呂へ入浴されている時のこと、別のグループと思われる日本の男性数人が丸裸で浴槽に入って来たのを見られて大変に驚かれ浴槽から飛び出て洋服に着替えられたと聞いた。他の日本人男性達のどの様な行動が一時のグレコ先生には刺激的であったかは定かではない。しかし同行の人々もたいそう心配された様だ。
イタリアやヨーロッパでの公衆浴場への入浴はほとんどの人々が水着(コスチューム)着用での入浴習慣であり、古くは古代ローマ以前からの歴史である。つまり公衆浴場での入浴は目的として、体を暖め、疲れを癒す等又、人々との社交の場として会話等で和やかな時を過ごす為とも考えられている。普通家庭での入浴習慣とは別の意味を持つようだ。これも文化の相異によるのだろうかと思われる。あまり上手には語れないけれどグレコ先生とのお付き合いの中で先生が創造される作品の世界で命ある美しさや他の多くの生き方を我々に伝えてくださった事はいつまでも忘れてならない20世紀巨匠の一人である。ローマでの思い出
(エミリオ.グレコ先生は1994年 81才で永眠された)
「E.GRECO」先生はヨーロッパは言うまでもなくアメリカ、日本その他多くの国々に伸びやかで素晴らしい創造力豊かな彫刻作品を残し20世紀多くの若くして作家を目指す人々に彼の持つ独特のフォルムの捕え方を見せつけ、また、世界の美術愛好家の多くに魅了させる形を排出した作家の一人である。
さて、少し私事になるけど話は昔のことになる。僕が最初にイタリア留学を決めた頃の話である。東京で大変お世話になった方の紹介でイタリアヴェネツイア出身のジェルマノ.ヴォルカン神父、論理学、法律学者と知り合い、その方の紹介でイタリアでの彫刻の研究を進める為にE.GRECO教授を紹介される予定であった。しかし僕はローマに下宿の予定でローマの国立美術学校アカデミーアに通う計画に決めていた、が、当時グレコ先生はナポリ市の美術学校に在席されたと云う事を知り、グレコ先生は一度諦めざるを得なかった。しかし、結果的にはローマ国立美術学校(アカデミーア)の有名な巨匠、ぺリクレ.ファッツイニ教授に決まった。その後、グレコ先生は僕が既に学校を卒業した直後1967年頃ローマの美校に転勤されて来られた。
グレコ先生とはつまりその頃から1984年〜85年頃までの期間が知人合いの間柄となる。そしてグレコ教授がローマで勤められる様になってから学校の構内は非常に活気着いて来た頃である。僕は卒業後も自由課やファッツイニ教室で研究を続けていたので、学校内の動きは良く知っていたのだ。つまり美術学校では2人の世界的巨匠が存在する訳で学校の生徒の数も非常に多くなり学科の教室の数を増やす等も起きたりしたものだ。そんな頃、僕も初めてグレコ先生にお会いした。その時の印象としてはグレコ先生はとても口数の少ない方で静かな感じの教授に受けた。しかし、その一方では情熱的な方の様にも受けた。また、製作されている時や形ちを見られる目は何か力強い輝きが感じられる思いでもあった。
さて、E.グレコ先生のご自宅はローマ市内の静かなモンテマリオにあり、個人的にも訪問していたある時、日本から知人の紹介で年間数回もヨーロッパの有名ブランドの商品買い付けでローマに来られた(サンモトヤマ)茂登山長一郎氏を何度かグレコ先生のアトリエに紹介し、訪問した際には茂登山氏の若々しい話しっぷりにグレコ先生もご機嫌な様子で作品の話や、日本文化の話に花が咲いたりもした。その頃既に茂登山氏は日本でグレコ先生の作品コレクションをされている話もされたりしていた。
又、70年代に入り、日本で有名な日動画廊婦人、長谷川智恵子さんをも紹介し数回の訪問もする。その際には長谷川夫人は背も高く美人なのでグレコ先生は目を大きくして夫人を良く見つめ話ておられたものだ。
またグレコ先生はファッツイニ先生やマンズ先生らとやや違う点ではグレコ先生は非常に几帳面な点からか少々神経質な点が時々感じる事であろうか・・・。しかし心の底から暖かい方でもある。学校内の生徒等からはとっても優しい人柄とも聞いている。又別に他の2人の巨匠と違うもう一点がある様に思った。それはブロンズ小品の作品が少ない面でも珍しいとも思った。又、マンズ先生の様に多くの冗談も話されずと前にも言った様に口数が少なく、又、長年の知り合いでは一度グレコ夫人を紹介された時があり、夫人は大変な美人であった。その後毎回かの訪問で夫人にはあまりお会いした事はなかった。
さて、友人から聞いた話だがグレコ先生は一度日本を訪問された際、数人で熱海の温泉へ招待され先生は同行者と共に風呂へ入浴されている時のこと、別のグループと思われる日本の男性数人が丸裸で浴槽に入って来たのを見られて大変に驚かれ浴槽から飛び出て洋服に着替えられたと聞いた。他の日本人男性達のどの様な行動が一時のグレコ先生には刺激的であったかは定かではない。しかし同行の人々もたいそう心配された様だ。
イタリアやヨーロッパでの公衆浴場への入浴はほとんどの人々が水着(コスチューム)着用での入浴習慣であり、古くは古代ローマ以前からの歴史である。つまり公衆浴場での入浴は目的として、体を暖め、疲れを癒す等又、人々との社交の場として会話等で和やかな時を過ごす為とも考えられている。普通家庭での入浴習慣とは別の意味を持つようだ。これも文化の相異によるのだろうかと思われる。あまり上手には語れないけれどグレコ先生とのお付き合いの中で先生が創造される作品の世界で命ある美しさや他の多くの生き方を我々に伝えてくださった事はいつまでも忘れてならない20世紀巨匠の一人である。ローマでの思い出
(エミリオ.グレコ先生は1994年 81才で永眠された)
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2007年11月15日
イタリアの夏、カラッとした空気と共に太陽の熱も人々も情熱的で想像以上にテンションが高まっている。この頃僕はローマで自動車免許証を入手して一年になる。運転も楽しくなった頃である。イタリアの人には現実的な人も多く、何か思い立つと即座に実行する人が多い様に見える。自分も考えたり思った事を実行する行動が好きだ。この頃ローマの生活も多忙であったが中々人並みとは行かないもののしかし時々のリラックスも必要だった。
この日は天候も良く予てからの友人K・J神父や声楽の勉強に遊学しているH女性ら数人で例の愛車中古ワーゲン車で太陽の町、南イタリア、ナポリ、ソレント等に行こうと意見が一致、ナポリへの太陽道路(Auto.Strada.del.sole)を南下、しかし、ドライブ途中話が一転。「帰れソレント」に行って見ようとなる。変更が決まった。
そこでソレントの町には友人がいる事も思い出した。ローマ美術学校学生時代の後輩である、チーロ・パーネ君の出身地で今も住んでいるはずだ。そこでナポリを通りソレントへの道に進む。左手には例の歴史的なヴェスゥヴィオ火山(D.C.79年)は大きくそびえ青空の下に栄えて美しい。右側にはナポリ湾の青い海が太陽の光でキラキラ輝き美しく、また曲がりくねった海岸線をぐるぐる走り世界の民謡で名高い「帰れソレント」の町に入る。町中は思ったより静かだ。しかし、海は青々と洋画の強いブルー一色、そして前に話した、ソレントの町から海側正面には再度ヴェスゥヴィオ火山も見え一段と力強く座り時代を語り続けているのが少しにくい気もする。
友人達は両方の美しさに誘われたのだろうか、情景を見ながらこの美しい海で是非泳いでみたいと言い出した。僕は丁度以前使った水泳用着を車に入れていた。しかし、他の友人達は水着等の用意はなかった。
そこでソレント町の友人チーロ君を思い出し、自宅に電話をしてみた。運良くチーロ君は家にいた。そこで突然だが家を訪れる事になる。ご両親も在宅初の我々を明るく迎えて下さった。チーロ君のお父様は国立ナポリ美術学校学長をされていると云う。それでかチーロ君はローマの美術学校で学んでいたのだと思った。
さてそこで何とか女性用の水着をお借り出来ないでしょうか・・・とチーロ君のお母さんにお聞きしてみた。するとお母さんは快く「私の水着」で良ければ使って下さいと云って下さったが、あまりにも心の温かさには嬉しくもあり恐縮でもあった。だが、イタリアの女性だからかやや大きめに見える。しかしH、彼女は即身体に当ててみるとやはり横幅が広くブカブカだった。皆で考えた末、安全ピンを借りる事になった。10個程のピンを脇下から腰まで止めると何とかスリムになり、泳げそうなので良しとし、女性用の水着の準備が整ったが後一枚の男性用水泳パンツが必要だ。K・J神父には僕の水着の一枚を貸す事になる。わずかに「ゆるめ」とは云うが、何とかなるだろうと云う事で良しとした。皆は太陽の町ソレントの海で泳げるとなると一段と元気が出た様だ。他のイタリアの友人達と共に海におりる。さすが地元ソレントの若者だ。泳ぎの見本を示す如く、次々と軽快に飛び込む姿は羨ましい程だ。僕は山育ちなのにイタリアの海は大変好きだ…しかし泳ぎは得意ではない。
そして幾度か美しい海と飛び込み台を行き来しているうちに、K・J神父は「よーし行こうか」と勢い強く飛び込んだ!!その時何かが起きた…彼が飛び込み海に潜った波の上に一枚のみどり色の海水パンツがポカッ…と浮いているではないか・・・台の上から見ていた僕とイタリアの友人達は一声に「ワァツ」と声を出し海上に浮いたみどりの海水パンツに気付き指差しながら大爆笑である。すると数秒後かにK・J神父はそれこそ想像以上の驚きと云う表情表現で水上に顔を出し、何とも云えない苦笑いウファウファと声を出し立ち泳ぎ…まるで水中での小さな曲芸の様だった。自分も水泳パンツを指差しながら水上5〜6m先の水着を手づかみにし、又も立ち泳ぎ、もがきながら水中で水着を着けているので僕は思った、もしかして水中で大魚でも見ていたら何と思っただろうか?コスチュームを身に付け自然の笑顔に戻った我々友人は皆拍手で彼が飛び台に上がるのを迎えた。本人も安堵した様であった。そして又一通りの出来事を再度皆んなで語り合うのである。
とにかく彼、K・J神父には僕の水着が少し大きめであったことは事実だが普通に泳ぐには別状ないと思っていた。彼は必要以上の強さで飛び込んだ事も理解していた。何しろ水中に潜った一瞬はとにかく丸、丸の全裸だ!!本当に我が身は大パニックであったとその時の様子を話す。しかし我々友人は腹の底から大爆笑した為か皆は腹ペコになる程の運動をした。そしてソレントの美味な海の料理をそれなりに満喫した。
この日はイタリアの友人達と楽しい笑いの一日、その正本人がカトリックの神父と云う事にも意味がある。つまり、E・U(ヨーロッパ)でもイタリアは特にローマには法皇庁があり神父「聖職者」の中には大学教授や学者も多く、歴史的に国民から深い信頼を受けている。イタリア人なら良く理解しているから尚、爆笑だったのであろう。あまりにも突然(とっさの)出来事の話で盛り上がった。ローマへの帰りのドライブ中でも同じ爆笑の話で軽快だった。おそらくソレントのチーロ・パーネ家でも同じ様に話が夕食の料理にひと味を添え雰囲気を高めただろうと想像すると何とも又楽しくもある。太陽の国、南イタリア、ソレントの、暑い暑い夏の思い出である。おわり
この日は天候も良く予てからの友人K・J神父や声楽の勉強に遊学しているH女性ら数人で例の愛車中古ワーゲン車で太陽の町、南イタリア、ナポリ、ソレント等に行こうと意見が一致、ナポリへの太陽道路(Auto.Strada.del.sole)を南下、しかし、ドライブ途中話が一転。「帰れソレント」に行って見ようとなる。変更が決まった。
そこでソレントの町には友人がいる事も思い出した。ローマ美術学校学生時代の後輩である、チーロ・パーネ君の出身地で今も住んでいるはずだ。そこでナポリを通りソレントへの道に進む。左手には例の歴史的なヴェスゥヴィオ火山(D.C.79年)は大きくそびえ青空の下に栄えて美しい。右側にはナポリ湾の青い海が太陽の光でキラキラ輝き美しく、また曲がりくねった海岸線をぐるぐる走り世界の民謡で名高い「帰れソレント」の町に入る。町中は思ったより静かだ。しかし、海は青々と洋画の強いブルー一色、そして前に話した、ソレントの町から海側正面には再度ヴェスゥヴィオ火山も見え一段と力強く座り時代を語り続けているのが少しにくい気もする。
友人達は両方の美しさに誘われたのだろうか、情景を見ながらこの美しい海で是非泳いでみたいと言い出した。僕は丁度以前使った水泳用着を車に入れていた。しかし、他の友人達は水着等の用意はなかった。
そこでソレント町の友人チーロ君を思い出し、自宅に電話をしてみた。運良くチーロ君は家にいた。そこで突然だが家を訪れる事になる。ご両親も在宅初の我々を明るく迎えて下さった。チーロ君のお父様は国立ナポリ美術学校学長をされていると云う。それでかチーロ君はローマの美術学校で学んでいたのだと思った。
さてそこで何とか女性用の水着をお借り出来ないでしょうか・・・とチーロ君のお母さんにお聞きしてみた。するとお母さんは快く「私の水着」で良ければ使って下さいと云って下さったが、あまりにも心の温かさには嬉しくもあり恐縮でもあった。だが、イタリアの女性だからかやや大きめに見える。しかしH、彼女は即身体に当ててみるとやはり横幅が広くブカブカだった。皆で考えた末、安全ピンを借りる事になった。10個程のピンを脇下から腰まで止めると何とかスリムになり、泳げそうなので良しとし、女性用の水着の準備が整ったが後一枚の男性用水泳パンツが必要だ。K・J神父には僕の水着の一枚を貸す事になる。わずかに「ゆるめ」とは云うが、何とかなるだろうと云う事で良しとした。皆は太陽の町ソレントの海で泳げるとなると一段と元気が出た様だ。他のイタリアの友人達と共に海におりる。さすが地元ソレントの若者だ。泳ぎの見本を示す如く、次々と軽快に飛び込む姿は羨ましい程だ。僕は山育ちなのにイタリアの海は大変好きだ…しかし泳ぎは得意ではない。
そして幾度か美しい海と飛び込み台を行き来しているうちに、K・J神父は「よーし行こうか」と勢い強く飛び込んだ!!その時何かが起きた…彼が飛び込み海に潜った波の上に一枚のみどり色の海水パンツがポカッ…と浮いているではないか・・・台の上から見ていた僕とイタリアの友人達は一声に「ワァツ」と声を出し海上に浮いたみどりの海水パンツに気付き指差しながら大爆笑である。すると数秒後かにK・J神父はそれこそ想像以上の驚きと云う表情表現で水上に顔を出し、何とも云えない苦笑いウファウファと声を出し立ち泳ぎ…まるで水中での小さな曲芸の様だった。自分も水泳パンツを指差しながら水上5〜6m先の水着を手づかみにし、又も立ち泳ぎ、もがきながら水中で水着を着けているので僕は思った、もしかして水中で大魚でも見ていたら何と思っただろうか?コスチュームを身に付け自然の笑顔に戻った我々友人は皆拍手で彼が飛び台に上がるのを迎えた。本人も安堵した様であった。そして又一通りの出来事を再度皆んなで語り合うのである。
とにかく彼、K・J神父には僕の水着が少し大きめであったことは事実だが普通に泳ぐには別状ないと思っていた。彼は必要以上の強さで飛び込んだ事も理解していた。何しろ水中に潜った一瞬はとにかく丸、丸の全裸だ!!本当に我が身は大パニックであったとその時の様子を話す。しかし我々友人は腹の底から大爆笑した為か皆は腹ペコになる程の運動をした。そしてソレントの美味な海の料理をそれなりに満喫した。
この日はイタリアの友人達と楽しい笑いの一日、その正本人がカトリックの神父と云う事にも意味がある。つまり、E・U(ヨーロッパ)でもイタリアは特にローマには法皇庁があり神父「聖職者」の中には大学教授や学者も多く、歴史的に国民から深い信頼を受けている。イタリア人なら良く理解しているから尚、爆笑だったのであろう。あまりにも突然(とっさの)出来事の話で盛り上がった。ローマへの帰りのドライブ中でも同じ爆笑の話で軽快だった。おそらくソレントのチーロ・パーネ家でも同じ様に話が夕食の料理にひと味を添え雰囲気を高めただろうと想像すると何とも又楽しくもある。太陽の国、南イタリア、ソレントの、暑い暑い夏の思い出である。おわり
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2007年10月15日
在ローマ・J.A.Lオフィスから連絡があり、後日ローマに日本のW商社マン2名が立寄られるのでその方々の通訳をお願いしたいとの依頼があり、当日その商社マンにお会いして見ると思ったより若い方であった。
彼らはアフリカ政府の仕事としてアフリカ砂漠近郊地域で新しい都市の地図作製の為、それらの技術指導に日本から派遣されたのである。2年間の仕事期間を終えられ日本に帰国される前にローマに立ち寄り少々の気分転換を兼ねて市内の史跡等の見学を同行してほしいとの事である。商業通訳ではなかった。
2人はお会いしたときは何となく変わった様子雰囲気にも伺えた。僕はその少し変わった感じに少々疑問もあったがその疑問点が市内を同行している内に少しずつ話し合う中で納得がいく様になる。つまり彼らは2年間もアフリカの一部が未開地地帯での生活環境で数多い初の生活体験から一転してイタリア国に入り古代の歴史的都市を目前にした、それも又別の意味で再度の環境変化と云う現実に気持ちに対する整理が複雑であった事が少し変わって見えたと云う原因とわかった。
長期間未開地の地図作り等と云うやや固くて正確な結果を要求される重要な仕事から解放されたのである。お会いしている内に彼らにも笑顔が見られ、彼らいわく「日本人である僕とも会話が出来てとても嬉しい」等と云われた事にも一時意外にさえ感じたものである。従ってローマでの2日間はゆっくり歴史的文化遺産を楽しく堪能されたり又、美味なイタリアの味も楽しんで下さいと申し合わせた。
そして市内見学の合間に少しずつアフリカでの生活の一端一端や生活の厳しさを含む体験を話される。僕はそれらを伺う事も楽しみであった。アフリカでの新しい地図作製とは云えその目的達成には非常に多くの困難とご苦労が伴ったようで話されることも尽きないとも云われていた。
困難な砂漠を含む地域である事から長時間を要する作製を続ける中でようやくその地図の一部が出来上がる頃の出来事である。一夜にして強風「砂漠の嵐」によって多くの困難を乗り越え測量を進めて来たにも係らず一夜にして測量用ポールが飛び地形の凡てが大変化して別地帯となる。いわゆる前日までの地形が別地域のようになってしまうと云う大悲劇も体験されたと云う。地形の大きな変化で再度の測量となったり想像を絶する新たな地形が現れる事態も多々あったと云う。
そんな日課の毎日、現場に通った道で現地住民の民家近くや前日通った道でも以前、目に入らなかった物が見える程少し慣れてきたのか黒人民家の前には小さな動物用の檻が設置されているのに気付き、何度か通り過ぎていたがふと尋ねて見たそう。すると住民の答えは猫の檻だと云う!その説明には非常に驚いたという。猫は普通日本ではペットで可愛い家族の一員、しかしアフリカの一部では食用の猫だと云うのだ・・・彼らは檻の中の猫を見ると普通の猫とは一回りも二回りも大きく見事な猫だったと話す。驚きである。僕はその時・・・昔の話になるけど最初ローマに留学した頃教会の友人から聞いた話を思い出した。それはイタリアでも戦後食糧難な頃(1945年〜1946年)中部イタリア、ローマでも一部の人々は普通の猫君の肉を已む無く食糧としたことがあると聞いた。その際の猫君の肉は非常に臭みが強く焦らず一週間程新しい水を変え洗浄し食したと聞いた事を思い出した。今日ではローマ市内のコロッセオ等多くの広場等に元気にひなたぼっこの姿を良く見るので馴染めない話であった。
さて、砂漠地帯での難行する地図作製の話やアフリカ猫の話、さまざまな困難とご苦労のある中、しかし彼らはアフリカの地で一番美しいと感じた思い出深い事は毎日の仕事を終え夕刻から夜にかけての散歩が何よりの楽しみで心を癒してくれそれに加えアフリカでの夜空の星は言葉に出来ない程素晴らしく叙情的で美しく印象的であったと話され彼らにとっては1日の疲れや苦労も天空の美景に消えて行くと云うのであろうと思うとここち良くも聞こえた。
世界は広し、多くの人類、そして文化や歴史の違いの中、様々な命が共に輝く星の下での営みがあると思った。2人の商社マンはローマの歴史文化と美味なイタリア料理にも堪能満足され日本に帰国された事は幸いであり自分もいっときその満足感に便乗したような感じであった。おわり
彼らはアフリカ政府の仕事としてアフリカ砂漠近郊地域で新しい都市の地図作製の為、それらの技術指導に日本から派遣されたのである。2年間の仕事期間を終えられ日本に帰国される前にローマに立ち寄り少々の気分転換を兼ねて市内の史跡等の見学を同行してほしいとの事である。商業通訳ではなかった。
2人はお会いしたときは何となく変わった様子雰囲気にも伺えた。僕はその少し変わった感じに少々疑問もあったがその疑問点が市内を同行している内に少しずつ話し合う中で納得がいく様になる。つまり彼らは2年間もアフリカの一部が未開地地帯での生活環境で数多い初の生活体験から一転してイタリア国に入り古代の歴史的都市を目前にした、それも又別の意味で再度の環境変化と云う現実に気持ちに対する整理が複雑であった事が少し変わって見えたと云う原因とわかった。
長期間未開地の地図作り等と云うやや固くて正確な結果を要求される重要な仕事から解放されたのである。お会いしている内に彼らにも笑顔が見られ、彼らいわく「日本人である僕とも会話が出来てとても嬉しい」等と云われた事にも一時意外にさえ感じたものである。従ってローマでの2日間はゆっくり歴史的文化遺産を楽しく堪能されたり又、美味なイタリアの味も楽しんで下さいと申し合わせた。
そして市内見学の合間に少しずつアフリカでの生活の一端一端や生活の厳しさを含む体験を話される。僕はそれらを伺う事も楽しみであった。アフリカでの新しい地図作製とは云えその目的達成には非常に多くの困難とご苦労が伴ったようで話されることも尽きないとも云われていた。
困難な砂漠を含む地域である事から長時間を要する作製を続ける中でようやくその地図の一部が出来上がる頃の出来事である。一夜にして強風「砂漠の嵐」によって多くの困難を乗り越え測量を進めて来たにも係らず一夜にして測量用ポールが飛び地形の凡てが大変化して別地帯となる。いわゆる前日までの地形が別地域のようになってしまうと云う大悲劇も体験されたと云う。地形の大きな変化で再度の測量となったり想像を絶する新たな地形が現れる事態も多々あったと云う。
そんな日課の毎日、現場に通った道で現地住民の民家近くや前日通った道でも以前、目に入らなかった物が見える程少し慣れてきたのか黒人民家の前には小さな動物用の檻が設置されているのに気付き、何度か通り過ぎていたがふと尋ねて見たそう。すると住民の答えは猫の檻だと云う!その説明には非常に驚いたという。猫は普通日本ではペットで可愛い家族の一員、しかしアフリカの一部では食用の猫だと云うのだ・・・彼らは檻の中の猫を見ると普通の猫とは一回りも二回りも大きく見事な猫だったと話す。驚きである。僕はその時・・・昔の話になるけど最初ローマに留学した頃教会の友人から聞いた話を思い出した。それはイタリアでも戦後食糧難な頃(1945年〜1946年)中部イタリア、ローマでも一部の人々は普通の猫君の肉を已む無く食糧としたことがあると聞いた。その際の猫君の肉は非常に臭みが強く焦らず一週間程新しい水を変え洗浄し食したと聞いた事を思い出した。今日ではローマ市内のコロッセオ等多くの広場等に元気にひなたぼっこの姿を良く見るので馴染めない話であった。
さて、砂漠地帯での難行する地図作製の話やアフリカ猫の話、さまざまな困難とご苦労のある中、しかし彼らはアフリカの地で一番美しいと感じた思い出深い事は毎日の仕事を終え夕刻から夜にかけての散歩が何よりの楽しみで心を癒してくれそれに加えアフリカでの夜空の星は言葉に出来ない程素晴らしく叙情的で美しく印象的であったと話され彼らにとっては1日の疲れや苦労も天空の美景に消えて行くと云うのであろうと思うとここち良くも聞こえた。
世界は広し、多くの人類、そして文化や歴史の違いの中、様々な命が共に輝く星の下での営みがあると思った。2人の商社マンはローマの歴史文化と美味なイタリア料理にも堪能満足され日本に帰国された事は幸いであり自分もいっときその満足感に便乗したような感じであった。おわり
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2007年09月20日
去る6月の出来事である。僕のStudio(仕事場)の外側は塀と多摩川の堤防を兼ねた道路、そして河川敷には古くからサッカー、野球(旧、巨人軍グラウンド)ラグビー等いろいろなスポーツを楽しむ人々が集まる場所である。グラウンドから土手に上がると上下二本の路となっていて交差する地点がやや広く形の良い外灯が一本立っている。その外灯から5m程の距離、フェンスの内側が空き地と小さな薔薇の畑がある。僕は時々その畑に出る。
この日は春の薔薇も終わり追肥が必要かなァ等と考えて少し準備をしようと思っていたその矢先に想像もつかない事が起きた!僕のstudioの近くには以前から常駐している2〜3羽のカラスがいて度々カアコウと、言っているので僕も時々電柱上にいる鴉に「カーコ、今日のご機嫌はどうだネエ」等話したりすると、鴉は頭を傾げて僕の言葉を聞いている様な動きをしている。
さて、そのカァ君かどうかは分からないがその日も2〜3羽がいて、その一羽が外灯の上から僕の方向や方々を見回していた様子であった、が、その外灯上の一羽が突如として空に一線を引くかの如くスーッと笠の部分からパサッと音と共に落下し、そのままピクッともしないので驚いた。僕はその現実を見た。突然の驚きで一瞬異様な雰囲気となった。周りには車道を走る車、住宅地は人通りも少ない。そんな異様な一瞬から1〜2分も過ぎない時・・・近くにいたとも思えない程多くのカラスが群になって集まってくるのである。その時「ヒッチコック」の映画「鳥」の状景を思い出していた。昨年まではこの辺は電柱もなく広々と明るく見えた一画、しかし新しい電柱が出来たばかりと3本ばかりの電線は見る見るうちに黒一色、カラスの群だ!!
本当に信じられない異常な情景だ。わずか数分間の出来事で驚く等と云うものではない程、とにかく言葉も出ないとはこういう時か・・・。電線上の黒い集合体は外灯から落下し、道路に横たわる一羽のカラスを見下ろしながら全体でカァカァ、グァグァの声には彼らの何とも言えない叫びが秘められている気がして恐怖感はいやだった・・・。
何と云っても空の黒い点が見えてから集合の速さと数の多い行動には言葉も出ない。驚きだ。僕は黒い点と影の恐怖感とその異常さには堪えられず、建物の中に入ることに決めた。そして一時落ち着けない状態が少し続いた。一時間半近く経ち、二階の窓から外の情景を見るとカラス群の厳しかった叫び声は少なくなり鴉の数も10羽程にまで減っていた。道の通行人も少ない。しかし、外灯から落下した一羽の鴉は路面ではまだ悲惨な状態のままだ・・・。
時々人の声がする。若い学生達が多摩川テニスクラブからの帰り通、ヒソヒソと地上の鴉を遠巻きに見ながら何か静かに通って行く。
それらを見聞きしている内に、又も、突然サングラスを付けた帽子の男性が多摩川の土手下から現れ落下している鴉に近づくや否や、サアッ!!と片手でカラスの死骸をつかみ取り左前方土手から住宅地へ足早に姿を消してしまったのである・・・。この男性の行動も又異様な行動で僕はその一瞬の出来事にあいた口がふさがらなかった・・・。
いろいろと考えては見たものの、カラス達にとって、例えば一羽でも友の死は非常に重要であったのだ。従ってこの様な追悼の意味を行動で表したのであろうと考える時、僕には驚きを超え異状で衝撃的で恐怖感を感じたが、しかし鴉たちの気持ちも信じたくなる思いがした。又も「ヒッチコック」の映画を思い出す。それはあの黒い集団からのミステリックな行動に見る恐怖と何か強烈にして身体に刺さる様な厳しさ、黒い影と異常な叫びは本当にその現実を見てカラスたちの本能とはものすごいものだと思った。
この日はまるでドラマの一遍のようなとっても変化の激しい一日であった。
この日は春の薔薇も終わり追肥が必要かなァ等と考えて少し準備をしようと思っていたその矢先に想像もつかない事が起きた!僕のstudioの近くには以前から常駐している2〜3羽のカラスがいて度々カアコウと、言っているので僕も時々電柱上にいる鴉に「カーコ、今日のご機嫌はどうだネエ」等話したりすると、鴉は頭を傾げて僕の言葉を聞いている様な動きをしている。
さて、そのカァ君かどうかは分からないがその日も2〜3羽がいて、その一羽が外灯の上から僕の方向や方々を見回していた様子であった、が、その外灯上の一羽が突如として空に一線を引くかの如くスーッと笠の部分からパサッと音と共に落下し、そのままピクッともしないので驚いた。僕はその現実を見た。突然の驚きで一瞬異様な雰囲気となった。周りには車道を走る車、住宅地は人通りも少ない。そんな異様な一瞬から1〜2分も過ぎない時・・・近くにいたとも思えない程多くのカラスが群になって集まってくるのである。その時「ヒッチコック」の映画「鳥」の状景を思い出していた。昨年まではこの辺は電柱もなく広々と明るく見えた一画、しかし新しい電柱が出来たばかりと3本ばかりの電線は見る見るうちに黒一色、カラスの群だ!!
本当に信じられない異常な情景だ。わずか数分間の出来事で驚く等と云うものではない程、とにかく言葉も出ないとはこういう時か・・・。電線上の黒い集合体は外灯から落下し、道路に横たわる一羽のカラスを見下ろしながら全体でカァカァ、グァグァの声には彼らの何とも言えない叫びが秘められている気がして恐怖感はいやだった・・・。何と云っても空の黒い点が見えてから集合の速さと数の多い行動には言葉も出ない。驚きだ。僕は黒い点と影の恐怖感とその異常さには堪えられず、建物の中に入ることに決めた。そして一時落ち着けない状態が少し続いた。一時間半近く経ち、二階の窓から外の情景を見るとカラス群の厳しかった叫び声は少なくなり鴉の数も10羽程にまで減っていた。道の通行人も少ない。しかし、外灯から落下した一羽の鴉は路面ではまだ悲惨な状態のままだ・・・。
時々人の声がする。若い学生達が多摩川テニスクラブからの帰り通、ヒソヒソと地上の鴉を遠巻きに見ながら何か静かに通って行く。
それらを見聞きしている内に、又も、突然サングラスを付けた帽子の男性が多摩川の土手下から現れ落下している鴉に近づくや否や、サアッ!!と片手でカラスの死骸をつかみ取り左前方土手から住宅地へ足早に姿を消してしまったのである・・・。この男性の行動も又異様な行動で僕はその一瞬の出来事にあいた口がふさがらなかった・・・。
いろいろと考えては見たものの、カラス達にとって、例えば一羽でも友の死は非常に重要であったのだ。従ってこの様な追悼の意味を行動で表したのであろうと考える時、僕には驚きを超え異状で衝撃的で恐怖感を感じたが、しかし鴉たちの気持ちも信じたくなる思いがした。又も「ヒッチコック」の映画を思い出す。それはあの黒い集団からのミステリックな行動に見る恐怖と何か強烈にして身体に刺さる様な厳しさ、黒い影と異常な叫びは本当にその現実を見てカラスたちの本能とはものすごいものだと思った。
この日はまるでドラマの一遍のようなとっても変化の激しい一日であった。
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2007年08月23日
僕が最初にモザイクの町ラヴェンナへ訪れたのは1967年で既に、ローマACC、美術学校は卒業してからであった。さてラヴェンナ町は言うまでもなく、古くは西ローマ帝国の首都からD.C395年、東ローマ帝国、テオドリウス一世によって分割、その頃からモザイクの技術が教会建築等と共に繁栄し、ヨーロッパ全土の人々や世界の人々が魅了する町となってゆき又、教会美術としてもその存在感を高め、その一つ一つが目覚める程に鮮やかで気高い精神性を示しその多彩な表現力は力強く色彩豊かに輝いている。今日までその美しさを象徴する町として伝承し語り続けて来た。
また、ラヴェンナのモザイクは凡てと言っても良い程にそのモチーフは当時代のカトリック神学が主題となっていてその一点一点の構図内容の持つ意味は深い。したがって実物を見ての説明こそ何より不可欠であろうと感じる。
さて、この度の見学も前回まで何度となく訪れた時とやや同じ見学方法であった為かその印象からくる感動は同じ様に受けた。繰り返す様だけど初めてこの町に訪れた時はあまりにも素晴らしく想像も出来ない規模のモザイクを見たときは本当に唖然として一瞬絶句したものであった。どうしてこんな美しいものがこんなに多く様々な様式で作られねばならなかったのか等と。素朴な思いでもあった事を今も思い出す。そして今この美しい町でいろいろな事を考えながら多くのモザイク群からの語りを聞き受け、その満足感を背負いながら、町を数km程郊外に出ると、広々とした緑の麦畑に囲まれた教会が目に入る。教会は一見田舎の素朴な、、、と思い中に入るとその大聖堂には以前とは変わらぬ鮮やかで見事なビザンチンのモザイク工人達の技なる芸術が展開している。その展開するモザイクの構図や色彩の広がりはまばゆい位、天空の星の様に美しい夢の世界を想像させ色彩からの変化によって流れ広がり詩うプリズムの様にさえ感じ思わせ全身がサァーっとして感動的で胸も熱くなる時もあった。
ヴィターレ教会(神に対するアブラハムーイサクの犠牲)
聖教会内部モザイクの部分
548年頃 モザイク部分(ぶどうとハトの図)
聖ヴィターレ教会(良きひつじかい)
部分
聖アポリナーレ、イン、クラッセ教会 祭壇と全景モザイク
聖アポリナーレ、ヌォヴォ 大聖堂内部分
この様な感動の数々を体感する旅人であれば、このラヴェンナに限らず少ない限られた時間で少しでも多くの芸術文化を鑑賞しようと思う心は常であろう。そこで、この美しいラヴェンナのモザイクと共にイタリア国内の史上で他の地域でのモザイクも忘れてはならない。それは当然、水の都、ヴェネツイア・S・Marco寺院そして南イタリア、シシリー島、パレルモ市のモンレアーレ教会のモザイクであろう。是非、鑑賞してほしい場所である。しかしこんな体験を幾度となく繰り返したにも係らず旅から帰国後、間もなく過ぎし旅を思い出すと、すぐにでも旅立ちたい程の意気込みに追い込まれるのである。こんな勝手な思いは自分だけの衝動なのであろうか。ヴェネツイア、ラヴェンナ、フィレンツェのみならずイタリア全土に広がる多くの貴重な世界遺産が我々を優しく呼んでいるからなのであろうか・・・?
さて、前回のコラムで少し紹介した町、イタリア中部アドリア海にやや近いウルヴィーノへ数年ぶりに訪れた、ウルヴィーノの町はイタリア、ルネッサンス期の若き美男の画家ラファエルロ・サンツウィォが生まれ育った町で14才まで生活をした生家が今も存在する事で有名だ。この町には12世紀以来、フェデリコ・ダ・モンテエフェルトロ公(1444〜82)の支配下にあり彼はすぐれた学識者で収集家、その全盛期には多くの芸術家たちを屁護した。この町の国立マルケ美術館には名画ピエロデルラ・フランチェスカのマドンナ等も有り館内は非常に広く、又内部の建築様式も美しく、中でもフェデリコ公の読書の部屋はボッティチェルリのデザインによる非常に美しい寄木細工の作品も飾られている。特に有名な名画はラファエルロの作(ラ・ムゥタ)だまっている女(婦人画)の名画は、当時レオナルド・ダ・ヴィンチの絵書いた名画(モナリザ)と競って絵画いた肖像画として有名である。
国立マルケ美術館 ラファエルロ作・画 ラ・ムゥタ肖像
又この名画は1970年代に一度盗難事件に合ったことでも有名でそれが好運にしてイタリア国国境税関検問官の手によって、イタリア出国直前にその犯人が捕えられ、名画ラ・ムッタは無事にウルヴィーノの町に帰ってきたと云う。現在は名画へのセキュリティも厳重に整っていた。この様な事件に似た博物館等からの盗難事件の映画等を思い出す。
このウルヴィーノの町は全体が丘と斜面からなる地形を自然に利用した坂道が多くラファエルロの生家もその斜面に存在する。1483〜1520年、生家の中は2階建てでイタリアでは普通の家庭の様だが、ラファエルロの父も画家であった事から父の画室や絵も残されている。生家の斜面中程から後方の丘に登り切るとウルヴィーノ全体が一望できる。その周辺はルネッサンスの絵画に表現されている様なのどかで美しい牧歌的風景が展開し、その明るい若葉色は目に響き心なごむ思いがする。そして丘の頂上からの美風にも格別な現代の香りと味が聞こえるのであった。(2007・5月の旅から)
また、ラヴェンナのモザイクは凡てと言っても良い程にそのモチーフは当時代のカトリック神学が主題となっていてその一点一点の構図内容の持つ意味は深い。したがって実物を見ての説明こそ何より不可欠であろうと感じる。
さて、この度の見学も前回まで何度となく訪れた時とやや同じ見学方法であった為かその印象からくる感動は同じ様に受けた。繰り返す様だけど初めてこの町に訪れた時はあまりにも素晴らしく想像も出来ない規模のモザイクを見たときは本当に唖然として一瞬絶句したものであった。どうしてこんな美しいものがこんなに多く様々な様式で作られねばならなかったのか等と。素朴な思いでもあった事を今も思い出す。そして今この美しい町でいろいろな事を考えながら多くのモザイク群からの語りを聞き受け、その満足感を背負いながら、町を数km程郊外に出ると、広々とした緑の麦畑に囲まれた教会が目に入る。教会は一見田舎の素朴な、、、と思い中に入るとその大聖堂には以前とは変わらぬ鮮やかで見事なビザンチンのモザイク工人達の技なる芸術が展開している。その展開するモザイクの構図や色彩の広がりはまばゆい位、天空の星の様に美しい夢の世界を想像させ色彩からの変化によって流れ広がり詩うプリズムの様にさえ感じ思わせ全身がサァーっとして感動的で胸も熱くなる時もあった。







この様な感動の数々を体感する旅人であれば、このラヴェンナに限らず少ない限られた時間で少しでも多くの芸術文化を鑑賞しようと思う心は常であろう。そこで、この美しいラヴェンナのモザイクと共にイタリア国内の史上で他の地域でのモザイクも忘れてはならない。それは当然、水の都、ヴェネツイア・S・Marco寺院そして南イタリア、シシリー島、パレルモ市のモンレアーレ教会のモザイクであろう。是非、鑑賞してほしい場所である。しかしこんな体験を幾度となく繰り返したにも係らず旅から帰国後、間もなく過ぎし旅を思い出すと、すぐにでも旅立ちたい程の意気込みに追い込まれるのである。こんな勝手な思いは自分だけの衝動なのであろうか。ヴェネツイア、ラヴェンナ、フィレンツェのみならずイタリア全土に広がる多くの貴重な世界遺産が我々を優しく呼んでいるからなのであろうか・・・?
さて、前回のコラムで少し紹介した町、イタリア中部アドリア海にやや近いウルヴィーノへ数年ぶりに訪れた、ウルヴィーノの町はイタリア、ルネッサンス期の若き美男の画家ラファエルロ・サンツウィォが生まれ育った町で14才まで生活をした生家が今も存在する事で有名だ。この町には12世紀以来、フェデリコ・ダ・モンテエフェルトロ公(1444〜82)の支配下にあり彼はすぐれた学識者で収集家、その全盛期には多くの芸術家たちを屁護した。この町の国立マルケ美術館には名画ピエロデルラ・フランチェスカのマドンナ等も有り館内は非常に広く、又内部の建築様式も美しく、中でもフェデリコ公の読書の部屋はボッティチェルリのデザインによる非常に美しい寄木細工の作品も飾られている。特に有名な名画はラファエルロの作(ラ・ムゥタ)だまっている女(婦人画)の名画は、当時レオナルド・ダ・ヴィンチの絵書いた名画(モナリザ)と競って絵画いた肖像画として有名である。

又この名画は1970年代に一度盗難事件に合ったことでも有名でそれが好運にしてイタリア国国境税関検問官の手によって、イタリア出国直前にその犯人が捕えられ、名画ラ・ムッタは無事にウルヴィーノの町に帰ってきたと云う。現在は名画へのセキュリティも厳重に整っていた。この様な事件に似た博物館等からの盗難事件の映画等を思い出す。
このウルヴィーノの町は全体が丘と斜面からなる地形を自然に利用した坂道が多くラファエルロの生家もその斜面に存在する。1483〜1520年、生家の中は2階建てでイタリアでは普通の家庭の様だが、ラファエルロの父も画家であった事から父の画室や絵も残されている。生家の斜面中程から後方の丘に登り切るとウルヴィーノ全体が一望できる。その周辺はルネッサンスの絵画に表現されている様なのどかで美しい牧歌的風景が展開し、その明るい若葉色は目に響き心なごむ思いがする。そして丘の頂上からの美風にも格別な現代の香りと味が聞こえるのであった。(2007・5月の旅から)
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2007年07月26日
Tから続く、
北イタリアから中部への旅行で、暫くぶりに世界でも名高い壁画、パドヴァ市内、スクロヴェニ教会の歴史的な38面からなる、巨大壁画を見る事になった。しかし、その鑑賞時間の変化には、あまりにも驚きであった!!それにはいろいろと理由がある。つまり、EU統合以前は見学の人々も少なく、ゆっくりと自由に見学が出来たはずが、この度は、わずか15分間の指定となっている事だった。我々はあまりにも少ない鑑賞時間には、ア然とした。しかも、そしてわずか3面程の壁画を鑑賞のみで教会内から出なければならなかった。数年前から見学者の時間が少なく設定される様になっていることも知らずであったが、壁画の内容に対する研究は、理解していたけれど、やはり原画を見てこそ、実物から受ける感動と共に、壁画の良さも受け止めることが出来るわけだ。この短時間の鑑賞時間指定に関しては、他国から訪れる芸術愛好者にとっては、不満の意見も存在している。
イタリアには、古代からの画法や技法による壁画や遺産が多く存在し、それらの特性を考慮すれば、それに対する管理状況も単純な事ではすまないであろう。イタリアでは国を挙げての歴史的遺産等の保護、そして、修復又は、新たな地下からの発見、発掘に多大なエネルギーと費用や神経を使っている事は並大抵ではないと聞いている。それら幅広く考えるならば、壁画鑑賞の短時間指定に個人的不満ばかりは、言っていられない気もする。歴史遺産への価値観とその保護に対しても、高い次元として認めなければならないと、改めて感じたりもした。
さて、次に今年5月の旅では、再々度にして、EUの子供達の美術館・博物館・教会美術等の鑑賞者が非常に多くて気になった。そこで、前々から何度かこのテーマで、EUの子供たちの美術館等鑑賞にかんしてコラムでも伝え、取り上げて来たにもかかわらず、今回の出会いは普段以上で何か異常にさえ感じるほど、子供たちの見学者が多かったので、その理由をイタリア政府観光局の通訳に尋ねて見る事にした。
その答えは次の様であった。丁度我々の旅行期間中と重なる5月11日からの10日間、イタリア政府の年間行事として年一回、イタリア全土に渡り国民と、特に子供達の為に、国内での自由な美術館鑑賞を提供していたのだった。又、この期間には特にイタリアのみならずEUの多くの国々からも鑑賞者が集っていた。又このような美術鑑賞の歴史はEUの国々でも古くから長い時間を掛けて子供達の美術鑑賞を推進して来た事実はすでに歴史的となっている。今さら云うまでもないがイタリアでは国として子供達への情操を高め、深めようとする目的でもあり、長年続けられている重要な行事でもある。
旅行中大都市外での地域に向かっても子供たちの鑑賞者が多くて驚いた程である。

バジリカ寺院 ラヴエンナ市
聖アポリナーレ・ヌオーヴォ内
ラヴエンナ市の世界遺産、教会内モザイクを
見学する小学生と先生、一部家族

ラヴエンナ市内
聖・アポリナーレ,クラッセの中から出た
中高生達。近くの町から来ていた。

ウルヴィーノ市
ラファエルロの生地で生家の中を見学
そして国立博の中では400年間イタリアの
外に出ていない名画、女性の肖像(ラ’ムウタ) 美人画を見た。
この名画はモナリザと競ったので有名

国立近代美術館入り口。
中はカメラが入れない。
生徒達は館内の説明で不足の部分を再度、
説明を受けていた。
僕は常々・・・1964年イタリアに留学してから今日まで43年間、この様な多くの子供達の動きをフランスでも見てきたのである。それたの重要性を今日も尚、多くの知人や友人に語り叫び続けている。この事こそ戦後の日本に一番不足していることであると・・・。
つまりは、情操教育である。未来を担える明るい希望を持って育ってえほしい子供達や若者達がその若い時代でなければ得られない物を必ず身体に蓄えた上で大人社会に飛んで欲しいものである。これこそ良き実現に不可欠な問題であると考えている。そして歴史や芸術の伝承へと深く繋ぎ掛けてもらいたいものだ!!
私がEU社会で未熟ながらも体感したこととして、これらの思いを強く強く噛み締めている。くり返しになるけれど、子供達が普段教室内で学ぶ事の出来ない多くの宝なる教育が課外学習等を通じ、どれ程に深い命として存在し、生きているのであるかをまさにEUの子供達は、人として、又必要な教育の一端として長い年月に渡り継続し継承しているのである。美術館、博物館、そして教会等の鑑賞は感性や、感覚、心の豊かさを養うと云う観点からEU諸国では非常に高い次元で受け止め如何に重要であるかを理解しているからであると共に情操教育の意義をも深く理解している点にもあると感じるのです。そこで、一方日本でも古くからの素晴らしい歴史、芸術文化が広く存在しているわけだから、それら多くを子供達の前でいつまでも眠らせておいてはならないのである。EUの子供達の様に日本の子供達の為にも、一刻も早く国を挙げてそれらの鑑賞、学習システムを作成し教育の中で楽しく伝承すべきである。これも今日の大人たちに架せられた最大の義務であり、又、共に推奨すべきでもある。
この尊重すべき精神は教育以前の問題としても基本的な点であると思い続け、その一時も早い実現を願い続けている一人なのである。
EU美術の旅を見て・・・・。 つづく
北イタリアから中部への旅行で、暫くぶりに世界でも名高い壁画、パドヴァ市内、スクロヴェニ教会の歴史的な38面からなる、巨大壁画を見る事になった。しかし、その鑑賞時間の変化には、あまりにも驚きであった!!それにはいろいろと理由がある。つまり、EU統合以前は見学の人々も少なく、ゆっくりと自由に見学が出来たはずが、この度は、わずか15分間の指定となっている事だった。我々はあまりにも少ない鑑賞時間には、ア然とした。しかも、そしてわずか3面程の壁画を鑑賞のみで教会内から出なければならなかった。数年前から見学者の時間が少なく設定される様になっていることも知らずであったが、壁画の内容に対する研究は、理解していたけれど、やはり原画を見てこそ、実物から受ける感動と共に、壁画の良さも受け止めることが出来るわけだ。この短時間の鑑賞時間指定に関しては、他国から訪れる芸術愛好者にとっては、不満の意見も存在している。
イタリアには、古代からの画法や技法による壁画や遺産が多く存在し、それらの特性を考慮すれば、それに対する管理状況も単純な事ではすまないであろう。イタリアでは国を挙げての歴史的遺産等の保護、そして、修復又は、新たな地下からの発見、発掘に多大なエネルギーと費用や神経を使っている事は並大抵ではないと聞いている。それら幅広く考えるならば、壁画鑑賞の短時間指定に個人的不満ばかりは、言っていられない気もする。歴史遺産への価値観とその保護に対しても、高い次元として認めなければならないと、改めて感じたりもした。
さて、次に今年5月の旅では、再々度にして、EUの子供達の美術館・博物館・教会美術等の鑑賞者が非常に多くて気になった。そこで、前々から何度かこのテーマで、EUの子供たちの美術館等鑑賞にかんしてコラムでも伝え、取り上げて来たにもかかわらず、今回の出会いは普段以上で何か異常にさえ感じるほど、子供たちの見学者が多かったので、その理由をイタリア政府観光局の通訳に尋ねて見る事にした。
その答えは次の様であった。丁度我々の旅行期間中と重なる5月11日からの10日間、イタリア政府の年間行事として年一回、イタリア全土に渡り国民と、特に子供達の為に、国内での自由な美術館鑑賞を提供していたのだった。又、この期間には特にイタリアのみならずEUの多くの国々からも鑑賞者が集っていた。又このような美術鑑賞の歴史はEUの国々でも古くから長い時間を掛けて子供達の美術鑑賞を推進して来た事実はすでに歴史的となっている。今さら云うまでもないがイタリアでは国として子供達への情操を高め、深めようとする目的でもあり、長年続けられている重要な行事でもある。
旅行中大都市外での地域に向かっても子供たちの鑑賞者が多くて驚いた程である。

バジリカ寺院 ラヴエンナ市
聖アポリナーレ・ヌオーヴォ内
ラヴエンナ市の世界遺産、教会内モザイクを
見学する小学生と先生、一部家族

ラヴエンナ市内
聖・アポリナーレ,クラッセの中から出た
中高生達。近くの町から来ていた。

ウルヴィーノ市
ラファエルロの生地で生家の中を見学
そして国立博の中では400年間イタリアの
外に出ていない名画、女性の肖像(ラ’ムウタ) 美人画を見た。
この名画はモナリザと競ったので有名

国立近代美術館入り口。
中はカメラが入れない。
生徒達は館内の説明で不足の部分を再度、
説明を受けていた。
僕は常々・・・1964年イタリアに留学してから今日まで43年間、この様な多くの子供達の動きをフランスでも見てきたのである。それたの重要性を今日も尚、多くの知人や友人に語り叫び続けている。この事こそ戦後の日本に一番不足していることであると・・・。
つまりは、情操教育である。未来を担える明るい希望を持って育ってえほしい子供達や若者達がその若い時代でなければ得られない物を必ず身体に蓄えた上で大人社会に飛んで欲しいものである。これこそ良き実現に不可欠な問題であると考えている。そして歴史や芸術の伝承へと深く繋ぎ掛けてもらいたいものだ!!
私がEU社会で未熟ながらも体感したこととして、これらの思いを強く強く噛み締めている。くり返しになるけれど、子供達が普段教室内で学ぶ事の出来ない多くの宝なる教育が課外学習等を通じ、どれ程に深い命として存在し、生きているのであるかをまさにEUの子供達は、人として、又必要な教育の一端として長い年月に渡り継続し継承しているのである。美術館、博物館、そして教会等の鑑賞は感性や、感覚、心の豊かさを養うと云う観点からEU諸国では非常に高い次元で受け止め如何に重要であるかを理解しているからであると共に情操教育の意義をも深く理解している点にもあると感じるのです。そこで、一方日本でも古くからの素晴らしい歴史、芸術文化が広く存在しているわけだから、それら多くを子供達の前でいつまでも眠らせておいてはならないのである。EUの子供達の様に日本の子供達の為にも、一刻も早く国を挙げてそれらの鑑賞、学習システムを作成し教育の中で楽しく伝承すべきである。これも今日の大人たちに架せられた最大の義務であり、又、共に推奨すべきでもある。
この尊重すべき精神は教育以前の問題としても基本的な点であると思い続け、その一時も早い実現を願い続けている一人なのである。
EU美術の旅を見て・・・・。 つづく
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2007年07月10日
さて、コラム前回までには1964年以後のイタリア生活日記の記憶をもとに出来る限り正確に物事を伝える意味から、多くの人々との出会いや体験等を未熟ながら自分なりに話して来たと思う。それもすでに50回以上になる。
そこで、この度はイタリアの近況を自分なりに伝え話して見ようと思うのです。私事、2004年には今まで数十年の間イタリア生活をローマで過ごしたり、学んだり暮らしたりしていた家を手放すことになり自分にとっては大きな出来事であった。と、言ってもローマから特別遠ざかったと云う訳ではないが、しばらくの間は言葉では表現出来ない程内面的には淋しい思いが続いていた。それだけにローマを忘れると言う事は断じてありあないけれど長いイタリア生活は命ある限り自分の人生の中に強く残り続けると感じているし、これからも創造への詩や形に刻み続け、印象づけてゆく思いでいる。
又、自分なりの思いとしてはイタリア・ローマ程世界で古代から現代が途切れなく良く語り続け見える都市はめずらしいとさえ思う・・・。
現在のローマに自分の住家が存在しなくても、やはりローマは僕にとって第2の故郷で大切な尊い都なのである。自分にとってそのローマは子供の頃父や母の傍に寄り添ってその親からの何か匂いを感じる様な何とも言えない暖かい喜びがあり嬉しく心和む所なのでもある。
今年春に家内と帰って見て5月に再度イタリア入りをした。しばらく振りに北イタリアからローマまで自由な旅を続け古い時代の思い出の地と深い会話をかわして見た。その旅の中で今日のイタリアの変化振りを俗に感じさせられた。その一つには云うまでもなく特にE.U.統合による変化であろう。E.U.統合に去る個々の国々等のプロセスは語りきれるものではないけれど政治、社会、経済、物流等と共に人々の移動も驚く等と云うものではない。異常にさえ感じたのである。
僕は特に1964年代からのイタリアを知っているだけにその変動には本当に驚いた。いわゆるE.U統合を望んでいた多くの国々や人々にとっての受け止め方はつまり、ヨーロッパが突然変化すべき事は変化し実現して行くべくと云うわけで非常に長い年月を掛けて論じ合って結論を出した結果なのである。統合には大きな目標や目的に向かって国々が大きなうねりの中でいち早く目に見えた事はやはり文化的交流でありここ数年を見ていると統合以前以上に異状と云う程の早さと勢いが見えるのである。
それらの動きによってE.U.経済にも現れている様に見える。特にイタリアは芸術文化を持つ観光都市が多い為、その現実を市民がもろに感じているように見えた。
一例として世界の文化遺産の70%以上を持つイタリアの国はE.U.統合による通貨の自由化が伴う中、その利便性か高まりより以上物流や人々の流れの拡大からなる経済の発展も非常に大なるものがあると云う。しかし今日から見るとE.U.物価の上昇には個人的に受ける影響は大きく少々残念でもある。とにかく全イタリアや国内に広く分布する多くの世界遺産と美しく明るい太陽の国を「目ざし」統合を良しとして待ちわびていた多くの国々から我も我もと訪れるのである。統合以前でも美術や遺産、遺跡等の鑑賞者としての旅人が多い国であったのに、今日はより以上北から南まで人の波なのである。
ところで随所が混雑混乱の状態なのである。この状態はいつ何時まで続くかは誰に尋ねても答えが出るものではないのである。例えば、北イタリアのミラノ市内にある、レオナルド・ダヴィンチの壁画(最後の晩餐)見学の際は統合以前はほとんど自由に見学出来たにもかかわらず今日は非常におおげさと思われる程、世界からの入場者の波で異状だ!信じられない。唖然とするのである。一つには昨年来世界を騒がせた「ダヴィンチ・コード」や映画等による影響も本当にバカバカしい程にさえ感じる異状さだ!それから先に話した遺産見学の目的がある人々がすべてとは云わなくても・・・
広く鑑賞の範囲を広める為でも混乱の原因になるのである。イタリア文化庁の係官も知恵を絞ってはいると聞くけれど鑑賞者が殺到するに対してはまだまだ良好な大作が出ていないのである。
さて、その混雑に伴いもう数年前から続いている予約とその上、場所によっては特別に予約金まで先取りするという現状での整理に当たっている。世界の主な遺産を持つイタリアの地域や、国としても喜ばしい悲鳴かもしれないけれど遠い国日本から行く見学鑑賞者に取って見学出来ない人々も多々あるので、今後の旅行者にも、非常に大きな無念材料として避けて通れない問題でもある。素晴らしい歴史的作品を一日も早く望み通りに鑑賞できる事を祈りたいものである。つづく
そこで、この度はイタリアの近況を自分なりに伝え話して見ようと思うのです。私事、2004年には今まで数十年の間イタリア生活をローマで過ごしたり、学んだり暮らしたりしていた家を手放すことになり自分にとっては大きな出来事であった。と、言ってもローマから特別遠ざかったと云う訳ではないが、しばらくの間は言葉では表現出来ない程内面的には淋しい思いが続いていた。それだけにローマを忘れると言う事は断じてありあないけれど長いイタリア生活は命ある限り自分の人生の中に強く残り続けると感じているし、これからも創造への詩や形に刻み続け、印象づけてゆく思いでいる。
又、自分なりの思いとしてはイタリア・ローマ程世界で古代から現代が途切れなく良く語り続け見える都市はめずらしいとさえ思う・・・。
現在のローマに自分の住家が存在しなくても、やはりローマは僕にとって第2の故郷で大切な尊い都なのである。自分にとってそのローマは子供の頃父や母の傍に寄り添ってその親からの何か匂いを感じる様な何とも言えない暖かい喜びがあり嬉しく心和む所なのでもある。
今年春に家内と帰って見て5月に再度イタリア入りをした。しばらく振りに北イタリアからローマまで自由な旅を続け古い時代の思い出の地と深い会話をかわして見た。その旅の中で今日のイタリアの変化振りを俗に感じさせられた。その一つには云うまでもなく特にE.U.統合による変化であろう。E.U.統合に去る個々の国々等のプロセスは語りきれるものではないけれど政治、社会、経済、物流等と共に人々の移動も驚く等と云うものではない。異常にさえ感じたのである。
僕は特に1964年代からのイタリアを知っているだけにその変動には本当に驚いた。いわゆるE.U統合を望んでいた多くの国々や人々にとっての受け止め方はつまり、ヨーロッパが突然変化すべき事は変化し実現して行くべくと云うわけで非常に長い年月を掛けて論じ合って結論を出した結果なのである。統合には大きな目標や目的に向かって国々が大きなうねりの中でいち早く目に見えた事はやはり文化的交流でありここ数年を見ていると統合以前以上に異状と云う程の早さと勢いが見えるのである。
それらの動きによってE.U.経済にも現れている様に見える。特にイタリアは芸術文化を持つ観光都市が多い為、その現実を市民がもろに感じているように見えた。
一例として世界の文化遺産の70%以上を持つイタリアの国はE.U.統合による通貨の自由化が伴う中、その利便性か高まりより以上物流や人々の流れの拡大からなる経済の発展も非常に大なるものがあると云う。しかし今日から見るとE.U.物価の上昇には個人的に受ける影響は大きく少々残念でもある。とにかく全イタリアや国内に広く分布する多くの世界遺産と美しく明るい太陽の国を「目ざし」統合を良しとして待ちわびていた多くの国々から我も我もと訪れるのである。統合以前でも美術や遺産、遺跡等の鑑賞者としての旅人が多い国であったのに、今日はより以上北から南まで人の波なのである。
ところで随所が混雑混乱の状態なのである。この状態はいつ何時まで続くかは誰に尋ねても答えが出るものではないのである。例えば、北イタリアのミラノ市内にある、レオナルド・ダヴィンチの壁画(最後の晩餐)見学の際は統合以前はほとんど自由に見学出来たにもかかわらず今日は非常におおげさと思われる程、世界からの入場者の波で異状だ!信じられない。唖然とするのである。一つには昨年来世界を騒がせた「ダヴィンチ・コード」や映画等による影響も本当にバカバカしい程にさえ感じる異状さだ!それから先に話した遺産見学の目的がある人々がすべてとは云わなくても・・・
広く鑑賞の範囲を広める為でも混乱の原因になるのである。イタリア文化庁の係官も知恵を絞ってはいると聞くけれど鑑賞者が殺到するに対してはまだまだ良好な大作が出ていないのである。
さて、その混雑に伴いもう数年前から続いている予約とその上、場所によっては特別に予約金まで先取りするという現状での整理に当たっている。世界の主な遺産を持つイタリアの地域や、国としても喜ばしい悲鳴かもしれないけれど遠い国日本から行く見学鑑賞者に取って見学出来ない人々も多々あるので、今後の旅行者にも、非常に大きな無念材料として避けて通れない問題でもある。素晴らしい歴史的作品を一日も早く望み通りに鑑賞できる事を祈りたいものである。つづく
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2007年06月15日
ローマの生活で僕が一番多忙にすごしていた頃の出来事等はすでにコラムで何度も紹介させて戴いた。しかしその当時で、もうひとつ特別の思い出がある。
それは四年生に入った頃から本当に毎日が多忙な日課に追われる。午前中は学校での実技、そして卒業制作、午後は美術史や他の課目、夜は卒業論文、又、週3回程は必ずファツッイニ教授のアトリエで木彫大作「il.SOLCO」(写真)レリーフの手伝い、4m×7m、その頃の或る日、教授のstudio(アトリエ)に行くとciro君(友人)が先に来ていた。

そして彼は突然言った!今日これからstudioに前アメリカ合衆国大統領夫人、ジャクリン.ケネディさんが訪問されるよ!と言うのである。僕は今まで何も知らなかったので大変に驚いた。何だか少しビクビクさえしていた。他の友人も木彫の手伝いには手付かずそわそわしているようにも見えた。
そうこうしている内に、僕がsutudioの外に出て遠くの先を見ると、テヴエレ川辺リープラタナス並木の下をジャクリン夫人とお話ししながら教授がゆっくりこちらに向かってこられるのを見た。僕はあわてふためいてstudioに飛び込み皆に知らせ、ご婦人の顔も見えたよ!キリッとした知的な美人だ・・・と皆も焦り出し我々はどうしよう・・・と慌しくなり、そこで少しの時間だろうから木彫大作レリーフの後方(裏)に隠れていようと云う事になる。まるでワンパク少年の様に小さくなり息を静めていたつもりが教授にはお見通しであった。
先生はジャクリン夫人に作品等の詳細を説明されていた。後、再度出掛けられる様子がわかり我々は木彫レリーフの裏から出てペコペコとご挨拶をして一時の間ジャクリン夫人とお会い出来た。その後どこかに向かわれた。皆は暫くの間なぜか言葉が出なかった。少し落ち着いて見ると僕たちはご夫人にお会いしたことで相当に興奮していたことに気付いた。ジャクリン夫人はキリッとされ、やはり美し非常に聡明な方に感じた。自分たちの身の回りにもキリッと、緊張が走るような印象さえ感じていた。
僕はその後、前大統領夫人とファツッイニ教授がなぜ知り合いなのか疑問が残り、それなりに尋ねてみた。それはつまり教授がローマ国立美術学校の教授以前は、フィレンツエの美術学校で単身勤められていた。その期間での学生の一人がジャクリンさんであったのです。その後ジャクリンさんは結婚され前大統領夫人となられた。ファツッイニ教授はジャクリン夫人にとって恩師であったのだ。
その様なことからJ.K夫人は大統領が亡くなられた後に前大統領の記念像的、モニュメントをを先生に依頼されたのであった。(写真石膏形)

前夫人はそのモニュメントの原形等を拝見する為ローマ入り、訪問されたという事なのであった。その石膏原形モニュメントは高さ約7m程もあろか・・・。
そこで普通肖像と云うと、立像とか胸像等の像を想像するけれども、先生の考えられた前k.大統領モニュメントのイメージは僕たちが想像するイメージとは全く違ったもので飛躍的なフォルムで表現されたユニークな形体表現となり常に美しくその形体が空間から天空へと登り伸び立つ様に動きながら広がって行く前ケネディ大統領の肖像(胸の部分が空間に浮かび上がって見える、シルエット造形として見える様に表現されている。
僕はその表現力と云い、フォルムが非常に素晴らしく、見事な美力を感じ、そしてその美しさに感動、感激するばかりであった。おそらく思うに前大統領は当時(1961年〜2年)頃は少々混迷しつつあったアメリカ合衆国政治や国際社会に対しもっとも強い平和を希望されていたと・・・その様な心情を教授は天を仰ぐ空間として想像され表現されたのであろうかと、勝手に思ったりもしてその原形に深く見入っていた。おわり
それは四年生に入った頃から本当に毎日が多忙な日課に追われる。午前中は学校での実技、そして卒業制作、午後は美術史や他の課目、夜は卒業論文、又、週3回程は必ずファツッイニ教授のアトリエで木彫大作「il.SOLCO」(写真)レリーフの手伝い、4m×7m、その頃の或る日、教授のstudio(アトリエ)に行くとciro君(友人)が先に来ていた。

そして彼は突然言った!今日これからstudioに前アメリカ合衆国大統領夫人、ジャクリン.ケネディさんが訪問されるよ!と言うのである。僕は今まで何も知らなかったので大変に驚いた。何だか少しビクビクさえしていた。他の友人も木彫の手伝いには手付かずそわそわしているようにも見えた。
そうこうしている内に、僕がsutudioの外に出て遠くの先を見ると、テヴエレ川辺リープラタナス並木の下をジャクリン夫人とお話ししながら教授がゆっくりこちらに向かってこられるのを見た。僕はあわてふためいてstudioに飛び込み皆に知らせ、ご婦人の顔も見えたよ!キリッとした知的な美人だ・・・と皆も焦り出し我々はどうしよう・・・と慌しくなり、そこで少しの時間だろうから木彫大作レリーフの後方(裏)に隠れていようと云う事になる。まるでワンパク少年の様に小さくなり息を静めていたつもりが教授にはお見通しであった。
先生はジャクリン夫人に作品等の詳細を説明されていた。後、再度出掛けられる様子がわかり我々は木彫レリーフの裏から出てペコペコとご挨拶をして一時の間ジャクリン夫人とお会い出来た。その後どこかに向かわれた。皆は暫くの間なぜか言葉が出なかった。少し落ち着いて見ると僕たちはご夫人にお会いしたことで相当に興奮していたことに気付いた。ジャクリン夫人はキリッとされ、やはり美し非常に聡明な方に感じた。自分たちの身の回りにもキリッと、緊張が走るような印象さえ感じていた。
僕はその後、前大統領夫人とファツッイニ教授がなぜ知り合いなのか疑問が残り、それなりに尋ねてみた。それはつまり教授がローマ国立美術学校の教授以前は、フィレンツエの美術学校で単身勤められていた。その期間での学生の一人がジャクリンさんであったのです。その後ジャクリンさんは結婚され前大統領夫人となられた。ファツッイニ教授はジャクリン夫人にとって恩師であったのだ。
その様なことからJ.K夫人は大統領が亡くなられた後に前大統領の記念像的、モニュメントをを先生に依頼されたのであった。(写真石膏形)

前夫人はそのモニュメントの原形等を拝見する為ローマ入り、訪問されたという事なのであった。その石膏原形モニュメントは高さ約7m程もあろか・・・。
そこで普通肖像と云うと、立像とか胸像等の像を想像するけれども、先生の考えられた前k.大統領モニュメントのイメージは僕たちが想像するイメージとは全く違ったもので飛躍的なフォルムで表現されたユニークな形体表現となり常に美しくその形体が空間から天空へと登り伸び立つ様に動きながら広がって行く前ケネディ大統領の肖像(胸の部分が空間に浮かび上がって見える、シルエット造形として見える様に表現されている。
僕はその表現力と云い、フォルムが非常に素晴らしく、見事な美力を感じ、そしてその美しさに感動、感激するばかりであった。おそらく思うに前大統領は当時(1961年〜2年)頃は少々混迷しつつあったアメリカ合衆国政治や国際社会に対しもっとも強い平和を希望されていたと・・・その様な心情を教授は天を仰ぐ空間として想像され表現されたのであろうかと、勝手に思ったりもしてその原形に深く見入っていた。おわり
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2007年04月19日
イタリア在日本大使館より連絡があり日本の京都市代表の方がフィレンツェ市を訪問されるとの事、その通訳をお願いしたいであった。京都市とは歴史的にも地形的にも非常に良く似ている事からすでに姉妹都市契約は締結されている。その一貫として京都市の代表者が再度訪問され、日本の花である「桜の木」を100本贈られると云う事なのである。
さて、1967年春、イタリア、フィレンツェ市、市役所を訪問する事になった。その場所は世界遺産で有名なフィレンツェの中心広場に面する「パラッツオ・ヴェツキィオ宮」1299年から1314年頃の優美な建築、その中の一室がフィレンツェ市長室である。そこを尋ねた。
市長室は30畳程であろうか中が広く渋い雰囲気の木造の内部で古い時代の装飾がなされ少々薄暗い気もするが素朴で暖かい感じもした。市長にお会いし京都市からの
贈り物「日本の桜」の伝言をした。市長は大変に喜ばれていた。そして感謝の言葉も述べられた。その他のお話もするなか、フィレンツェ市長Y氏は非常に気品の良いルネッサンスの絵画に出て来る様な人柄に感じる方であった。ご多忙な方なので多くの時間の会話は出来なかったものの前記、桜を寄贈、そして姉妹都市の証としての話し合い、ご挨拶等で両市代表の会話は終わった。
さて、この度の少ない時間でフィレンツェ市長室内、側面壁に珍しい、自分なりには信じられない程の絵画を見てしまったのである。高1m50cm〜巾2mでその絵画の印象を少し話してみようと思う。実は市長室を訪問するのでおそらく部屋にはそれ相当の装飾品もある等と特別な想像もあったし拝見した絵画も相当市長室にとって意味のある歴史的な絵画かも知れぬ。そういう概念や印象もうかつだったが・・・しかし僕の個人的で未熟な見方であるかも知れぬけれどその絵画はおそらくフィレンツェがまだルネッサンスの開花時代を迎える以前の時代のつまり中世後期の絵がかれたように感じていた。
絵の内部はフィレンツェを城壁が囲み、旧市内の風景が表現され、城壁の外回りには鎧姿の兵士たちを素朴な表情として絵描かれ全体的には城壁内側と外側がバランス良く、回りの山々や丘等もややリアルに表現されている。僕はその中の兵士達の行動には特別興味を感じた。それは一目ユーモアにも見えるものであり、また絵画の内容から勘案すると、中世時代はフィレンツェや他の近隣都市等が幾度もの戦った歴史があり、その戦いに挑む兵士たちがおそらく各々の体調を整える為か、又戦う前には身体を軽くし自由な活動状態にする必要があったのだろうか・・・。絵の中の兵士が何人も城壁周辺外側草叢等で排泄を済ませている場面がこれまたリアルに絵描かれており、大変な驚きであったしなんとも異常にさえ感じるのは僕だけではなかろうと思う。しかし又なぜこの絵画がフィレンツェ市長室に存在すると云う現実が奇妙でもあり疑問でたまらなかった。その日、その絵画の存在理由を知りたかったのだけれどY市長とは初対面と云う立場でもあり又ご多忙ともあられたのでお尋ねする事が出来ず心残りであった。残念ながらその珍しい絵画(奇妙な)は作者も題名も知られておらず又、写真も手に入らず説明する事すら困難苦慮するところなのである。しかし機会があれば再度あの絵画を見てその内容の解明等研究してみたいと思っている。
京都市とフィレンツェ市の通訳がきっかけで市長室訪問、そして風変わりな絵画との出会い、自分なりに楽しい体験をしたと思っている。その夜は京都市代表の方々と共にフィレンツェの歴史的とまではいかないが料理を美味しく味わい楽しむことも出来た。満腹満足であった。フィレンツェ料理の話は次の機会にしようと思っている。
そして後日には、市の役人と記念桜が植樹される場所(ポンテエ、サン・ニコロ橋)の下手、アルノ川縁りを確認視察した。それ以後、数十年の歳月が過ぎフィレンツェ、アルノ川縁り、日本生まれの桜は毎年美しい花を咲かせていると云う報告は聞いている。しかしフィレンツェ市には幾度となく訪れているけれど未だに明るい太陽の下でその美しい桜の姿との出会いに恵まれる機会がないのである。
さて、1967年春、イタリア、フィレンツェ市、市役所を訪問する事になった。その場所は世界遺産で有名なフィレンツェの中心広場に面する「パラッツオ・ヴェツキィオ宮」1299年から1314年頃の優美な建築、その中の一室がフィレンツェ市長室である。そこを尋ねた。
市長室は30畳程であろうか中が広く渋い雰囲気の木造の内部で古い時代の装飾がなされ少々薄暗い気もするが素朴で暖かい感じもした。市長にお会いし京都市からの
贈り物「日本の桜」の伝言をした。市長は大変に喜ばれていた。そして感謝の言葉も述べられた。その他のお話もするなか、フィレンツェ市長Y氏は非常に気品の良いルネッサンスの絵画に出て来る様な人柄に感じる方であった。ご多忙な方なので多くの時間の会話は出来なかったものの前記、桜を寄贈、そして姉妹都市の証としての話し合い、ご挨拶等で両市代表の会話は終わった。
さて、この度の少ない時間でフィレンツェ市長室内、側面壁に珍しい、自分なりには信じられない程の絵画を見てしまったのである。高1m50cm〜巾2mでその絵画の印象を少し話してみようと思う。実は市長室を訪問するのでおそらく部屋にはそれ相当の装飾品もある等と特別な想像もあったし拝見した絵画も相当市長室にとって意味のある歴史的な絵画かも知れぬ。そういう概念や印象もうかつだったが・・・しかし僕の個人的で未熟な見方であるかも知れぬけれどその絵画はおそらくフィレンツェがまだルネッサンスの開花時代を迎える以前の時代のつまり中世後期の絵がかれたように感じていた。
絵の内部はフィレンツェを城壁が囲み、旧市内の風景が表現され、城壁の外回りには鎧姿の兵士たちを素朴な表情として絵描かれ全体的には城壁内側と外側がバランス良く、回りの山々や丘等もややリアルに表現されている。僕はその中の兵士達の行動には特別興味を感じた。それは一目ユーモアにも見えるものであり、また絵画の内容から勘案すると、中世時代はフィレンツェや他の近隣都市等が幾度もの戦った歴史があり、その戦いに挑む兵士たちがおそらく各々の体調を整える為か、又戦う前には身体を軽くし自由な活動状態にする必要があったのだろうか・・・。絵の中の兵士が何人も城壁周辺外側草叢等で排泄を済ませている場面がこれまたリアルに絵描かれており、大変な驚きであったしなんとも異常にさえ感じるのは僕だけではなかろうと思う。しかし又なぜこの絵画がフィレンツェ市長室に存在すると云う現実が奇妙でもあり疑問でたまらなかった。その日、その絵画の存在理由を知りたかったのだけれどY市長とは初対面と云う立場でもあり又ご多忙ともあられたのでお尋ねする事が出来ず心残りであった。残念ながらその珍しい絵画(奇妙な)は作者も題名も知られておらず又、写真も手に入らず説明する事すら困難苦慮するところなのである。しかし機会があれば再度あの絵画を見てその内容の解明等研究してみたいと思っている。
京都市とフィレンツェ市の通訳がきっかけで市長室訪問、そして風変わりな絵画との出会い、自分なりに楽しい体験をしたと思っている。その夜は京都市代表の方々と共にフィレンツェの歴史的とまではいかないが料理を美味しく味わい楽しむことも出来た。満腹満足であった。フィレンツェ料理の話は次の機会にしようと思っている。
そして後日には、市の役人と記念桜が植樹される場所(ポンテエ、サン・ニコロ橋)の下手、アルノ川縁りを確認視察した。それ以後、数十年の歳月が過ぎフィレンツェ、アルノ川縁り、日本生まれの桜は毎年美しい花を咲かせていると云う報告は聞いている。しかしフィレンツェ市には幾度となく訪れているけれど未だに明るい太陽の下でその美しい桜の姿との出会いに恵まれる機会がないのである。
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2007年04月05日
又も親しい日本の知人からの紹介で、シャンソン歌手越路吹雪さんご夫妻とお会いすることになった。有名な方なのでお名前は存じ上げていたが、お会いするのは初めてなので興奮していた。お会いして見ると、とっても美人で明るく、しかも魅力的な方に感じた。また、越路さんのご主人で、作曲家の内藤法美氏はとても静かな優しい人柄が表に出ている様な方でほっとした。
僕の様な者がいろいろな方々にお会いする度に感じるのは、自身が未熟なだけに何かに付け教えて戴き学ぶことが多いのでその度ごとに嬉しくなるのである。この日も勝手ながらシャンソン歌手の方とはどの様な方でどの様な路を歩まれているのであろうかナァ等と考えたり想像もしている。ご本人が目の前なので一度お聞きしてみようかなァ等と又も思ったりもしたが、そうも行かないのであった。しかし、失礼かと思うけれど、それなりに想像するも楽しい。
さて、この日は特にご夫妻のお手伝いする目的はなかったが少々のお話をお聞きしたりであった。丁度同じ週末には、ローマ法王ヴァチカン市国の重要な行事である、道行きの祈りが行われる事をご夫妻にお話していた。するとご夫妻はどうにかしてそのローマ法王のお祈りを拝見して見たいけれど・・とおっしゃる。突然なので僕も一瞬戸惑った。
一般的には普通の市民と共に混じってコロッセェオ西の広場で拝見する事は出来るものの、僕は以前にそのお祈りに参加させてもらった事を思い出した。法王様のすぐ近くでと考えて見た。越路夫妻も何とかならないかと思い、以前学生時代にお世話になった下宿、古代ローマ発祥地で七つの丘の一つ、AL.PALATINO.S.Bonaventura教会と修院を思い出した。そしてその教会の十字架が法王様の祈りに使われていた事も思い出したので急いで教会のP.マンチネッティ院長に電話してみた。
「日本からの有名なシャンソン歌手の方を何とか法王様の祈りに出席させて戴けないものでしょうか」とお願いしてみた。すると院長は気遣ってくださったのか、ヴァチカン法王庁へ連絡された後に越路さんご夫妻をご招待して下さることになったのだ。ご夫妻にその旨をお知らせすると感激され大そう喜ばれたので僕も何だか嬉しかった事を覚えている。
当日夕刻、コロッセェオでの儀式が高台(古代ローマ遺跡、ヴィナスとローマ神殿跡)がその祈りの場所となっていてコロッセェオが逆に目の前となる。右にはコンスタンティノ凱旋門、右手前下には聖なる道と先にはティトの凱旋門も見える。会場でご夫妻を案内すると越路さんご夫妻の席はなんとローマ法王様のお祈りの祭壇のやや正面に近く各国の来賓席と同じ最高の席を準備されていたので驚いたほどであった。

正面コロッセェオの上面に10本程の石柱右の広場が高台でローマ法王の祈りを捧げる場所
この道行きの祈りの由来は又も古代ローマ時代にさかのぼる。つまり、D.C72年〜80年頃、皇帝ヴェスパスティアヌスが落成した円形場で古代三様式建築の傑作である。当時コロッセェオで行われた人と動物の闘技、剣闘士の決闘等で数多くの命が失われた悲惨で歴史的な場所である。法王はそれらの歴史的痛みを思いキリストが受難への道で十字架を背負いカルワリオの丘に登ったとされる際の様々な苦しみの場面を重ね合わせて祈ることを「道行きの祈り」と伝えられて来た。パウロ六世が市民と共に祈りを捧げるのである。
夕暮れ頃から約二時間近くの深い祈りはまさに人の想像を超える神秘と幻想的な世界に包まれる思いだ。コロッセェオ周辺道路は通行止めとなり、凱旋門までの道と広場は人の波で動けなくなる程である。しかし、静まり返った雰囲気の中で行われる祈りの各所には1本づつの明かりと祭壇の神秘な光とが調和する中、ローマの市民や地方からの信徒とが心魂一体の祈りは更に美しく感じたものである。この度の儀式に参列された越路さんご夫妻らとローマ法王の祈りとは何か特別な出逢いであった事にご本人も大変な感激振りでご満足されていた。その時の越路さんの目の輝きは実に美しく見えていた。
後日お会いしていろいろとお話もし、それでは又、日本でお逢いしましょうとおっしゃりお別れをした。月日が流れ自分が一時帰国した際には東京日生劇場にご招待いただいた。僕はイタリアオペラはそれなりに劇場にも通ったし少しは理解しているつもり・・・しかしシャンソンは全くの初の経験なので楽しみであった。そして日生劇場舞台の越路さんを拝見することが出来た。それはとっても甘い音としなやかに波のような曲線の動きは実に魅力的だったし、可憐でまるで宇宙の流れ星を見るごとき見事で深く魅了していた。素晴らしい良い時を過ごさせていただいたことも忘れない。舞台のすぐ後にご夫妻とお会いしご挨拶とお礼をした時の越路吹雪さんのやさしく輝いた目と笑顔の美しい姿は心の記憶から今も離れていない。(古きローマの思い出から)

僕の様な者がいろいろな方々にお会いする度に感じるのは、自身が未熟なだけに何かに付け教えて戴き学ぶことが多いのでその度ごとに嬉しくなるのである。この日も勝手ながらシャンソン歌手の方とはどの様な方でどの様な路を歩まれているのであろうかナァ等と考えたり想像もしている。ご本人が目の前なので一度お聞きしてみようかなァ等と又も思ったりもしたが、そうも行かないのであった。しかし、失礼かと思うけれど、それなりに想像するも楽しい。
さて、この日は特にご夫妻のお手伝いする目的はなかったが少々のお話をお聞きしたりであった。丁度同じ週末には、ローマ法王ヴァチカン市国の重要な行事である、道行きの祈りが行われる事をご夫妻にお話していた。するとご夫妻はどうにかしてそのローマ法王のお祈りを拝見して見たいけれど・・とおっしゃる。突然なので僕も一瞬戸惑った。
一般的には普通の市民と共に混じってコロッセェオ西の広場で拝見する事は出来るものの、僕は以前にそのお祈りに参加させてもらった事を思い出した。法王様のすぐ近くでと考えて見た。越路夫妻も何とかならないかと思い、以前学生時代にお世話になった下宿、古代ローマ発祥地で七つの丘の一つ、AL.PALATINO.S.Bonaventura教会と修院を思い出した。そしてその教会の十字架が法王様の祈りに使われていた事も思い出したので急いで教会のP.マンチネッティ院長に電話してみた。
「日本からの有名なシャンソン歌手の方を何とか法王様の祈りに出席させて戴けないものでしょうか」とお願いしてみた。すると院長は気遣ってくださったのか、ヴァチカン法王庁へ連絡された後に越路さんご夫妻をご招待して下さることになったのだ。ご夫妻にその旨をお知らせすると感激され大そう喜ばれたので僕も何だか嬉しかった事を覚えている。
当日夕刻、コロッセェオでの儀式が高台(古代ローマ遺跡、ヴィナスとローマ神殿跡)がその祈りの場所となっていてコロッセェオが逆に目の前となる。右にはコンスタンティノ凱旋門、右手前下には聖なる道と先にはティトの凱旋門も見える。会場でご夫妻を案内すると越路さんご夫妻の席はなんとローマ法王様のお祈りの祭壇のやや正面に近く各国の来賓席と同じ最高の席を準備されていたので驚いたほどであった。

正面コロッセェオの上面に10本程の石柱右の広場が高台でローマ法王の祈りを捧げる場所
この道行きの祈りの由来は又も古代ローマ時代にさかのぼる。つまり、D.C72年〜80年頃、皇帝ヴェスパスティアヌスが落成した円形場で古代三様式建築の傑作である。当時コロッセェオで行われた人と動物の闘技、剣闘士の決闘等で数多くの命が失われた悲惨で歴史的な場所である。法王はそれらの歴史的痛みを思いキリストが受難への道で十字架を背負いカルワリオの丘に登ったとされる際の様々な苦しみの場面を重ね合わせて祈ることを「道行きの祈り」と伝えられて来た。パウロ六世が市民と共に祈りを捧げるのである。
夕暮れ頃から約二時間近くの深い祈りはまさに人の想像を超える神秘と幻想的な世界に包まれる思いだ。コロッセェオ周辺道路は通行止めとなり、凱旋門までの道と広場は人の波で動けなくなる程である。しかし、静まり返った雰囲気の中で行われる祈りの各所には1本づつの明かりと祭壇の神秘な光とが調和する中、ローマの市民や地方からの信徒とが心魂一体の祈りは更に美しく感じたものである。この度の儀式に参列された越路さんご夫妻らとローマ法王の祈りとは何か特別な出逢いであった事にご本人も大変な感激振りでご満足されていた。その時の越路さんの目の輝きは実に美しく見えていた。
後日お会いしていろいろとお話もし、それでは又、日本でお逢いしましょうとおっしゃりお別れをした。月日が流れ自分が一時帰国した際には東京日生劇場にご招待いただいた。僕はイタリアオペラはそれなりに劇場にも通ったし少しは理解しているつもり・・・しかしシャンソンは全くの初の経験なので楽しみであった。そして日生劇場舞台の越路さんを拝見することが出来た。それはとっても甘い音としなやかに波のような曲線の動きは実に魅力的だったし、可憐でまるで宇宙の流れ星を見るごとき見事で深く魅了していた。素晴らしい良い時を過ごさせていただいたことも忘れない。舞台のすぐ後にご夫妻とお会いしご挨拶とお礼をした時の越路吹雪さんのやさしく輝いた目と笑顔の美しい姿は心の記憶から今も離れていない。(古きローマの思い出から)

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2007年03月22日
日本原子力委員会理事2名がローマを訪門され、イタリア政府原発を視察されると云う。その通訳をお願いしたいとの依頼を在日本大使館より受けた。重要な通訳と思うと責任感から緊張もした。
その方々の目的はヨーロッパ各地を視察されてのローマ入りでイタリア原発の現状把握等で2日間の予定となっていた。そして当日は自分の車で現地に向かうことになった。
視察目的地はローマ市内より南に50km程のラティナ原発である。車は古代ローマ時代のアッピイア旧街道を右手に見ながら新街道を走る。その右前方には見事に連立した「古代ローマ水道橋」世界遺産が目に入る。その近くでは羊の群れが若草を啄む風景等がとてものどかで美しい。その水道橋は(紀元前312年)ローマ執政管であったアツピオ・クラウディオが建設したもの、又アッピイア旧街道はローマからナポリ、アドリア海のプーリア地方、アルベロベルロ、例のとんがり帽子の様な石作りの町並(世界遺産)からブリンディシ港まで続いていた。又、石引きの道も随所に残る。
紀.前.312年 ローマ時代、アツピオ・クラウディオが建設した、古代水道橋(07’Feb.撮影)
この道が「すべての道はローマに」と語られた「聖なる道」でもあり、古代ローマ、3政権時代等には多くの人々の往来によって地中海文明が伝来した路であることは言うまでもない。

さて、車は中部から南に広がる緑の美しい牧草地や農村を眺めながらラティナ原発に着いた。原発関係者に迎えられサロンに通され、日本原発理事2名を紹介し、ご挨拶する。少ない時間の中で前にも述べた視察目的をお伝えし、これまで日・原発が視察されたヨーロッパ諸国原発の内容等交えた会話が進む。ヨーロッパ各国原発は1968年頃はまだ歴史も浅く、お互いに原発の内容やその進行状況には常に関心や興味がある様子であった。その中でも興味が高かった質問は原発内部での事故に関する件だった。
イタリア原発では1968年現では、人命等に関係する事故は1件も起きていない。との報告であり、つまりイタリア原発内職員は非常に正しく良い状況で任務を遂行し、かつ国際原子力委員会や国内原発等の労働規約(則)を順守していると云っていた。僕はその時思ったことはイタリア国民の一般的な性格、気性として楽観的でやや「好い加減では」と思っていたが、特に原発に関しては僕の個人的判断はくつがえしであった。
そしてイタリア原発から日本原発はどの様な職員の任務内容と状況であるかの質問を受けた。そこで日本の理事方は事故の件で少々躊躇いつつ説明された。つまり初期段階と前置きされた上で1967〜68年で一番気になっている事は、一つに、原子力の「物質運搬」工程での事故である。小さな手違いから数回の事故が起きていると報告された。その内容を知りたいとの質問があった。その内容とは日本原発職員は原発の「物質」運搬時には国際的基準や規律をその初期段階では良く順守しているものの運搬回数が重なるにつれ重装備が身体行動に対し不自由な為か、個人的判断から無断で重装備を「手抜き」して運搬業務を実行し一旦軽装備が事故なく進むとそのまま業務を遂行する為だ。その内に火傷、怪我、事故を起こしてしまうとその実態を話された。イタリア原発ではうなづいていた。
原発事故が大・中・小に拘わらず原発職員が国際基準等に対して如何なる認識で業務を行うのかによるとの話が出た。又、ラティナ原発の話から判断するとイタリアやヨーロッパ原発の職員は特に「人命」や人体への危害や危機管理等には非常に神経質であると云っている。彼らは「イザ」と言う時への精神的判断には心するところがあり「人の命」「命の尊厳」とは言い過ぎだろうかはいかに高い次元で受け止めている様に感じるのであった。おそらくその部分を理解しようとするならばつまり、「長い歴史の流れと共にキリスト教精神」が生活の中で自然に宿った良き部分であろうかと思いもする。又、生命や精神に対する考え方や感じ方はヨーロッパ社会での信仰者たちにも精通する事であろうかと思うのであった。
この原発通訳を通してこれら原発事故の問題の好し悪しのみを論じている訳では決してない。この機会の通訳以後ヨーロッパ原発全体の進歩発展状況は特に知る由もなかった。しかし自分がここ数年間70年80年代に幾度かの帰国をした際、日本での原発事故多発ニュースを知った。ヨーロッパの原発に比べ日本原発はなぜ事故が多いのか。少なからず心に衝撃と疑問が残るのである。個人的に思うのだが、もしかして戦後日本の社会が歩んで来た路巾の中で何か忘れ物をしたか、また人々の精神のどこかで大切なものが跡絶えてしまっているのであれば残念なことである。
わずか2日間の通訳の時間では僕なりに感じる事が大きかった。自分たちの目の届かないところで幾多の問題が起きている。人の心に見える疵(傷)よりも心に見えにくい疵があるとすれば一刻も早く完治すべきと思っていたのに・・・その時からすでに数十年が経過している・・・
当時の日記より
その方々の目的はヨーロッパ各地を視察されてのローマ入りでイタリア原発の現状把握等で2日間の予定となっていた。そして当日は自分の車で現地に向かうことになった。
視察目的地はローマ市内より南に50km程のラティナ原発である。車は古代ローマ時代のアッピイア旧街道を右手に見ながら新街道を走る。その右前方には見事に連立した「古代ローマ水道橋」世界遺産が目に入る。その近くでは羊の群れが若草を啄む風景等がとてものどかで美しい。その水道橋は(紀元前312年)ローマ執政管であったアツピオ・クラウディオが建設したもの、又アッピイア旧街道はローマからナポリ、アドリア海のプーリア地方、アルベロベルロ、例のとんがり帽子の様な石作りの町並(世界遺産)からブリンディシ港まで続いていた。又、石引きの道も随所に残る。

紀.前.312年 ローマ時代、アツピオ・クラウディオが建設した、古代水道橋(07’Feb.撮影)
この道が「すべての道はローマに」と語られた「聖なる道」でもあり、古代ローマ、3政権時代等には多くの人々の往来によって地中海文明が伝来した路であることは言うまでもない。

アルベロベルロ、石作りのとんがりぼうしの町
南イタリア・アドリア海近く(プーリア地方)
南イタリア・アドリア海近く(プーリア地方)
さて、車は中部から南に広がる緑の美しい牧草地や農村を眺めながらラティナ原発に着いた。原発関係者に迎えられサロンに通され、日本原発理事2名を紹介し、ご挨拶する。少ない時間の中で前にも述べた視察目的をお伝えし、これまで日・原発が視察されたヨーロッパ諸国原発の内容等交えた会話が進む。ヨーロッパ各国原発は1968年頃はまだ歴史も浅く、お互いに原発の内容やその進行状況には常に関心や興味がある様子であった。その中でも興味が高かった質問は原発内部での事故に関する件だった。
イタリア原発では1968年現では、人命等に関係する事故は1件も起きていない。との報告であり、つまりイタリア原発内職員は非常に正しく良い状況で任務を遂行し、かつ国際原子力委員会や国内原発等の労働規約(則)を順守していると云っていた。僕はその時思ったことはイタリア国民の一般的な性格、気性として楽観的でやや「好い加減では」と思っていたが、特に原発に関しては僕の個人的判断はくつがえしであった。
そしてイタリア原発から日本原発はどの様な職員の任務内容と状況であるかの質問を受けた。そこで日本の理事方は事故の件で少々躊躇いつつ説明された。つまり初期段階と前置きされた上で1967〜68年で一番気になっている事は、一つに、原子力の「物質運搬」工程での事故である。小さな手違いから数回の事故が起きていると報告された。その内容を知りたいとの質問があった。その内容とは日本原発職員は原発の「物質」運搬時には国際的基準や規律をその初期段階では良く順守しているものの運搬回数が重なるにつれ重装備が身体行動に対し不自由な為か、個人的判断から無断で重装備を「手抜き」して運搬業務を実行し一旦軽装備が事故なく進むとそのまま業務を遂行する為だ。その内に火傷、怪我、事故を起こしてしまうとその実態を話された。イタリア原発ではうなづいていた。
原発事故が大・中・小に拘わらず原発職員が国際基準等に対して如何なる認識で業務を行うのかによるとの話が出た。又、ラティナ原発の話から判断するとイタリアやヨーロッパ原発の職員は特に「人命」や人体への危害や危機管理等には非常に神経質であると云っている。彼らは「イザ」と言う時への精神的判断には心するところがあり「人の命」「命の尊厳」とは言い過ぎだろうかはいかに高い次元で受け止めている様に感じるのであった。おそらくその部分を理解しようとするならばつまり、「長い歴史の流れと共にキリスト教精神」が生活の中で自然に宿った良き部分であろうかと思いもする。又、生命や精神に対する考え方や感じ方はヨーロッパ社会での信仰者たちにも精通する事であろうかと思うのであった。
この原発通訳を通してこれら原発事故の問題の好し悪しのみを論じている訳では決してない。この機会の通訳以後ヨーロッパ原発全体の進歩発展状況は特に知る由もなかった。しかし自分がここ数年間70年80年代に幾度かの帰国をした際、日本での原発事故多発ニュースを知った。ヨーロッパの原発に比べ日本原発はなぜ事故が多いのか。少なからず心に衝撃と疑問が残るのである。個人的に思うのだが、もしかして戦後日本の社会が歩んで来た路巾の中で何か忘れ物をしたか、また人々の精神のどこかで大切なものが跡絶えてしまっているのであれば残念なことである。
わずか2日間の通訳の時間では僕なりに感じる事が大きかった。自分たちの目の届かないところで幾多の問題が起きている。人の心に見える疵(傷)よりも心に見えにくい疵があるとすれば一刻も早く完治すべきと思っていたのに・・・その時からすでに数十年が経過している・・・
当時の日記より
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2007年02月22日
ローマの生活も教会での下宿生活時代からようやく自立したとは云え、中々作品が売れる等と云う頃ではない。その頃ローマでは滞在日本人の数も少なかったし独身時代は家具等も必要なので、何人かの友人にそんな話をしていたところ、小説家の塩野七生さんを紹介され、ローマのご自宅へ遊びに伺った。
その日は他のお友達も訪問していた。何かと雑談の中、新たな下宿の話をしていた。すると塩野さんは数ヵ月後にはフィレンツエに引っ越すのですよとおっしゃって何か使えるものがあればお使いくださいとのご好意であった。そして後に引越しのお知らせがあり、再度おじゃました。
いろんなローマの話や美術の話などをして、そして電気器具や家具を拝見、大きな木製テーブルと椅子4個、それは非常に素晴らしい家具で勝手だけれど僕好みだ!すべて手作りでテーブルは一枚木の様だし1m40×70cmもある大きさ、おそらく塩野さんはこのテーブルを使われ多くの小説を世に出されていたのであろう。
又、4個ある椅子の座の部分は縄製手編みで、ローマ市内の家庭でも時々見る椅子だ。古い歴史の技術で暖かさを感じ骨董家具の様にさえ見える。さすがの塩野さんも手放すのがおしいと話され、この度は取り合えず「川原さん」に一時使ってもらってフィレンツエで一応落ち着いたら改めてご連絡しますね、と言う事でその日は僕の車で荷台と車内に家具やら冷蔵庫等を入れ下宿に運んだ。塩野さんは手作り家具と一時の別れがやや寂しそうであった。
その後、塩野さんはフィレンツエ市でご結婚されご多忙の毎日の様子で、互いに一年以上はお会いする時間もなく、僕も何かと多忙な日々を送っていた。塩野さんは次々と新しい小説「ルネッサンス」をテーマにされたチエザレ、ボルヂイヤ、神の代理人等を出版されその度に僕のような者にも本を送って下さったりしたので感激し恐縮でもあった。そして有名になられていかれた。
それに比べ僕はまだまだであり大変な頃だった。しかしその内に自分も人並みか・・・結婚も出来てローマの新しい下宿に変わる。塩野さんにもお知らせし、引き続き木製家具等を使用させてもらっていた。
後、一年頃フィレンツエより電話連絡がありご結婚以後落ち着かれたのか、以前の手作り家具に執着があるので・・・そこで主人に車で取りに行ってもらってもよろしいでしょうかと話され、僕は一応お預かり、として使用させて戴いている品ですから「どうぞ」とお伝えした。その後、フィレンツエから優しそうで若いイタリア人青年、ご主人と妹さんが車で尋ねて来られ大きな家具を3人で建物の地階まで運び車に積んでみられたものの家具は大きすぎたのかフィアット車が小さかったのか全部が車内に入りきらず・・・ご主人は結果として2個の椅子は、良ければ川原さんどうぞ使ってください、と云う事になった。僕は幸い少し自分にも慣れた椅子の暖かさに興味があったので2個の椅子を使えることが嬉しかった。
その後、僕はROMAで個展開催や、日本でも幸い個展開催等、その上仕事もあり多忙な日々が続きイタリアと日本の行き来も多くなった。そして1988年以後は日本での制作も続き塩野さんからの思い出の椅子2個も日本に渡って来た訳だ。

そして日本の「ストゥディオ」アトリエで活躍していた例の椅子に小さな事故が起きるのである。骨董の様に思って大切にしていた椅子は普通では想像もつかない事が起きる。
日本のストゥディオでは夕方から夜へと生活音が少なく静まる頃から何だか思い出の椅子からカリ、コリ、カリ、コリ、と非常に小さな音が聞こえるのである。最初は不思議で奇妙にも感じてならなかったが2ヶ月も過ぎただろうか、明るい光で良く見ると椅子の周りに小さな虫穴が見え(1mm程)何ヶ所にも出来ている。そして細かな木の粉も落ちているのだ!!信じられない。又も数ヶ月後のある日、何気なくいつものように木製ローマの椅子に静かに座ろうと腰を下ろしたのだが、その瞬間突如、グサッ・・・ガタ、ガタ、と音を立てて思い出の椅子が崩れ、アアッと言葉が出たっきり、床上にひっくり返って椅子も無残な形になっていたのだ!!
一瞬驚きで言葉も出なかった。残念だった。手作りの暖かさで心地良く支えてくれたあのローマから来た古き良き形が小さく形を変えてしまったのだ・・・繰り返すようだけれど思い出の椅子は僕のローマの生活から日本への生活へと貴重な「生き様」時の歩みを40年も見守り続けていただけに、とっても淋しいのである。
その日はどうにかして以前の形に戻らないものかと幾度も崩れた椅子の足を組み立ててみるが例の虫食い穴が多く材木が弱っていて戻らなかった。形あるものは滅びる、ではないけれど儚い。過日の夕暮れ時、静かにナァイーブで小さなカリ、コリ、の音が余韻として頭に浮かぶ・・・が、しかし残されたもう1つのこの椅子は今も健在でストゥディオを尋ねる人々を優しく向かえ、支えてくれているのは嬉しいことである。小説家塩野七生さんからの「思い出の椅子」をいつまでも大切にしていこうと思っている。
おわり
その日は他のお友達も訪問していた。何かと雑談の中、新たな下宿の話をしていた。すると塩野さんは数ヵ月後にはフィレンツエに引っ越すのですよとおっしゃって何か使えるものがあればお使いくださいとのご好意であった。そして後に引越しのお知らせがあり、再度おじゃました。
いろんなローマの話や美術の話などをして、そして電気器具や家具を拝見、大きな木製テーブルと椅子4個、それは非常に素晴らしい家具で勝手だけれど僕好みだ!すべて手作りでテーブルは一枚木の様だし1m40×70cmもある大きさ、おそらく塩野さんはこのテーブルを使われ多くの小説を世に出されていたのであろう。
又、4個ある椅子の座の部分は縄製手編みで、ローマ市内の家庭でも時々見る椅子だ。古い歴史の技術で暖かさを感じ骨董家具の様にさえ見える。さすがの塩野さんも手放すのがおしいと話され、この度は取り合えず「川原さん」に一時使ってもらってフィレンツエで一応落ち着いたら改めてご連絡しますね、と言う事でその日は僕の車で荷台と車内に家具やら冷蔵庫等を入れ下宿に運んだ。塩野さんは手作り家具と一時の別れがやや寂しそうであった。
その後、塩野さんはフィレンツエ市でご結婚されご多忙の毎日の様子で、互いに一年以上はお会いする時間もなく、僕も何かと多忙な日々を送っていた。塩野さんは次々と新しい小説「ルネッサンス」をテーマにされたチエザレ、ボルヂイヤ、神の代理人等を出版されその度に僕のような者にも本を送って下さったりしたので感激し恐縮でもあった。そして有名になられていかれた。
それに比べ僕はまだまだであり大変な頃だった。しかしその内に自分も人並みか・・・結婚も出来てローマの新しい下宿に変わる。塩野さんにもお知らせし、引き続き木製家具等を使用させてもらっていた。
後、一年頃フィレンツエより電話連絡がありご結婚以後落ち着かれたのか、以前の手作り家具に執着があるので・・・そこで主人に車で取りに行ってもらってもよろしいでしょうかと話され、僕は一応お預かり、として使用させて戴いている品ですから「どうぞ」とお伝えした。その後、フィレンツエから優しそうで若いイタリア人青年、ご主人と妹さんが車で尋ねて来られ大きな家具を3人で建物の地階まで運び車に積んでみられたものの家具は大きすぎたのかフィアット車が小さかったのか全部が車内に入りきらず・・・ご主人は結果として2個の椅子は、良ければ川原さんどうぞ使ってください、と云う事になった。僕は幸い少し自分にも慣れた椅子の暖かさに興味があったので2個の椅子を使えることが嬉しかった。
その後、僕はROMAで個展開催や、日本でも幸い個展開催等、その上仕事もあり多忙な日々が続きイタリアと日本の行き来も多くなった。そして1988年以後は日本での制作も続き塩野さんからの思い出の椅子2個も日本に渡って来た訳だ。

そして日本の「ストゥディオ」アトリエで活躍していた例の椅子に小さな事故が起きるのである。骨董の様に思って大切にしていた椅子は普通では想像もつかない事が起きる。
日本のストゥディオでは夕方から夜へと生活音が少なく静まる頃から何だか思い出の椅子からカリ、コリ、カリ、コリ、と非常に小さな音が聞こえるのである。最初は不思議で奇妙にも感じてならなかったが2ヶ月も過ぎただろうか、明るい光で良く見ると椅子の周りに小さな虫穴が見え(1mm程)何ヶ所にも出来ている。そして細かな木の粉も落ちているのだ!!信じられない。又も数ヶ月後のある日、何気なくいつものように木製ローマの椅子に静かに座ろうと腰を下ろしたのだが、その瞬間突如、グサッ・・・ガタ、ガタ、と音を立てて思い出の椅子が崩れ、アアッと言葉が出たっきり、床上にひっくり返って椅子も無残な形になっていたのだ!!
一瞬驚きで言葉も出なかった。残念だった。手作りの暖かさで心地良く支えてくれたあのローマから来た古き良き形が小さく形を変えてしまったのだ・・・繰り返すようだけれど思い出の椅子は僕のローマの生活から日本への生活へと貴重な「生き様」時の歩みを40年も見守り続けていただけに、とっても淋しいのである。
その日はどうにかして以前の形に戻らないものかと幾度も崩れた椅子の足を組み立ててみるが例の虫食い穴が多く材木が弱っていて戻らなかった。形あるものは滅びる、ではないけれど儚い。過日の夕暮れ時、静かにナァイーブで小さなカリ、コリ、の音が余韻として頭に浮かぶ・・・が、しかし残されたもう1つのこの椅子は今も健在でストゥディオを尋ねる人々を優しく向かえ、支えてくれているのは嬉しいことである。小説家塩野七生さんからの「思い出の椅子」をいつまでも大切にしていこうと思っている。
おわり
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2007年02月08日
1968年3月にローマでユネスコ主催国際美術展が開催される事を友人や美術関係者から知った。僕はローマ滞在4年になる事から一度それを機に出品してみることに決めた。しかしまだまだ未熟でもあったしローマの生活さえも儘ならぬ頃で大きな作品を出品する費用も無かった。そこで学生時代からファッツイニー教授に少しずつ学んでいた蝋型彫刻の内何点かの中からと、かねてから少しずつ考えていたアイディアの中から「小品」3点を選び蝋型を鋳造にしてみた。
作品ブロンズ内容にいたる良し悪しはともかく懸命な努力で制作したものであったので出品してみたかったのだ。
そして約1週間後、国際展の初日がきた。多くの外国人も出品していた。友人K神父やローマ大学の友人らと会場に入り自分の作品の周りでガヤガヤと雑談していた。その時K神父が何だか写真を写しているよと。しかし我々は全く気にもならなかった。その内またも神父が式典が始まるようだと話していたが又も気にしていなかった。
そして今度は友人が何だか人々の名前を呼んでいるねえ、と繰り返した。そしてすぐ神父さんが オイ、オイ、川原君、君の名前だぞ!と呼んだが僕は全然言葉を信じていなかったのでヘエーと思っていた。
するとやはり1,2度と読みずらそうに日本語の名前をイタリア人にとって日本の名前がいかにも発音しずらく聞こえた。皆が少し前方に行って見ようと駆け寄ってみた。するとやはり何度か繰り返し、多くの人々の方向を見回して僕の名前を確かに呼んでいたのだ。ユネスコイタリア会長Dotto.sa.(MARIA.Lusia.PALONETTA)氏が僕を確かめるようにしてニコニコと丸めた賞状と共に小箱を手渡して下さった。
本当に思いも想像もしなかった突然受賞の出来事で驚きと興奮だったがとっても嬉しかった。そしてユネスコ会長さんらと笑顔で握手をしていると周りの人々から「おめでとう」「AUGURI」の連発を受け拍手が飛んだので又も興奮し嬉しかった。そして箱を開けて見ると「金メダル」であった。びっくりだった。僕や友人とも受賞等考えもしていなかったので式典の初めから良く聞き入っていなかった為、何も理解できていなかったのである。僕も実感が湧かず少しポーっとしていた。友人たちも全然信じられないと云う程又も少しガヤガヤしていると再度僕の名前が呼ばれたので急ぎ前方に出てみると中程のカップの受賞だったがその意味が理解できずユネスコ委員に尋ねてみると、これは国際展だから受賞国の日本を代表して受けてください。との事であった。
日本代表カップ受賞の様子
国際ユネスコ美術展金メダル
僕は日本であれば事前に受賞通知が主催者側からあってからであるが全然その様な通知が大使館からもなかった。これもイタリア的と云えばそれで良いのであろうか。興奮止まないけどその夜は友人らとお祝いの夕食とまでは費用も無く出来なかった。しかし、友人達も大変喜んでくれたので満足であった。
翌日急いでファッツイニー教授に金メダル受賞をお知らせに行った。先生は大そう喜んでくださり「アウグゥーリ」と良かったナアと笑顔であったので非常に嬉しかったことは忘れない。
その翌日再度友人らと美術展会場の見学に行く。すると何か大変な事が起きていたのである!ユネスコ展出品ブロンズ3点の内1点が会場の台から見えないのである。30cm程の台共に。さて、盗難か?その通りであった。盗難であった。僕は大変なこったと思って頭がカーッとした。驚いた。急いでこの杜撰な事実を役員に知らせると「それは信じられない」との1点張りである。
僕は金メダルの受賞も信じられなかったが、作品の盗難もまったく信じられなく残念なんてものではなかった。再度ユネスコ役員に抗議するが「当人らは両手を上に上げ申し訳なく残念です。」と云うのみ。作品が帰って来るものでもない。大変だ。
僕は急いでファッツイニー教授を尋ね作品盗難の詳細を伝えた。すると先生は大変に驚かれ急遽イタリア新聞とメッサッジエロ新聞社に電話をされている様だった。そして僕にも急いで新聞社に行く様勧められ、その足で新聞記者とお会いし詳細説明をした。
メッサッジエロ新聞記事
その日は非常に疲れた。そして、その日の夜の9時のナショナルテレビ「RAI」ニュースでユネスコ国際美術展でのブロンズ小品盗難が報道され僕の名前も云われた。
そのニュースでも大変驚きであったのは、その報道の際の方法が余りにも無骨なのであった。それは受賞の残りの作品2点に細い鎖が付けられていたのであった。その後盗難に対しユネスコ主催者側による説明ではこうである。つまり、当日3月7日式典初日は非常に寒い日であった。多くの人々が出席し長いコートやマント等着用の入場者がいた。おそらくブロンズ小品はその際、マントの内に隠されての盗難ではないだろうかと云う説明であった。まるで現場を見ていたかの様にさえ聞こえ不満であった。理解に苦しんだ。受賞したにも係らず混乱した日々が数日間続いた。そして数日後友人から聞いた事は「イタリアでは日本で考えられない事が通常良く起きる」と云うのである。
僕はこの度の受賞と盗難がもしも日本であればマスコミが問題として取り上げ話題となりもっと違った事態となっていたとも思った。数日後少し落ち着いてからイタリア在日本大使館を尋ね受賞の報告を領事部にする。そして例の代表で受けたカップを手渡した。すると領事の方は「それはそれはお目出当ございました」と、あまり関心が無いような言葉使いで事務的でそっけない感じであった。その言葉を聞いて何だか報告に伺ったのが良かったのか否かとさえ感じ、自分では一応大変な名誉ある受賞と受け止めていたはずが受賞以後も少々混迷した印象の体験をしたのである。
おわり
作品ブロンズ内容にいたる良し悪しはともかく懸命な努力で制作したものであったので出品してみたかったのだ。
そして約1週間後、国際展の初日がきた。多くの外国人も出品していた。友人K神父やローマ大学の友人らと会場に入り自分の作品の周りでガヤガヤと雑談していた。その時K神父が何だか写真を写しているよと。しかし我々は全く気にもならなかった。その内またも神父が式典が始まるようだと話していたが又も気にしていなかった。
そして今度は友人が何だか人々の名前を呼んでいるねえ、と繰り返した。そしてすぐ神父さんが オイ、オイ、川原君、君の名前だぞ!と呼んだが僕は全然言葉を信じていなかったのでヘエーと思っていた。
するとやはり1,2度と読みずらそうに日本語の名前をイタリア人にとって日本の名前がいかにも発音しずらく聞こえた。皆が少し前方に行って見ようと駆け寄ってみた。するとやはり何度か繰り返し、多くの人々の方向を見回して僕の名前を確かに呼んでいたのだ。ユネスコイタリア会長Dotto.sa.(MARIA.Lusia.PALONETTA)氏が僕を確かめるようにしてニコニコと丸めた賞状と共に小箱を手渡して下さった。
本当に思いも想像もしなかった突然受賞の出来事で驚きと興奮だったがとっても嬉しかった。そしてユネスコ会長さんらと笑顔で握手をしていると周りの人々から「おめでとう」「AUGURI」の連発を受け拍手が飛んだので又も興奮し嬉しかった。そして箱を開けて見ると「金メダル」であった。びっくりだった。僕や友人とも受賞等考えもしていなかったので式典の初めから良く聞き入っていなかった為、何も理解できていなかったのである。僕も実感が湧かず少しポーっとしていた。友人たちも全然信じられないと云う程又も少しガヤガヤしていると再度僕の名前が呼ばれたので急ぎ前方に出てみると中程のカップの受賞だったがその意味が理解できずユネスコ委員に尋ねてみると、これは国際展だから受賞国の日本を代表して受けてください。との事であった。


僕は日本であれば事前に受賞通知が主催者側からあってからであるが全然その様な通知が大使館からもなかった。これもイタリア的と云えばそれで良いのであろうか。興奮止まないけどその夜は友人らとお祝いの夕食とまでは費用も無く出来なかった。しかし、友人達も大変喜んでくれたので満足であった。
翌日急いでファッツイニー教授に金メダル受賞をお知らせに行った。先生は大そう喜んでくださり「アウグゥーリ」と良かったナアと笑顔であったので非常に嬉しかったことは忘れない。
その翌日再度友人らと美術展会場の見学に行く。すると何か大変な事が起きていたのである!ユネスコ展出品ブロンズ3点の内1点が会場の台から見えないのである。30cm程の台共に。さて、盗難か?その通りであった。盗難であった。僕は大変なこったと思って頭がカーッとした。驚いた。急いでこの杜撰な事実を役員に知らせると「それは信じられない」との1点張りである。
僕は金メダルの受賞も信じられなかったが、作品の盗難もまったく信じられなく残念なんてものではなかった。再度ユネスコ役員に抗議するが「当人らは両手を上に上げ申し訳なく残念です。」と云うのみ。作品が帰って来るものでもない。大変だ。
僕は急いでファッツイニー教授を尋ね作品盗難の詳細を伝えた。すると先生は大変に驚かれ急遽イタリア新聞とメッサッジエロ新聞社に電話をされている様だった。そして僕にも急いで新聞社に行く様勧められ、その足で新聞記者とお会いし詳細説明をした。

その日は非常に疲れた。そして、その日の夜の9時のナショナルテレビ「RAI」ニュースでユネスコ国際美術展でのブロンズ小品盗難が報道され僕の名前も云われた。
そのニュースでも大変驚きであったのは、その報道の際の方法が余りにも無骨なのであった。それは受賞の残りの作品2点に細い鎖が付けられていたのであった。その後盗難に対しユネスコ主催者側による説明ではこうである。つまり、当日3月7日式典初日は非常に寒い日であった。多くの人々が出席し長いコートやマント等着用の入場者がいた。おそらくブロンズ小品はその際、マントの内に隠されての盗難ではないだろうかと云う説明であった。まるで現場を見ていたかの様にさえ聞こえ不満であった。理解に苦しんだ。受賞したにも係らず混乱した日々が数日間続いた。そして数日後友人から聞いた事は「イタリアでは日本で考えられない事が通常良く起きる」と云うのである。
僕はこの度の受賞と盗難がもしも日本であればマスコミが問題として取り上げ話題となりもっと違った事態となっていたとも思った。数日後少し落ち着いてからイタリア在日本大使館を尋ね受賞の報告を領事部にする。そして例の代表で受けたカップを手渡した。すると領事の方は「それはそれはお目出当ございました」と、あまり関心が無いような言葉使いで事務的でそっけない感じであった。その言葉を聞いて何だか報告に伺ったのが良かったのか否かとさえ感じ、自分では一応大変な名誉ある受賞と受け止めていたはずが受賞以後も少々混迷した印象の体験をしたのである。
おわり
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2007年01月25日
知人の紹介で小説家遠藤周作さんが二日間の日程でローマに滞在される、滞在中の通訳を手伝ってほしいとの知らせであった。僕は自分の様な田舎者でも良ければ・・・と言ってみたが内心興味を感じていた。しかしあまりにも有名な方なので後日からしばらく考えて少々躊躇ったり数日間は何だか責任感もあり初にお会いする遠藤周作をそれなりに想像してみたりし、再三悩んだりもした。
そして当日の朝、市内のHOTELを訪問し、ご本人にお会いした。自己紹介をした遠藤先生は想像よりも明るくあっさりなさった感じを受け、その時僕の緊張が少し解けたようだった。遠藤先生は「アァー、遠藤です。よろしく。」であった。
先生は僕よりも少し背が高くやや広く光った額と共にめがねの顔が非常に特徴的な方であった。そしてやはり個性的な方の様に感じ又も一時ホッと安心というところに先生は話の遣り取りも正確で感じが良かった。そこでローマのご予定を伺うことになった。僕は遠藤先生はお一人でのご旅行かと思っていたがお会いしてすぐ後に知ったけれどお供の女性が同行されていた。二日間の行動は僕と二人である。そこでローマの日程はそれなりにと云われても歴史と語らうものが非常に多い。つまり、芸術文化の宝庫ですからと話すと少し考えられ興味を示されたのはヴァチカン市国のヴァチカン博物館を是非見学したいと話された。それではヴァチカン博物館に行きましょうと決めた。
車で博物館に向かう車中では口数少なく車内から見える市内の情景等を感じておられる様子であった。僕はヴァチカン博物館が自分の説明では先生のご希望に応えれるかがやや心配であった。そして目的地に着く先生の第一声「スゴイナアー」とつぶやかれ円形階段を登り大壁画室の方向に進む遠藤先生は文学者として西洋史やキリスト教史、聖書(神学)等には精通されておられると思うとまたも緊張してくるのであった。つまり緊張の意味はルネッサンスの芸術文化は特に「キリスト教神学や聖書が基本と思うからである。」
最初はラファエルロの部屋(壁画)ヴォルヴォの大火を見学。先生は僕の未熟な説明でも良く聞いてくださり、「ウン、ウン」と頷かれるけど、しかしほとんど質問はされずただ先生はおそらくご自分の感性で静かに感じ見学され、そして内面では深い感動を受けておられると僕は感じていた。そしてその感動を静かに止めておられるとも思っていた。
それと先生から「素晴らしい」「スゴイナアー」との言葉を聞く度に僕は口数の少ない遠藤先生は、ローマ、ルネッサンス芸術の 厖大で劇的壁画群の燃え広がるようで偉大なエネルギーを内に秘められておられる様に感じてならなかった。また先生との会話の遣り取りで僕はこの博物館をゆっくり見学しているとおそらく一週間もの時間が必要でしょう等と語りながら次々と壁画室へと進む。ラファエルロの壁画は大画面が約20面、回廊部分の壁画約52面、聖書のエピソード等(弟子等も含め)他ボッティツチエルリ、ぺルジーノ、ロッセルリー、シニョレルリ等大変な規模の壁画である。又その上有名なシスティナー礼拝堂内のミケランジェロ、壁画「最後の審判」と「天地創造」がある。他、別館、絵画館もある。「主なものを」と言われても全ての壁画が主なものであり全体を見学するには想像以上のエネルギーが必要である。遠藤先生はラファエルロの壁画等全体をご覧になりシスティーナー礼拝堂へと進む「最後の審判」と「天地創造」をご覧になる。その大広間に入ると「ウオー、スゴイ」と相当な感激ぶりの様子であった。そして先生は又も静かに感じながらご覧になっておられた。
このシスティーナー礼拝堂大壁画の間では多くの外国人(世界から)の見学者でごった返しだった。その上、人々は感動と感激で声も高くなる。時々ムゼオ内の監視が静かに!と叫ぶ。一瞬は静まっても再度ワイワイガヤガヤと雑音が飛び交う中から外に出ると先生はホッとされたようだった。そして僕は遠藤先生から壁画への感想をお聞きしてみたかったが長時間の見学でお疲れの様子でもあった。
一度にこれ程数多くの芸術文化から受けられた感動や心の動きには計り知れないという感じは先生の表情から察しられた気もした。そして先生はご自分だけの何か考える時間を望んでおられる様だった。僕は再度思った、遠藤先生はおそらくローマ滞在中何度も話したように口数少ない人柄に見受けられたけどとても心の暖かい素晴らしい方だと感じた。また先生はローマでの偉大な芸術文化遺産との出逢いとまたそれらを短時間でご覧になり相当の思いを感じられたことは云うまでもない。
一応ホテルに帰り僕の通訳と手伝いに対し「どうもありがとうございました」とお礼を言われお別れをしホテルを後にした。
僕にとって作家遠藤周作さんと過ごしたローマの時間は非常に印象深く貴重でかけがえの無い多くのことを学ぶことが出来たと思うと大変嬉しく、いつまでも忘れないでいる。(日記より) おわり
そして当日の朝、市内のHOTELを訪問し、ご本人にお会いした。自己紹介をした遠藤先生は想像よりも明るくあっさりなさった感じを受け、その時僕の緊張が少し解けたようだった。遠藤先生は「アァー、遠藤です。よろしく。」であった。
先生は僕よりも少し背が高くやや広く光った額と共にめがねの顔が非常に特徴的な方であった。そしてやはり個性的な方の様に感じ又も一時ホッと安心というところに先生は話の遣り取りも正確で感じが良かった。そこでローマのご予定を伺うことになった。僕は遠藤先生はお一人でのご旅行かと思っていたがお会いしてすぐ後に知ったけれどお供の女性が同行されていた。二日間の行動は僕と二人である。そこでローマの日程はそれなりにと云われても歴史と語らうものが非常に多い。つまり、芸術文化の宝庫ですからと話すと少し考えられ興味を示されたのはヴァチカン市国のヴァチカン博物館を是非見学したいと話された。それではヴァチカン博物館に行きましょうと決めた。
車で博物館に向かう車中では口数少なく車内から見える市内の情景等を感じておられる様子であった。僕はヴァチカン博物館が自分の説明では先生のご希望に応えれるかがやや心配であった。そして目的地に着く先生の第一声「スゴイナアー」とつぶやかれ円形階段を登り大壁画室の方向に進む遠藤先生は文学者として西洋史やキリスト教史、聖書(神学)等には精通されておられると思うとまたも緊張してくるのであった。つまり緊張の意味はルネッサンスの芸術文化は特に「キリスト教神学や聖書が基本と思うからである。」
最初はラファエルロの部屋(壁画)ヴォルヴォの大火を見学。先生は僕の未熟な説明でも良く聞いてくださり、「ウン、ウン」と頷かれるけど、しかしほとんど質問はされずただ先生はおそらくご自分の感性で静かに感じ見学され、そして内面では深い感動を受けておられると僕は感じていた。そしてその感動を静かに止めておられるとも思っていた。
それと先生から「素晴らしい」「スゴイナアー」との言葉を聞く度に僕は口数の少ない遠藤先生は、ローマ、ルネッサンス芸術の 厖大で劇的壁画群の燃え広がるようで偉大なエネルギーを内に秘められておられる様に感じてならなかった。また先生との会話の遣り取りで僕はこの博物館をゆっくり見学しているとおそらく一週間もの時間が必要でしょう等と語りながら次々と壁画室へと進む。ラファエルロの壁画は大画面が約20面、回廊部分の壁画約52面、聖書のエピソード等(弟子等も含め)他ボッティツチエルリ、ぺルジーノ、ロッセルリー、シニョレルリ等大変な規模の壁画である。又その上有名なシスティナー礼拝堂内のミケランジェロ、壁画「最後の審判」と「天地創造」がある。他、別館、絵画館もある。「主なものを」と言われても全ての壁画が主なものであり全体を見学するには想像以上のエネルギーが必要である。遠藤先生はラファエルロの壁画等全体をご覧になりシスティーナー礼拝堂へと進む「最後の審判」と「天地創造」をご覧になる。その大広間に入ると「ウオー、スゴイ」と相当な感激ぶりの様子であった。そして先生は又も静かに感じながらご覧になっておられた。
このシスティーナー礼拝堂大壁画の間では多くの外国人(世界から)の見学者でごった返しだった。その上、人々は感動と感激で声も高くなる。時々ムゼオ内の監視が静かに!と叫ぶ。一瞬は静まっても再度ワイワイガヤガヤと雑音が飛び交う中から外に出ると先生はホッとされたようだった。そして僕は遠藤先生から壁画への感想をお聞きしてみたかったが長時間の見学でお疲れの様子でもあった。
一度にこれ程数多くの芸術文化から受けられた感動や心の動きには計り知れないという感じは先生の表情から察しられた気もした。そして先生はご自分だけの何か考える時間を望んでおられる様だった。僕は再度思った、遠藤先生はおそらくローマ滞在中何度も話したように口数少ない人柄に見受けられたけどとても心の暖かい素晴らしい方だと感じた。また先生はローマでの偉大な芸術文化遺産との出逢いとまたそれらを短時間でご覧になり相当の思いを感じられたことは云うまでもない。
一応ホテルに帰り僕の通訳と手伝いに対し「どうもありがとうございました」とお礼を言われお別れをしホテルを後にした。
僕にとって作家遠藤周作さんと過ごしたローマの時間は非常に印象深く貴重でかけがえの無い多くのことを学ぶことが出来たと思うと大変嬉しく、いつまでも忘れないでいる。(日記より) おわり
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2007年01月11日
考古学授業で方々に出向き古い時代の壁画や象形文字、モザイク、大理石、石棺等を目前にして教授の講義を熱心に受け時代を覆っている重要な歴史の幅広いプロセスと向き合う事の出来る貴重な時を感じつつ古代からの語りかけには度々心打たれ熱くなる。
初期キリスト者達が厳しい迫害を避け掘り続けたカタコンベは旧ローマ市内外の地域に約56ヶ所からなる発見、発掘され今日も尚、広く世界から重視されていることは今さら語るまでもない。今日のローマでは観光都市として約10ヶ所近くが一般公開されている。
さて、専門的な点はともかく短時間的な説明では到底伝えきれるものではない。しかし未熟ながらでもその一部実態を少しでも伝えられたらと考えたのです。そこで今回は在学中の感動の一部を紹介しようと思う。
1968年春の授業である。そこはローマ市内でも有名な高級住宅地パリオリの丘。その静かな庭の一角が目的地である。
このあまり人知れぬ場所には鉄製で強固な扉がつけられている。また、その周辺1km以内程の場所には古代ローマ時代から市中を流れ続けているテェヴェレ川が見え、現在も利用しているローマ2000年のミルヴィオ橋が有りこの橋は「D.C.312年頃」皇帝コオンスタンティノとマツセンツィオとの戦いでも名高い。そしてまた1960年のローマ、オリンピック開催の陸上競技場、プール施設等もある。
さてこの強固な扉が開かれ静かな地下への入口を下りる。この日は最初から大きなガスランプに火が灯されていた。この聖ヴァレンティノ、カタコンベ(D.C.269年)孤立した庭の片隅から地下目的地までほとんど一本道の様に下って行く。暗闇は異常に急斜になる。その内に何ヶ所かの墓地が目に入る。教授は危険だからゆっくり進むよう指示があった。そして静止した。ランプの係と共に学生は一角の階段に少しずつ足を止め、すると大きなランプをゆるやかに回し始め共に左右全体が明るく照らされるとその一点には瞬間目を疑うような壁画が輝いている。それがまた不思議な程に透明感がある。どうしたことか!!
教授はやや大声でこれより一歩も前進してはならぬ・・・と。なぜかその壁画室は3m×4mの一室全内が実は水中なのである。その水中側面には美しい壁画が残されているわけだ。本当に想像を絶する出来事の様だ!
地下暗闇の深くしかも水溜りの静止状態は一点とも動かず生徒の誰一人としてその説明の瞬間までに水中壁画とは感じなかった。しかしその一瞬を知った瞬間には全員がオー、オー、っと大変な感動と驚きであった。ようやく学生の溜め息が静まった頃、教授の授業が始まる。

D.C.300〜400初頃 大理石石棺彫刻
カタコンベ 聖セバスティアーノ 象形文字

D.C.200頃 カタコンベ プリシルラ壁画
さて、フレスコと水との因果関係は古代ローマまでさかのぼる。つまり地下3階から4階にも下ったカタコンベが2000年近くの歳月と云う時の流れで徐々にテェヴェレ川水流が地中を伝い染込んだのである。テェヴェレ川の水位と地下フレスコ画墓室の位置が等しいことによる不思議な自然現像であると・・・教授は伝えられた。おそらく世界でも非常に珍しい事実だと・・・。水に覆われているフレスコが絶妙な変化をもたらしその鮮明な色彩は本当に素晴らしく美しい。自然現象による珍しいフレスコ画とは云え僕には神秘的かつ奇跡的にさえ感じさせた。水中から心をそそる壁画「天を仰ぐキリスト像やその弟子達」との出逢いは出席した学生一人一人が心に止めた一瞬、皆同じ感動的体験であったと思う。
6年に渡る専門部の研究でこれ程心に響き感銘を受けたことは無かった。ローマの地下自然が水中のフレスコを静かに静かに覆い、その状態を沈黙の内に保って来たその事実とカタコンベでのキリスト教時代の命や復活への精神として今後も子供たちから未来へと語り伝えられていくことを祈りたい。
おわり
初期キリスト者達が厳しい迫害を避け掘り続けたカタコンベは旧ローマ市内外の地域に約56ヶ所からなる発見、発掘され今日も尚、広く世界から重視されていることは今さら語るまでもない。今日のローマでは観光都市として約10ヶ所近くが一般公開されている。
さて、専門的な点はともかく短時間的な説明では到底伝えきれるものではない。しかし未熟ながらでもその一部実態を少しでも伝えられたらと考えたのです。そこで今回は在学中の感動の一部を紹介しようと思う。
1968年春の授業である。そこはローマ市内でも有名な高級住宅地パリオリの丘。その静かな庭の一角が目的地である。
このあまり人知れぬ場所には鉄製で強固な扉がつけられている。また、その周辺1km以内程の場所には古代ローマ時代から市中を流れ続けているテェヴェレ川が見え、現在も利用しているローマ2000年のミルヴィオ橋が有りこの橋は「D.C.312年頃」皇帝コオンスタンティノとマツセンツィオとの戦いでも名高い。そしてまた1960年のローマ、オリンピック開催の陸上競技場、プール施設等もある。
さてこの強固な扉が開かれ静かな地下への入口を下りる。この日は最初から大きなガスランプに火が灯されていた。この聖ヴァレンティノ、カタコンベ(D.C.269年)孤立した庭の片隅から地下目的地までほとんど一本道の様に下って行く。暗闇は異常に急斜になる。その内に何ヶ所かの墓地が目に入る。教授は危険だからゆっくり進むよう指示があった。そして静止した。ランプの係と共に学生は一角の階段に少しずつ足を止め、すると大きなランプをゆるやかに回し始め共に左右全体が明るく照らされるとその一点には瞬間目を疑うような壁画が輝いている。それがまた不思議な程に透明感がある。どうしたことか!!
教授はやや大声でこれより一歩も前進してはならぬ・・・と。なぜかその壁画室は3m×4mの一室全内が実は水中なのである。その水中側面には美しい壁画が残されているわけだ。本当に想像を絶する出来事の様だ!
地下暗闇の深くしかも水溜りの静止状態は一点とも動かず生徒の誰一人としてその説明の瞬間までに水中壁画とは感じなかった。しかしその一瞬を知った瞬間には全員がオー、オー、っと大変な感動と驚きであった。ようやく学生の溜め息が静まった頃、教授の授業が始まる。

D.C.300〜400初頃 大理石石棺彫刻


D.C.200頃 カタコンベ プリシルラ壁画
さて、フレスコと水との因果関係は古代ローマまでさかのぼる。つまり地下3階から4階にも下ったカタコンベが2000年近くの歳月と云う時の流れで徐々にテェヴェレ川水流が地中を伝い染込んだのである。テェヴェレ川の水位と地下フレスコ画墓室の位置が等しいことによる不思議な自然現像であると・・・教授は伝えられた。おそらく世界でも非常に珍しい事実だと・・・。水に覆われているフレスコが絶妙な変化をもたらしその鮮明な色彩は本当に素晴らしく美しい。自然現象による珍しいフレスコ画とは云え僕には神秘的かつ奇跡的にさえ感じさせた。水中から心をそそる壁画「天を仰ぐキリスト像やその弟子達」との出逢いは出席した学生一人一人が心に止めた一瞬、皆同じ感動的体験であったと思う。
6年に渡る専門部の研究でこれ程心に響き感銘を受けたことは無かった。ローマの地下自然が水中のフレスコを静かに静かに覆い、その状態を沈黙の内に保って来たその事実とカタコンベでのキリスト教時代の命や復活への精神として今後も子供たちから未来へと語り伝えられていくことを祈りたい。
おわり
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2006年12月28日
ローマの生活も自立して一度目の下宿は2年近くで引っ越すことになり、市内イベリア通りから市内の東方、市中から2km程の距離で田舎部落の様な場所で彫刻の仕事が自由に出来る安定した場所がほしかった為だ。以前のワーゲン車で2度程の往復で引越しが終わった。そして来る年1968年に入ると、ローマに住んでもう5年に入る。
ようやく生活にも慣れいろいろと体験すべき希望や欲望があまりにも多い。少し欲張りかもしれないが以前 に入学手続きを済ませたヴァチカン市国の初期キリスト考古学専科に入学することにした。市内ナポレオーネV世通りで最初の講義に出席した。以前、美術学校の美術史講義とはまったく異質の授業を受け、その日は講義の終わりまでまるで内容への目当が理解出来ない様に困難な体験であった。入学以前から専門的で厳しい授業とは十分承知はしていたものの確かに思いの程単純な講義ではない・・・まずはイタリアに来て2度目になる言葉のハンディを実感した。
考古学を学ぶイタリア人や外国からの学生は普通の言葉以外の言葉をマスターしている人たちも多く、それに比べると僕は到底及ばなかった。つまりは授業の為には3ヶ国語以上の言葉を理解している必要があり、その上にギリシア、ローマ時代の古典文字や象形文字の解読が重要で講義中には度々現れる言葉である。講義は2ヶ国語からなり、フランス語とイタリア語で、僕はイタリア語で受けているけれどただ考古学に興味があると云う気軽さではとうてい講義では付いて行けない。
学問としての厳しさを見せ付けられた根の低深い研究だった。教室の学生は40人近く、その内のほとんどが世界各国からきているカトリック系の司祭や専門的知識を持つ神学や哲学、聖書学の研究者も多い。またローマ大学からの学生も4人出席していた。そして約一年間程は僕にとって講義の内容がとても複雑で右の耳から左の耳に素通りする事も多く感じたのでまずは様々な言葉に耳から慣れることが重要不可欠と考え、覚悟を決め、2年目からは録音機持参し講義を録音帰宅して再度研究する方法にした。又一週間の計画を立て直し、許す限りファツツイニ教授のアトリエにも必ず通い、又以前から手伝っていた木彫りのレリーフも彫った。
多忙な生活が続くがしかし多忙なだけに何だか充実感さえも感じていた。そして3年目に入りようやく講義の内容も少しずつ理解しメモが取れる状態で授業も楽しくなる。自分にとっては精一杯の努力だったと思う。講義は通常スライド等による説明、象形文字の内容解読、説明、初期キリスト教壁画、石彫、石棺、アンフオラ(ランプ)等の研究が主だ。そして又、週一度の小さな発掘授業と地下「カタコンベ」研究、又、現地の見学等、研究の前日には教授から懐中電灯を持参する様支持があった。
当日は特別にヴァチカン市国から関係者も同席され一般には見学できない地下研究授業であった。「カタコンベ」地下墓地は広く迷路の様で暗闇は非常に奥深く危険だ。注意事項等延々と説明されて地下へと下って行く。その日は約30人以上が出席。そのほとんどが司祭で服装は黒一色暗闇の中に電灯の光を頼りにメモ帳を手にであった。10分から15分も進んだろうか、学生の列が突然停止してしまった。止まった理由は我々後方の学生には理解できなかった。暗闇の中、各々がブツブツ云いながら待つのである。闇の周りは墓地の冷え冷えした土壁の雰囲気だけに恐怖感さえ感じる。その内、途切れた列の前方からの話では中程の学生が列をはずれ迷ったらしいと・・・。
我々は立ち往生・・・。その後地下の方向から大きな叫び声がして我々に近づいてくる・・・。ネストリ教授である。ようやく教授が生徒の前方に現れ皆本気で怒鳴られてしまった。「君達!もしこの暗闇の中で足でも踏み外したら穴に落ちて大怪我になるぞ!」と。「何てことだ!!」地下は四階、複雑で約DC.2000年近い頃から作られ古くてすでに2階から3階に抜け落ちている場所が随所に有る。非常に危険だ。教授は責任上当然で、英語とイタリア語でのドヤシであった。僕はとっても悪い気がした。教授は坂を登ってきたので頭から汗を出し目を丸く本気であった。がしばらくして教授は怒りから静まり残りの列と共に地下に進んだ。その後長い列から生徒が途絶えた原因がどうやら少し理解されつつあった。それは列の中程の何人かが懐中電灯を持参せず、その中の一人が黒人の司祭だったのだと・・・何人かの生徒が話しているのを聞くと、黒人の司祭は黒の「アビト」司祭服で複雑で多くの曲がりくねった暗闇の中で外れ足元が見えなくなったのである。と、他の生徒も話していた。教授に大迷惑を掛けた大騒ぎの正本人は誰であれ後方の生徒たちはクスクスガヤガヤ誰かを企んでいるようだった。
ようやく目的地に着くとそこで大きなランプの火が照らされ一瞬に「大理石、石彫彩色石棺や象形文字板」が暗闇の中から飛び出す様に突如目前に現れ、何ともその美しさと素晴らしさに感動してしまった!!これまでの研究では大理石、石棺は自然色の物体が多く、石彫に色彩をほどこした物は初めて見る。驚きとともにまるでアラバスタ石の様にさえ見え美的である大理石への色彩はずいぶん色褪せてはいるがこの日研究で壁画も多々見学する中で感動の連続であった・・・
興奮を全身で受け止めながら思い思いの気持ちを語りながらカタコンベから地上に出て地下の迷路で混乱した学生全体が互いの顔を見合わせるのである。黒人の司祭の出席は確かであったのでまたもや後方の学生がクスクスしているのが聞こえる。初期キリスト教時代の非常に精神性の高い部分の研究にもかかわらず、一部の生徒の中では中々気持ちが静まることが容易ではなかった。今日の素晴らしい授業はいつまでも忘れないと思う。
ようやく生活にも慣れいろいろと体験すべき希望や欲望があまりにも多い。少し欲張りかもしれないが以前 に入学手続きを済ませたヴァチカン市国の初期キリスト考古学専科に入学することにした。市内ナポレオーネV世通りで最初の講義に出席した。以前、美術学校の美術史講義とはまったく異質の授業を受け、その日は講義の終わりまでまるで内容への目当が理解出来ない様に困難な体験であった。入学以前から専門的で厳しい授業とは十分承知はしていたものの確かに思いの程単純な講義ではない・・・まずはイタリアに来て2度目になる言葉のハンディを実感した。
考古学を学ぶイタリア人や外国からの学生は普通の言葉以外の言葉をマスターしている人たちも多く、それに比べると僕は到底及ばなかった。つまりは授業の為には3ヶ国語以上の言葉を理解している必要があり、その上にギリシア、ローマ時代の古典文字や象形文字の解読が重要で講義中には度々現れる言葉である。講義は2ヶ国語からなり、フランス語とイタリア語で、僕はイタリア語で受けているけれどただ考古学に興味があると云う気軽さではとうてい講義では付いて行けない。
学問としての厳しさを見せ付けられた根の低深い研究だった。教室の学生は40人近く、その内のほとんどが世界各国からきているカトリック系の司祭や専門的知識を持つ神学や哲学、聖書学の研究者も多い。またローマ大学からの学生も4人出席していた。そして約一年間程は僕にとって講義の内容がとても複雑で右の耳から左の耳に素通りする事も多く感じたのでまずは様々な言葉に耳から慣れることが重要不可欠と考え、覚悟を決め、2年目からは録音機持参し講義を録音帰宅して再度研究する方法にした。又一週間の計画を立て直し、許す限りファツツイニ教授のアトリエにも必ず通い、又以前から手伝っていた木彫りのレリーフも彫った。
多忙な生活が続くがしかし多忙なだけに何だか充実感さえも感じていた。そして3年目に入りようやく講義の内容も少しずつ理解しメモが取れる状態で授業も楽しくなる。自分にとっては精一杯の努力だったと思う。講義は通常スライド等による説明、象形文字の内容解読、説明、初期キリスト教壁画、石彫、石棺、アンフオラ(ランプ)等の研究が主だ。そして又、週一度の小さな発掘授業と地下「カタコンベ」研究、又、現地の見学等、研究の前日には教授から懐中電灯を持参する様支持があった。
当日は特別にヴァチカン市国から関係者も同席され一般には見学できない地下研究授業であった。「カタコンベ」地下墓地は広く迷路の様で暗闇は非常に奥深く危険だ。注意事項等延々と説明されて地下へと下って行く。その日は約30人以上が出席。そのほとんどが司祭で服装は黒一色暗闇の中に電灯の光を頼りにメモ帳を手にであった。10分から15分も進んだろうか、学生の列が突然停止してしまった。止まった理由は我々後方の学生には理解できなかった。暗闇の中、各々がブツブツ云いながら待つのである。闇の周りは墓地の冷え冷えした土壁の雰囲気だけに恐怖感さえ感じる。その内、途切れた列の前方からの話では中程の学生が列をはずれ迷ったらしいと・・・。
我々は立ち往生・・・。その後地下の方向から大きな叫び声がして我々に近づいてくる・・・。ネストリ教授である。ようやく教授が生徒の前方に現れ皆本気で怒鳴られてしまった。「君達!もしこの暗闇の中で足でも踏み外したら穴に落ちて大怪我になるぞ!」と。「何てことだ!!」地下は四階、複雑で約DC.2000年近い頃から作られ古くてすでに2階から3階に抜け落ちている場所が随所に有る。非常に危険だ。教授は責任上当然で、英語とイタリア語でのドヤシであった。僕はとっても悪い気がした。教授は坂を登ってきたので頭から汗を出し目を丸く本気であった。がしばらくして教授は怒りから静まり残りの列と共に地下に進んだ。その後長い列から生徒が途絶えた原因がどうやら少し理解されつつあった。それは列の中程の何人かが懐中電灯を持参せず、その中の一人が黒人の司祭だったのだと・・・何人かの生徒が話しているのを聞くと、黒人の司祭は黒の「アビト」司祭服で複雑で多くの曲がりくねった暗闇の中で外れ足元が見えなくなったのである。と、他の生徒も話していた。教授に大迷惑を掛けた大騒ぎの正本人は誰であれ後方の生徒たちはクスクスガヤガヤ誰かを企んでいるようだった。
ようやく目的地に着くとそこで大きなランプの火が照らされ一瞬に「大理石、石彫彩色石棺や象形文字板」が暗闇の中から飛び出す様に突如目前に現れ、何ともその美しさと素晴らしさに感動してしまった!!これまでの研究では大理石、石棺は自然色の物体が多く、石彫に色彩をほどこした物は初めて見る。驚きとともにまるでアラバスタ石の様にさえ見え美的である大理石への色彩はずいぶん色褪せてはいるがこの日研究で壁画も多々見学する中で感動の連続であった・・・
興奮を全身で受け止めながら思い思いの気持ちを語りながらカタコンベから地上に出て地下の迷路で混乱した学生全体が互いの顔を見合わせるのである。黒人の司祭の出席は確かであったのでまたもや後方の学生がクスクスしているのが聞こえる。初期キリスト教時代の非常に精神性の高い部分の研究にもかかわらず、一部の生徒の中では中々気持ちが静まることが容易ではなかった。今日の素晴らしい授業はいつまでも忘れないと思う。
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2006年12月14日
巨匠マンズー先生との思い出は約18年近くのお付き合いなので語り尽きない。コラムではその一部紹介に過ぎない。No.1Uで紹介不足な点を前後して少し加えることにした。
さて、ROMA郊外アルデェアの丘は敷地が非常に広く中にはオリーブ・レモン・オレンジの木そしてすでに紹介したバラの庭、アトリエ、子供達やエンゲ夫人の為のプールもある。又、制作した作品を石膏形からロウ形鋳造への工房も別棟にある。マンズー先生は1908年、北イタリア・ベルガモに生まれお父様は若い頃から靴職人として働きその12番目の末っ子であった。
大家族なため幼少時代は特に厳しい生活体験を味わったと!1979年出版「巨匠 マンズー作品集」の中で「Dott」G.Barbera.氏が述べている。そして生地ベルガモの時代、生活への葛藤と彫刻の研究で試行錯誤の日々が続き、精神や肉体的過労から1929年にはとうとうそれからの飢えで倒れ身体を悪くしてしまったと云っている。
その後、1930〜1937年を境に日々の努力が実りブロンズ作品(少女)等、イタリア国内で高く評価され、ヨーロッパ、パリ、ニューヨーク等にも発表、国際社会の美術界にその地位を示すように至った。
マンズー独特の表現方法(テクニック)は具像彫刻でありながらその形態の捕え方や表現力の素早さ、感覚には絶妙なものがあり、また仕事に対する姿勢の厳しさも想像では理解しかねる程であった。しかしその反面、普段の生活は非常に明るく楽しい冗談で溢れている人だ。特に先生は美人やエンゲ夫人が近くにいない時は美人や女性に対する冗談話が得意な人であった。僕はさすがそちらの方でも巨匠であると思ったものである。
ある日の事、遊びに伺った際にサロンからは秘書や女性の姿がなかったひと時の事、先生はスーッと立ち上がり素早くどこからか一冊の分厚い本をニコニコしながら手にして来られ、僕の顔を見て「アゴスティノ君、珍しい本を見せましょうか」と云って手渡されたその本が何と「日本の浮世絵春画集」だ!!そして「見てご覧。」であった。
僕の目は皿のようだったかどうかは別として春画集等生まれて初にみる本だ・・・開くと一瞬ドキッと肝をつぶすと云うか・・。しかし興味は大きく広がる一方、突然強烈でドラマティックな画面と出くわした驚きと衝撃は言葉に出せない程であった。先生はますますニコニコ。僕がどの様な表情を見せるか楽しみにされていた様子で大きく笑いながら顔を見て、そのうち「どうだい?」と尋ねられ、僕は「アアッ、と.とても素晴らしいです!」と答えたものの、異常に興奮していた。そしていつエンゲ夫人がサロンに来られるかと気になりゆっくり落ち着いて春画を見ることが出来ず残念であった事を覚えている。
マンズー先生の優しそうな人柄の内にはそんなイタズラ趣味の一面もあって楽しかった。また、先生は普段の生活で時々家庭料理への指示もされ、ご自宅では何度かご馳走にもなったり、「E.U.R」新ローマのレストランでイセエビ、スパゲッティ特注料理をご馳走になった美味しさは特に忘れないし、又アンツイオ海岸に面したレストランでふんだんに食べた海の幸とワインの味も忘れられない思い出となっている。
1986年頃までマンズー先生の生き方を通じて計り知れない貴重で多くの体験をさせて頂いた。素敵な巨匠であった。しかし1987年末頃から度々の連絡にも係らず体調が思わしくないとの理由で中々お会いする時間がなく、自分もローマと日本を往復する機会が多くなり、マンズー先生の明るい人柄、顔、楽しい冗談話とめぐり合う時も無く1991年、83歳で天国に旅立たれたのである。そして30歳以上も年齢の若いエンゲ夫人とジュリアさん、ミレト君を残してである。しかし、今も尚世界の美術界に多大な影響を与え続け次元の高い洗練された美的生命の持ち主であられたことは云うまでもないのである。 おわり
さて、ROMA郊外アルデェアの丘は敷地が非常に広く中にはオリーブ・レモン・オレンジの木そしてすでに紹介したバラの庭、アトリエ、子供達やエンゲ夫人の為のプールもある。又、制作した作品を石膏形からロウ形鋳造への工房も別棟にある。マンズー先生は1908年、北イタリア・ベルガモに生まれお父様は若い頃から靴職人として働きその12番目の末っ子であった。
大家族なため幼少時代は特に厳しい生活体験を味わったと!1979年出版「巨匠 マンズー作品集」の中で「Dott」G.Barbera.氏が述べている。そして生地ベルガモの時代、生活への葛藤と彫刻の研究で試行錯誤の日々が続き、精神や肉体的過労から1929年にはとうとうそれからの飢えで倒れ身体を悪くしてしまったと云っている。
その後、1930〜1937年を境に日々の努力が実りブロンズ作品(少女)等、イタリア国内で高く評価され、ヨーロッパ、パリ、ニューヨーク等にも発表、国際社会の美術界にその地位を示すように至った。
マンズー独特の表現方法(テクニック)は具像彫刻でありながらその形態の捕え方や表現力の素早さ、感覚には絶妙なものがあり、また仕事に対する姿勢の厳しさも想像では理解しかねる程であった。しかしその反面、普段の生活は非常に明るく楽しい冗談で溢れている人だ。特に先生は美人やエンゲ夫人が近くにいない時は美人や女性に対する冗談話が得意な人であった。僕はさすがそちらの方でも巨匠であると思ったものである。
ある日の事、遊びに伺った際にサロンからは秘書や女性の姿がなかったひと時の事、先生はスーッと立ち上がり素早くどこからか一冊の分厚い本をニコニコしながら手にして来られ、僕の顔を見て「アゴスティノ君、珍しい本を見せましょうか」と云って手渡されたその本が何と「日本の浮世絵春画集」だ!!そして「見てご覧。」であった。
僕の目は皿のようだったかどうかは別として春画集等生まれて初にみる本だ・・・開くと一瞬ドキッと肝をつぶすと云うか・・。しかし興味は大きく広がる一方、突然強烈でドラマティックな画面と出くわした驚きと衝撃は言葉に出せない程であった。先生はますますニコニコ。僕がどの様な表情を見せるか楽しみにされていた様子で大きく笑いながら顔を見て、そのうち「どうだい?」と尋ねられ、僕は「アアッ、と.とても素晴らしいです!」と答えたものの、異常に興奮していた。そしていつエンゲ夫人がサロンに来られるかと気になりゆっくり落ち着いて春画を見ることが出来ず残念であった事を覚えている。
マンズー先生の優しそうな人柄の内にはそんなイタズラ趣味の一面もあって楽しかった。また、先生は普段の生活で時々家庭料理への指示もされ、ご自宅では何度かご馳走にもなったり、「E.U.R」新ローマのレストランでイセエビ、スパゲッティ特注料理をご馳走になった美味しさは特に忘れないし、又アンツイオ海岸に面したレストランでふんだんに食べた海の幸とワインの味も忘れられない思い出となっている。
1986年頃までマンズー先生の生き方を通じて計り知れない貴重で多くの体験をさせて頂いた。素敵な巨匠であった。しかし1987年末頃から度々の連絡にも係らず体調が思わしくないとの理由で中々お会いする時間がなく、自分もローマと日本を往復する機会が多くなり、マンズー先生の明るい人柄、顔、楽しい冗談話とめぐり合う時も無く1991年、83歳で天国に旅立たれたのである。そして30歳以上も年齢の若いエンゲ夫人とジュリアさん、ミレト君を残してである。しかし、今も尚世界の美術界に多大な影響を与え続け次元の高い洗練された美的生命の持ち主であられたことは云うまでもないのである。 おわり
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2006年11月17日
さて、マンズー先生の自宅には通常電話で確認を取って訪問している。僕は何かを研究しようと思う目標を考え先生が時間的にOKであれば急いで訪ねると云う事にしていて、いく度も伺う内に(日本での個展等で)大変お世話になっているギャラリー(日動画廊)長谷川夫人をマンズー先生に紹介する事になった。
夫人は初訪問なので非常に楽しみにされていた様だ。ダビンチ空港で長谷川夫人を迎え、一路アルデェアを目指した。マンズー先生とインゲ夫人がにこやかに迎えて下さった。先生はいつもの調子で明るい顔だ。ギャラリー夫人を紹介すると、マンズー先生は、夫人は背も高く美人なので何だかワクワクと嬉しさが見え見えであった。サロンに入ってからも良く見入っておられた。

車の左は大理石の彫刻、エンゲ夫人がモデル
ベンツはエンゲ夫人のもの、ワーゲンは僕の車。えらい違いだ。
入口左は、バラの庭
そして例によっていろいろな話が進み普段はアトリエの見学は許されないが、この度は長谷川夫人の為もあり、「studio.」アトリエを紹介され見学した。非常に広いが入って見ると思ったより雑然としたと云うかさっぱりとしていて作品がほとんど見えない。ねんどの塊と未完の作品が少々と壁面にはデッサンやエンゲ夫人の写真がある等である。コラムでアトリエの写真を紹介できないのが残念だけど・・・その隣に20畳ほどの細長い部屋がありそこには出来上がったブロンズの小品が20点ほど見ることが出来た。
僕はそれらの小品を良く拝見していると、何だか気になりだした。それはマンズー先生の作品から感じるブロンズの質感であった。未熟ながら従来のブロンズ作品から感じる質感とは全く違った物質感であるが材質に関しては秘密かと思った程でブロンズが非常に堅く感じた。先生とは中々タイミングが合わずその日は尋ねる時間がなかった。

左は僕、中央は先生、右はギャラリー夫人
ジャコモ・マンズー先生のサロン
ギャラリー夫人とアトリエからサロンに戻ると、マンズー先生は僕に照れくさそうな顔で実はギャラリー夫人に大変興味を示している・・・と話され、実は彫刻のモデルをお願いできないでしょうかと聞かれた。
それを夫人に伝えると、夫人は初対面の日でもあり少し考えてえたので、僕からも一言、マンズー先生は心からお願いされていることですよ!と伝えると「それでは次の機会にさせていただこうかしら」との答えでモデルが実現する事になった。この日の訪問はギャラリー夫人が少々急ぎでパリに戻られる為、先生とは一時のお別れだ・・・しかし先生は次回夫人の訪問が楽しみですと満足げに話しておられた。
その後一ヶ月近くになろうか、僕が鋳造で通っているROMA・フラミニア工房に行った際、偶然工房にトラックが入りブロンズの塊を床にドッドッドーと落としていた。僕はその時の音(響き)が高く聞こえる事に気付いた。
社長に尋ねると、この「インゴット」ブロンズ材料は全部マンズー先生の鋳造に特別注文されたものだ!と説明してくれた。以前マンズー先生の小品作品から感じていたブロンズ質感の秘密?そして他の作家とはまったく別材である理由が理解できた。
さて話が少し前後してしまったけれど・・・再度ギャラリー夫人がローマに入り、空港からマンズー先生自宅に同行した。先生は大変な歓迎ぶりで生き生きとさえされている様に見える。しかし我々がサロンに入っても中々制作に取り掛かられず何度もサロンの中程を回りながら一言も話されず30〜40分程も経過した。おそらく作品制作の表現を思案されていたのであろう。
そして突如 よーし と。Studioに行こうと云われ長谷川夫人と二人だけにして下さい、とのこと。僕はサロンに留まり待つ事にした・マンズー先生は普段であればユーモアで楽しい冗談の多い人柄にも係わらずまるで人が変わった様に・・・作品に取り掛かられる際は厳しい表情だった。作品への思いのようなものを全身で感じ集中されていたのであろう・・・。そして一時間余りの後、作品が出来たとの知らせで僕も別棟アトリエに行き拝見した。
するとみごとに長谷川夫人の顔がねんど型作品として目の前に立っているではないか・・・一瞬驚きと共に短時間と云う速さ・・・すごい・・・その制作ぶりを想像すると僕はあいた口がしまらない思いであった。素晴らしい表現力だと感じた。
それはまさに、ジャコモ・マンズー表現の世界であると思った。そして制作の後、先生は明るい表情で話され満足な様だった。(この後にもマンズー先生はギャラリー夫人を何度か制作されている)さて僕がこの日に感じたことはマンズー先生の制作意欲の世界ではおそらくねんど型に取りかかる以前の時間的プロセスの中で既に造形の方向へと素早く形に変化したと考えると、その技はまるでマジシャンの様にさえ感じるのであった。(当時の日記より) つづく
夫人は初訪問なので非常に楽しみにされていた様だ。ダビンチ空港で長谷川夫人を迎え、一路アルデェアを目指した。マンズー先生とインゲ夫人がにこやかに迎えて下さった。先生はいつもの調子で明るい顔だ。ギャラリー夫人を紹介すると、マンズー先生は、夫人は背も高く美人なので何だかワクワクと嬉しさが見え見えであった。サロンに入ってからも良く見入っておられた。

車の左は大理石の彫刻、エンゲ夫人がモデル
ベンツはエンゲ夫人のもの、ワーゲンは僕の車。えらい違いだ。
入口左は、バラの庭
そして例によっていろいろな話が進み普段はアトリエの見学は許されないが、この度は長谷川夫人の為もあり、「studio.」アトリエを紹介され見学した。非常に広いが入って見ると思ったより雑然としたと云うかさっぱりとしていて作品がほとんど見えない。ねんどの塊と未完の作品が少々と壁面にはデッサンやエンゲ夫人の写真がある等である。コラムでアトリエの写真を紹介できないのが残念だけど・・・その隣に20畳ほどの細長い部屋がありそこには出来上がったブロンズの小品が20点ほど見ることが出来た。
僕はそれらの小品を良く拝見していると、何だか気になりだした。それはマンズー先生の作品から感じるブロンズの質感であった。未熟ながら従来のブロンズ作品から感じる質感とは全く違った物質感であるが材質に関しては秘密かと思った程でブロンズが非常に堅く感じた。先生とは中々タイミングが合わずその日は尋ねる時間がなかった。

左は僕、中央は先生、右はギャラリー夫人
ジャコモ・マンズー先生のサロン
ギャラリー夫人とアトリエからサロンに戻ると、マンズー先生は僕に照れくさそうな顔で実はギャラリー夫人に大変興味を示している・・・と話され、実は彫刻のモデルをお願いできないでしょうかと聞かれた。
それを夫人に伝えると、夫人は初対面の日でもあり少し考えてえたので、僕からも一言、マンズー先生は心からお願いされていることですよ!と伝えると「それでは次の機会にさせていただこうかしら」との答えでモデルが実現する事になった。この日の訪問はギャラリー夫人が少々急ぎでパリに戻られる為、先生とは一時のお別れだ・・・しかし先生は次回夫人の訪問が楽しみですと満足げに話しておられた。
その後一ヶ月近くになろうか、僕が鋳造で通っているROMA・フラミニア工房に行った際、偶然工房にトラックが入りブロンズの塊を床にドッドッドーと落としていた。僕はその時の音(響き)が高く聞こえる事に気付いた。
社長に尋ねると、この「インゴット」ブロンズ材料は全部マンズー先生の鋳造に特別注文されたものだ!と説明してくれた。以前マンズー先生の小品作品から感じていたブロンズ質感の秘密?そして他の作家とはまったく別材である理由が理解できた。
さて話が少し前後してしまったけれど・・・再度ギャラリー夫人がローマに入り、空港からマンズー先生自宅に同行した。先生は大変な歓迎ぶりで生き生きとさえされている様に見える。しかし我々がサロンに入っても中々制作に取り掛かられず何度もサロンの中程を回りながら一言も話されず30〜40分程も経過した。おそらく作品制作の表現を思案されていたのであろう。
そして突如 よーし と。Studioに行こうと云われ長谷川夫人と二人だけにして下さい、とのこと。僕はサロンに留まり待つ事にした・マンズー先生は普段であればユーモアで楽しい冗談の多い人柄にも係わらずまるで人が変わった様に・・・作品に取り掛かられる際は厳しい表情だった。作品への思いのようなものを全身で感じ集中されていたのであろう・・・。そして一時間余りの後、作品が出来たとの知らせで僕も別棟アトリエに行き拝見した。
するとみごとに長谷川夫人の顔がねんど型作品として目の前に立っているではないか・・・一瞬驚きと共に短時間と云う速さ・・・すごい・・・その制作ぶりを想像すると僕はあいた口がしまらない思いであった。素晴らしい表現力だと感じた。
それはまさに、ジャコモ・マンズー表現の世界であると思った。そして制作の後、先生は明るい表情で話され満足な様だった。(この後にもマンズー先生はギャラリー夫人を何度か制作されている)さて僕がこの日に感じたことはマンズー先生の制作意欲の世界ではおそらくねんど型に取りかかる以前の時間的プロセスの中で既に造形の方向へと素早く形に変化したと考えると、その技はまるでマジシャンの様にさえ感じるのであった。(当時の日記より) つづく
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2006年11月02日
日本の知人からローマに連絡があり20世紀巨匠の一人ジヤコモ・マンズー氏にお会いしたいので紹介と通訳を願い出来ないでしょうかとの事であった。そこで僕でよければと伝えた。少し考えて見ると以前、日本にいる頃から感心を抱いていた巨匠の一人でお会い出来るとは夢の様でもあり重要なことでもありすぐに引き受けることにした。
その後、興奮気味でマンズー先生自宅に電話で訪問可能か否か確かめて見ることにした。期日予約時間を考え秘書の方に電話をすると、その秘書とはマンズー先生のご夫人であった。ご自分から名乗られたので一瞬びっくりした。夫人は何となく切れの良いイタリア語での応答を受け明快な感じもした。訪問の目的を説明すると、即 O・Kであった。
さて、G・マンズー先生は北イタリアミラノ近郊(ベルガモ)に生まれ、以後20世紀の世界的具像彫刻家の一人である。イタリアには他にマリノ・マリーニ、ペエリクレ・フアツッイニ、エミリオ・グレコ 等と共に有名である。僕が以前日本で見たマンズー先生の作品集ではとても自然で自由、豊かな形態のとらえ方と微妙なテクニックの表現をされる作家のように感じていた。
そして、訪問当日は小さいけれどワーゲン車で自宅に向かった。ローマ市内からやや南に45km程であろうか、アルデエアと云う町である。緑の多い小高い丘を見て左にぐるりと回ると左に自動扉の門が見えベルを押してググと扉が開き坂道を少し登ると、バラの庭が広がり自宅の前にたどり着く。先生と秘書らしき女性が迎えてくださった。巨匠とは初対面で緊張のうえ興奮気味であった。巨匠は少し丸体系だが健康そうで明るくちょっとユーモアな感じの方だ。
正面玄関に入るとT字形の台の上にはブロンズ作品が2〜3点と壁面には日本の浮世絵が4〜5枚展示されていた。マンズー先生は日本文化にも関心を持たれていると思うと嬉しかった。そしてサロンに回る。50畳程もあろうか広々として美しく整っていた。サロンにも彫刻は勿論18〜19世紀、世界の名画が数枚飾られていた。さすが・・と驚く・・僕はそこでハイクラスの作家は世界のハイレベルの名画にも精通理解されていることに感激であった。
さて、訪問者の方との会話も終わったのでマンズー先生は近くの美術館を是非ご覧下さいとのこと。我々も見学予定であったが、先生は美術館ではエンゲ夫人が待っているからと云われ向かってみると夫人が明るくにこやかに迎えて下さった。大変緊張したが素晴らしく魅力的な女性である。さすがマンズーさんが選んだ美人女性であるとおもった。夫人はどうぞ、と館内を案内してくださる。後に知った事で、マンズー夫人はドイツ人のバレリーナであった際、その美しさに巨匠はぞっこんであったと聞く・・・
美術館内の作品の中にはエンゲ夫人がモデルの女性像、胸像、枢機卿や輪の中で遊ぶ子供たち他、多くの作品を拝見できた。1950年〜1960年代代表作も展示されていて伸びやかなテクニックで自由な表現には心打たれ満足感に満たされた時の喜びは忘れない。その一方、全然別の個性と発想の世界を満たす表現と制作をされているファツッイニ教授に学んでいる自分にとってはマンズー先生の生き方にも興味や関心がある。いろいろ尋ねてみたい事も多い。
そんな中で巨匠たちの持つ特長として感じたのは気さくで気取らず共通して寛容な人柄が素晴らしいと思った事が二人の巨匠にある顔かと思うと、マンズー先生にお会いした一日が貴重でたまらない思い出である。僕は少し生意気とは思ったけれどこの度の訪問を機会にマンズー先生のアルデエア美術館とご自宅(アトリエ)には度々訪ねることになる。
1967年秋 つづく
その後、興奮気味でマンズー先生自宅に電話で訪問可能か否か確かめて見ることにした。期日予約時間を考え秘書の方に電話をすると、その秘書とはマンズー先生のご夫人であった。ご自分から名乗られたので一瞬びっくりした。夫人は何となく切れの良いイタリア語での応答を受け明快な感じもした。訪問の目的を説明すると、即 O・Kであった。
さて、G・マンズー先生は北イタリアミラノ近郊(ベルガモ)に生まれ、以後20世紀の世界的具像彫刻家の一人である。イタリアには他にマリノ・マリーニ、ペエリクレ・フアツッイニ、エミリオ・グレコ 等と共に有名である。僕が以前日本で見たマンズー先生の作品集ではとても自然で自由、豊かな形態のとらえ方と微妙なテクニックの表現をされる作家のように感じていた。
そして、訪問当日は小さいけれどワーゲン車で自宅に向かった。ローマ市内からやや南に45km程であろうか、アルデエアと云う町である。緑の多い小高い丘を見て左にぐるりと回ると左に自動扉の門が見えベルを押してググと扉が開き坂道を少し登ると、バラの庭が広がり自宅の前にたどり着く。先生と秘書らしき女性が迎えてくださった。巨匠とは初対面で緊張のうえ興奮気味であった。巨匠は少し丸体系だが健康そうで明るくちょっとユーモアな感じの方だ。
正面玄関に入るとT字形の台の上にはブロンズ作品が2〜3点と壁面には日本の浮世絵が4〜5枚展示されていた。マンズー先生は日本文化にも関心を持たれていると思うと嬉しかった。そしてサロンに回る。50畳程もあろうか広々として美しく整っていた。サロンにも彫刻は勿論18〜19世紀、世界の名画が数枚飾られていた。さすが・・と驚く・・僕はそこでハイクラスの作家は世界のハイレベルの名画にも精通理解されていることに感激であった。
さて、訪問者の方との会話も終わったのでマンズー先生は近くの美術館を是非ご覧下さいとのこと。我々も見学予定であったが、先生は美術館ではエンゲ夫人が待っているからと云われ向かってみると夫人が明るくにこやかに迎えて下さった。大変緊張したが素晴らしく魅力的な女性である。さすがマンズーさんが選んだ美人女性であるとおもった。夫人はどうぞ、と館内を案内してくださる。後に知った事で、マンズー夫人はドイツ人のバレリーナであった際、その美しさに巨匠はぞっこんであったと聞く・・・
美術館内の作品の中にはエンゲ夫人がモデルの女性像、胸像、枢機卿や輪の中で遊ぶ子供たち他、多くの作品を拝見できた。1950年〜1960年代代表作も展示されていて伸びやかなテクニックで自由な表現には心打たれ満足感に満たされた時の喜びは忘れない。その一方、全然別の個性と発想の世界を満たす表現と制作をされているファツッイニ教授に学んでいる自分にとってはマンズー先生の生き方にも興味や関心がある。いろいろ尋ねてみたい事も多い。
そんな中で巨匠たちの持つ特長として感じたのは気さくで気取らず共通して寛容な人柄が素晴らしいと思った事が二人の巨匠にある顔かと思うと、マンズー先生にお会いした一日が貴重でたまらない思い出である。僕は少し生意気とは思ったけれどこの度の訪問を機会にマンズー先生のアルデエア美術館とご自宅(アトリエ)には度々訪ねることになる。
1967年秋 つづく
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2006年10月20日
さて毎朝下宿を出ると目前には愛車が駐車している。横目で見ながら よっ とにこっとして学校に出かけるのである。そして午後帰宅すると、またもやワーゲン車が目に入る。その度に試乗してみたくてうずうずする自分がいる。その内またもや自分の意思に負け、少しばかり乗るつもりが並木の坂道を下りだした。聖バスティアーノ教会の前ほどまで下ると、これ以上下りては良くないと思い急ぎバックで帰ろうとした事がいけなかったのか…瞬間、並木の一本にドスンと大きな音響と共に衝突し止ってしまった。
ワーゲンと共に。古代ローマの石引きの道。後ろはコロッセロ。
その木はパラティーの丘、世界遺産の中の街路樹の一本である。大変な事をした!!一瞬目から火が出たと云うか頭もなんだかガクガクする。大木も車体も気になり急ぎ後方を車輪左を見ると衝突した木の皮がひどくえぐれ愛車の左バンパーもつぶれ車が動きにくくなっていた。何とも衝撃的なことである。誰も見ていない事が幸いとはいえ有名な聖バスティアーノがD.C228年に殉教した場所の道でもある…
友人アルベルトに電話をして急ぎ来てもらった。彼によると後方車輪の芯棒がやや曲がっているかも?と云うが、自分には良く理解出来ぬ。しかし、車を少しずつ走らせMECCANICO修理工場でお世話になる羽目となった。本当にアホな事をしたものだ。
しかも無免許だ!一週間後車が修理から戻ると又懲りず、今度はピンクカード(仮免)で市内に出て乗り回していた。その時は免許証を受ける前日とも気が付いてもいない。その夕刻の帰り道、聖ヨハネ広場でローマ市警察に止められてしまった。そしてポリさんからは仮免では絶対に運転してはいけないのである…と散々注意を受け、これは大変な事と体が緊張していたが幸いに優しいおまわりさんだったのか気をつけて帰る様にと許してくれた。反省、反省である。
翌日1967年、6月29日、待ちに待ったイタリア国の免許証をテエスティニ教習所より渡され取得した。
イタリア免許証の表紙
免許証の中。今はE.Uになっています。
さて一安心、次の週、夏休みを待つ間もなく友人達とローマ校外に出る。高速道路を南に下り、ナポリ、ポンペエイ、ソレントまで遠出となった。ソレントは例の「帰れソレント」(ナポリ民謡)で知られる海の美しい町である。丁度ソレントに学生時代の友人もいるので訪ねて見ることにし、しばらくぶりに楽しい会話であった。
ドライブは往復450km以上になるが苦にもならずソレントの海で泳いだりその帰り道にポンペエイの古代遺跡やエルコラーノ遺跡等の見学をする。これ以来、何度となく興味深く見学に訪れ、ポンペエイ遺跡があれ程次元の高い歴史を語り伝えていると云う重大さをつくづく感じた時でもあった。その他ナポリの国立考古学博物館も素晴らしく偉大な古代文化が自由に見学出来ると思うと感動の連続でもありナポリを訪ねる時は必ず見たくなる博物館の一つである。特にポンペエイからの発掘品やローマ、ギリシア時代の彫刻他多くの美術品が堪能でき、多くの満足感を受け心嬉しくなる場所でもある。
週一度のドライブが遊び等で終わらず愛車を有意義に利用する方向へと目的を新たに考え心掛ける機会でもあったのか・・・そして次の目的は、ローマ市の北方ヴィテェルボ周辺地域に広がるエトルリア文化にも興味感心が高まり一人で見学に通い続け博物館や地下の壁画等も非常に心引かれ、後にはとうとう考古学の研究も進めて見たくなる。等々からローマの生活も非常に計画的となり時間の許す限り一ヶ月間に10日ほどのアルバイトを受け、後は自分に重要な蝋形彫刻やデッサン等の研究を進めてバイトによる入金は本を購入する事と、思いの骨董品(古代)を買って見たりもした。
そしてとうとう考古学の研究の為にローマ大学に行きいろいろと調べてみた結果、後にヴァチカン国立キリスト教考古学を学ぶことに決めた。しかし、自分には少々比重が高いかとも気になるが一応1968年から市内ナポレオンV世通りに通う入学手続き書類の提出をし挑戦して見ることにした。
いろいろな事を考えると、やはりイタリア在住中でなければ研究出来ないことばかりが多く体がいくつあっても足りないと思う日々が現実でもあったように思う。
よくばりと云えばその通りで多忙にも係らず冬には晴々とした雪山に心引かれ友人達とスキーにも行き、多くの思い出が沢山積もっている。
つづく
その木はパラティーの丘、世界遺産の中の街路樹の一本である。大変な事をした!!一瞬目から火が出たと云うか頭もなんだかガクガクする。大木も車体も気になり急ぎ後方を車輪左を見ると衝突した木の皮がひどくえぐれ愛車の左バンパーもつぶれ車が動きにくくなっていた。何とも衝撃的なことである。誰も見ていない事が幸いとはいえ有名な聖バスティアーノがD.C228年に殉教した場所の道でもある…
友人アルベルトに電話をして急ぎ来てもらった。彼によると後方車輪の芯棒がやや曲がっているかも?と云うが、自分には良く理解出来ぬ。しかし、車を少しずつ走らせMECCANICO修理工場でお世話になる羽目となった。本当にアホな事をしたものだ。
しかも無免許だ!一週間後車が修理から戻ると又懲りず、今度はピンクカード(仮免)で市内に出て乗り回していた。その時は免許証を受ける前日とも気が付いてもいない。その夕刻の帰り道、聖ヨハネ広場でローマ市警察に止められてしまった。そしてポリさんからは仮免では絶対に運転してはいけないのである…と散々注意を受け、これは大変な事と体が緊張していたが幸いに優しいおまわりさんだったのか気をつけて帰る様にと許してくれた。反省、反省である。
翌日1967年、6月29日、待ちに待ったイタリア国の免許証をテエスティニ教習所より渡され取得した。
さて一安心、次の週、夏休みを待つ間もなく友人達とローマ校外に出る。高速道路を南に下り、ナポリ、ポンペエイ、ソレントまで遠出となった。ソレントは例の「帰れソレント」(ナポリ民謡)で知られる海の美しい町である。丁度ソレントに学生時代の友人もいるので訪ねて見ることにし、しばらくぶりに楽しい会話であった。
ドライブは往復450km以上になるが苦にもならずソレントの海で泳いだりその帰り道にポンペエイの古代遺跡やエルコラーノ遺跡等の見学をする。これ以来、何度となく興味深く見学に訪れ、ポンペエイ遺跡があれ程次元の高い歴史を語り伝えていると云う重大さをつくづく感じた時でもあった。その他ナポリの国立考古学博物館も素晴らしく偉大な古代文化が自由に見学出来ると思うと感動の連続でもありナポリを訪ねる時は必ず見たくなる博物館の一つである。特にポンペエイからの発掘品やローマ、ギリシア時代の彫刻他多くの美術品が堪能でき、多くの満足感を受け心嬉しくなる場所でもある。
週一度のドライブが遊び等で終わらず愛車を有意義に利用する方向へと目的を新たに考え心掛ける機会でもあったのか・・・そして次の目的は、ローマ市の北方ヴィテェルボ周辺地域に広がるエトルリア文化にも興味感心が高まり一人で見学に通い続け博物館や地下の壁画等も非常に心引かれ、後にはとうとう考古学の研究も進めて見たくなる。等々からローマの生活も非常に計画的となり時間の許す限り一ヶ月間に10日ほどのアルバイトを受け、後は自分に重要な蝋形彫刻やデッサン等の研究を進めてバイトによる入金は本を購入する事と、思いの骨董品(古代)を買って見たりもした。
そしてとうとう考古学の研究の為にローマ大学に行きいろいろと調べてみた結果、後にヴァチカン国立キリスト教考古学を学ぶことに決めた。しかし、自分には少々比重が高いかとも気になるが一応1968年から市内ナポレオンV世通りに通う入学手続き書類の提出をし挑戦して見ることにした。
いろいろな事を考えると、やはりイタリア在住中でなければ研究出来ないことばかりが多く体がいくつあっても足りないと思う日々が現実でもあったように思う。
よくばりと云えばその通りで多忙にも係らず冬には晴々とした雪山に心引かれ友人達とスキーにも行き、多くの思い出が沢山積もっている。
つづく
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2006年10月05日
ローマの美術学校卒業後も、同校の自由課に再度通い基礎研究を続ける。その他教授のアトリエにも迷惑しない教室とはいえ結構頻繁に通ってロウ彫刻の研究をさせてもらった。その一方でバイトの通訳も生活の為いろいろ試した。又、教授の木彫レリーフ(IL.SOLGO)の手傅もする毎日で多忙である。
しかし、以前と違う生活の変化を言えば下宿コロッセオ近くVIA.S.LATERANO通りにあるサンティニ自動車普通免許の教室(学校)に通い始めたことである。そこは細長い教室で中には乗用車のメカニック模型や、その図面があり側面には眼科用の視力検査表等もある。僕は日本で自動車に関する経験はゼロで、この教室は初体験である。教室は赤ら顔でやや丸太りの男性、テエシテイニ氏がオーナーで講師でもある。日本人の生徒が始めてのようで、結構親切にしてくれた。小さな教本をもとに毎日1時間づつ教えている。そして、本人が良ければ、2〜3日目から運転の実技を始めると言うので僕は3日目から予約を取り、始めることになった。日本では自動車教習所の中に広い運転教習場もある)が、イタリアではその様な設備はなく学課の講習が始まると、やや同時期に実技運転も進められる。実技は一応8時間で終了し、その時間内にマスターすれば良いとの事だ。そして、予約初日の午後初めて車という動くものの運転をする。すると、大変なことに最初からローマ市内から新ローマ(E.U.R)の公道に出ての練習である。驚いて絶句してしまった。助手席には指導者が乗っているが、しかし、全身が硬くなる。車の左右はビュービュー他の車が走り抜ける。なんだか身体の左側半分が時には削られるのではと思う程に怖いのである。なんてこったろうと思いながら、ちょろちょろと運転しているとコーチがもう少し速く走る様と進めるのがとてもその気にはなれない、やはり怖いのだ!イタリア人は昔からスピード狂で市内の少しでも広い路は飛ぶかのような運転を好むと聞くがその通りだ。
また、市内の普通車は結構キズだらけのものも少なくない。キズのない車は公用車か高級車であろう。日本のようにいいつもピッカピカの洗車はあまりしないようだ。助手席では、アクセルを踏めと言う。それには自分は大変な決心が必要だった。そのうちに額や、ハンドルを握る手は汗ばんでいることに気付く。非常に硬くハンドルを握りガチガチで、体も角張っていたかもしれない。練習車から降りて手のひらをみると、水豆!!が一個出来ていた。まったく、想像外の驚きであった。こんなことを友人たちに話したらきっと笑いの種にされると思い自分ながら、口止めにしておいた。その後、3〜4回目頃から全体的な感覚も少しずつ良くなりだした。
そして、練習中も専門語等少しずつ覚え、時間が進むにつれ実技は楽しくさえ感じる程であった。初日のあの怖さは何だったのか...とおもった。イタリア人並みの免許証の取得は何故に多くの困難を乗り越えなければいけないのかと、つくづく考えされられたりもした。
そうこうしているうちに、自分が教習に通うことが友人達に知れ、その一人、ロンゴ神父さんがどこか回りまわって一台の中古車ワーゲンを見つけたと知らせてきたので、買えるの?と聞いてみた。ロンゴ神父だから一応信用して自分の買える状況を伝えると、どうぞとの返事なので、買うことに決めた。数日後、友人アルベルトと共に車を受け取りに行く。彼の運転で車が下宿に届く。白いワーゲン(例のカブトムシ型)だ。毎日車を見ていると何だか興奮気味になる。運転を試みたくてたまらないのである。しかし、運転免許はナシだ。でも、なんだか少しばかりでも試してみたい…とうとう違反とは知りながら自分の意思の弱さに負けて、下宿前の道は行き止まりなので、試してみる。ドッドッドと力強く響くワーゲンの車の音がえらく気に入った。そして、実技の8時間も無事クリアしたし、もう少しで全体の試験だ。一日も早く自分の車を乗り回したいものだ。 つづく
しかし、以前と違う生活の変化を言えば下宿コロッセオ近くVIA.S.LATERANO通りにあるサンティニ自動車普通免許の教室(学校)に通い始めたことである。そこは細長い教室で中には乗用車のメカニック模型や、その図面があり側面には眼科用の視力検査表等もある。僕は日本で自動車に関する経験はゼロで、この教室は初体験である。教室は赤ら顔でやや丸太りの男性、テエシテイニ氏がオーナーで講師でもある。日本人の生徒が始めてのようで、結構親切にしてくれた。小さな教本をもとに毎日1時間づつ教えている。そして、本人が良ければ、2〜3日目から運転の実技を始めると言うので僕は3日目から予約を取り、始めることになった。日本では自動車教習所の中に広い運転教習場もある)が、イタリアではその様な設備はなく学課の講習が始まると、やや同時期に実技運転も進められる。実技は一応8時間で終了し、その時間内にマスターすれば良いとの事だ。そして、予約初日の午後初めて車という動くものの運転をする。すると、大変なことに最初からローマ市内から新ローマ(E.U.R)の公道に出ての練習である。驚いて絶句してしまった。助手席には指導者が乗っているが、しかし、全身が硬くなる。車の左右はビュービュー他の車が走り抜ける。なんだか身体の左側半分が時には削られるのではと思う程に怖いのである。なんてこったろうと思いながら、ちょろちょろと運転しているとコーチがもう少し速く走る様と進めるのがとてもその気にはなれない、やはり怖いのだ!イタリア人は昔からスピード狂で市内の少しでも広い路は飛ぶかのような運転を好むと聞くがその通りだ。
また、市内の普通車は結構キズだらけのものも少なくない。キズのない車は公用車か高級車であろう。日本のようにいいつもピッカピカの洗車はあまりしないようだ。助手席では、アクセルを踏めと言う。それには自分は大変な決心が必要だった。そのうちに額や、ハンドルを握る手は汗ばんでいることに気付く。非常に硬くハンドルを握りガチガチで、体も角張っていたかもしれない。練習車から降りて手のひらをみると、水豆!!が一個出来ていた。まったく、想像外の驚きであった。こんなことを友人たちに話したらきっと笑いの種にされると思い自分ながら、口止めにしておいた。その後、3〜4回目頃から全体的な感覚も少しずつ良くなりだした。
そして、練習中も専門語等少しずつ覚え、時間が進むにつれ実技は楽しくさえ感じる程であった。初日のあの怖さは何だったのか...とおもった。イタリア人並みの免許証の取得は何故に多くの困難を乗り越えなければいけないのかと、つくづく考えされられたりもした。
そうこうしているうちに、自分が教習に通うことが友人達に知れ、その一人、ロンゴ神父さんがどこか回りまわって一台の中古車ワーゲンを見つけたと知らせてきたので、買えるの?と聞いてみた。ロンゴ神父だから一応信用して自分の買える状況を伝えると、どうぞとの返事なので、買うことに決めた。数日後、友人アルベルトと共に車を受け取りに行く。彼の運転で車が下宿に届く。白いワーゲン(例のカブトムシ型)だ。毎日車を見ていると何だか興奮気味になる。運転を試みたくてたまらないのである。しかし、運転免許はナシだ。でも、なんだか少しばかりでも試してみたい…とうとう違反とは知りながら自分の意思の弱さに負けて、下宿前の道は行き止まりなので、試してみる。ドッドッドと力強く響くワーゲンの車の音がえらく気に入った。そして、実技の8時間も無事クリアしたし、もう少しで全体の試験だ。一日も早く自分の車を乗り回したいものだ。 つづく
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2006年09月21日
ローマ在JALオフィスから連絡があり南イタリア行きの通知を受ける。通訳のアルバイトである。これはイタリア政府南イタリア開発事業計画の一貫としてカタニア市カタニア鉄工業に関する仕事で日本企業から丸紅工業の技術者が指導に来ると云うもので、一週間程の予定である。イタリア四年目初のシシリ島への旅である。ローマからカターニア空港に着きイタリア人が迎えに来る。仕事は翌日から始まる。
第一日目、カターナ鉄工に行き日本技術者Y氏の紹介を受ける。小柄で職人的な人であった。初日から細かい技術指導の計画がなされている。この工場は非常に大きく学校の講堂の2倍程もあり天井も高い工場で不況の為か経営が進んでなく再鉄溶鉱炉は一機も使われてなくて、荒れ果てている。その内一機の溶鉱炉を使って再鉄溶鉱炉技術の指導を日本的な方法によって作業を行う。普通の会話と共にY氏の技術指導が次々と進む。
僕にとっては場違いの作業で鉄工業と云う専門語通訳も中々大変ではあったが他の職業の世界を知る事も興味深い。特別な事も起きずややスムースに通訳も進み一応一安心であった。そして数日後カターニア大学の工学部教授S氏も見学に見える等、その日は皆さんと夕食を共にしシシリ島の美味な魚介料理を数々いただいた。海の幸の味は新鮮で格別であった。また、シシリ島での知人はローマの知人と違う明るさと雰囲気を持ち会わせていて歴史や文化の話がとっても楽しい思い出となった。
通訳の一週間が飛ぶように進み市内見学も出来ないと思っていたが少々の観光は博物館とお城等でカターニア市内には自分思いの歴史的なものが少なかった。そこで市外に残るローマ時代後期ピアッツア・アルメリーナの有名なモザイクを見学に出発した。しかし近くまで行くと先日の豪雨被害で道路が渡れず残念ながら途中から引き返す結果となる。シシリ島はギリシアに並ぶ古代文明の宝庫だ。再度この島に戻ることを肝にめいじ無事に通訳の仕事も終わりローマに帰る。
その同年6月好運にも再度シシリ島行きが起きた。それは日本で大変お世話になっているKご夫妻がどうしてもシシリ島の有名な「ビザンチン時代」モンレアーレ教会モザイクを是非見学したいので同行してほしいとのことであった。自分にとっては又とない機会でラッキーと云えばその通りで前回丸紅産業の通訳とは別の地域だ。
2度目のシシリ島は、パレルモ市で歴史的遺産も多く素晴らしい都市と聞いているので楽しみである。ローマからパレルモ空港に着きホテルに入り少し休み、即、車でモンレアーレ教会に行く。市内から約8kmの町でバジリカ様式の教会、そして12から13世紀の目を疑う程素晴らく輝かしい円天井や側面を蓋っているモザイクは、旧、新約聖書の内容がみごとに表現されている。モザイクには2つの技術的マテリアがある。

モンレアーレ教会
その歴史の一つは古代ローマ時代の自然石と自然色による表現、二つ目はいわゆるビザンチン時代(ラヴェンナ市等)が中心の人工的材質によるモザイクである。モザイクはもとより教会回廊や中庭も印象的で南イタリア唯一美しく優れた教会美術であると思う。後日パレルモ近郊の歴史的な遺跡を見学。ソルント、セジェスタ、セリヌンテ等、中でもセジェスタは周囲が深い谷間に囲まれて、小高い丘に立つドリア式神殿で、前430年、何とも言葉に出来ない程優美で純粋な古代建築美である。

セリヌンテ遺跡
又、小道を2km近く登った別の丘には古代劇場遺跡が残る。その半円形劇場は自然の地形を正当に活用し調和のとれた劇場はまるで地中海の風に乗って仄かな響きが聞こえるような雰囲気の丘だ。前方が(地中海)も一望出来て素晴らしい。

セジェスタ遺跡 古代ローマ劇場 前方は地中海
シシリ島にはもっと自由な時間で多くの古代地中海文明を満遍無く心に留めるため改めて研究に来たいと思う程魅力的な都市である。Kご夫妻は大変に満足されたので嬉しく思ったシシリアの旅でした。
第一日目、カターナ鉄工に行き日本技術者Y氏の紹介を受ける。小柄で職人的な人であった。初日から細かい技術指導の計画がなされている。この工場は非常に大きく学校の講堂の2倍程もあり天井も高い工場で不況の為か経営が進んでなく再鉄溶鉱炉は一機も使われてなくて、荒れ果てている。その内一機の溶鉱炉を使って再鉄溶鉱炉技術の指導を日本的な方法によって作業を行う。普通の会話と共にY氏の技術指導が次々と進む。
僕にとっては場違いの作業で鉄工業と云う専門語通訳も中々大変ではあったが他の職業の世界を知る事も興味深い。特別な事も起きずややスムースに通訳も進み一応一安心であった。そして数日後カターニア大学の工学部教授S氏も見学に見える等、その日は皆さんと夕食を共にしシシリ島の美味な魚介料理を数々いただいた。海の幸の味は新鮮で格別であった。また、シシリ島での知人はローマの知人と違う明るさと雰囲気を持ち会わせていて歴史や文化の話がとっても楽しい思い出となった。
通訳の一週間が飛ぶように進み市内見学も出来ないと思っていたが少々の観光は博物館とお城等でカターニア市内には自分思いの歴史的なものが少なかった。そこで市外に残るローマ時代後期ピアッツア・アルメリーナの有名なモザイクを見学に出発した。しかし近くまで行くと先日の豪雨被害で道路が渡れず残念ながら途中から引き返す結果となる。シシリ島はギリシアに並ぶ古代文明の宝庫だ。再度この島に戻ることを肝にめいじ無事に通訳の仕事も終わりローマに帰る。
その同年6月好運にも再度シシリ島行きが起きた。それは日本で大変お世話になっているKご夫妻がどうしてもシシリ島の有名な「ビザンチン時代」モンレアーレ教会モザイクを是非見学したいので同行してほしいとのことであった。自分にとっては又とない機会でラッキーと云えばその通りで前回丸紅産業の通訳とは別の地域だ。
2度目のシシリ島は、パレルモ市で歴史的遺産も多く素晴らしい都市と聞いているので楽しみである。ローマからパレルモ空港に着きホテルに入り少し休み、即、車でモンレアーレ教会に行く。市内から約8kmの町でバジリカ様式の教会、そして12から13世紀の目を疑う程素晴らく輝かしい円天井や側面を蓋っているモザイクは、旧、新約聖書の内容がみごとに表現されている。モザイクには2つの技術的マテリアがある。

モンレアーレ教会
その歴史の一つは古代ローマ時代の自然石と自然色による表現、二つ目はいわゆるビザンチン時代(ラヴェンナ市等)が中心の人工的材質によるモザイクである。モザイクはもとより教会回廊や中庭も印象的で南イタリア唯一美しく優れた教会美術であると思う。後日パレルモ近郊の歴史的な遺跡を見学。ソルント、セジェスタ、セリヌンテ等、中でもセジェスタは周囲が深い谷間に囲まれて、小高い丘に立つドリア式神殿で、前430年、何とも言葉に出来ない程優美で純粋な古代建築美である。

セリヌンテ遺跡
又、小道を2km近く登った別の丘には古代劇場遺跡が残る。その半円形劇場は自然の地形を正当に活用し調和のとれた劇場はまるで地中海の風に乗って仄かな響きが聞こえるような雰囲気の丘だ。前方が(地中海)も一望出来て素晴らしい。

セジェスタ遺跡 古代ローマ劇場 前方は地中海
シシリ島にはもっと自由な時間で多くの古代地中海文明を満遍無く心に留めるため改めて研究に来たいと思う程魅力的な都市である。Kご夫妻は大変に満足されたので嬉しく思ったシシリアの旅でした。
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2006年09月07日
エルバ島刑務所慰問で囚人たちの生活態度を切れ間なく語り続けるGさんの刑期等に関しては前回のコラムでも話したように23年である。
この収容所が世界的に有名な理由は終身刑者の多いことであり、その囚人たちの中で一人の人間として生きていくこと自体Gさんにとっては毎日が恐怖感と向き合う生活で、時には生きる希望を失う程であると云う彼は入所当時一点として、生活の変化に対応不便が多く他の囚人らとのコミュニケーションがとれず苦しみ、精神的な疲れに悩まされたという。
また、獄中では度々囚人達の口論や喧嘩が絶えず、その様な囚人とは目も合わせぬよう部屋の隅で小さく過ごす日も多々あったと…。しかし囚人らでの小さな出来事でも獄中では大事件に膨らんだり無理やりその事件に取込まれたり、また闇討ちにも終身刑者達は自分より刑の少ない囚人に対し無暗にも罪を背わせる行為に走り事件を起こし、その上獄中での殺人までに至る時もあるという。
それらの事件に少しでも加担したりするとその囚人の刑期が長期化し厳しさが増す。そして獄中での人間関係には生命への判断や理性感、論理感等到底不可能な世界であると…。また、前期のように終身刑は自己の刑を知った上で尚悪事を広げ短期間受刑者を長期間受刑者に仕立てる事を楽しむようにしている病的囚人も存在し、その様な最悪囚人には刑務的にも已むを得ず(暗室)独房入りを余儀なくされ、尚、身心に回心なき囚人には凶悪者として特別囚刑者として意図的か少しづつ体力低下に関する人工的処置を与えその後重刑重患者として切り替えられ家族へは病変通達理由を出して時を待つと云うのである。
僕はGさんの話を聞いている内に肩すじが寒くなり体が硬直する思いで苦しかった。自分たちの想像も出来ない世界にいる人々の生命の葛藤を少しばかり覗き見したとでも云うべきか…。獄中での善悪が混沌としている核の部分には深く厳しく考えさせられた時であったし、それらに対して何か疑念さえ感じてしまった。
僕はエルバ島訪問当初から怖い所だろうと常に想像していたもののこの度の慰問は単なる社会勉強等と単純な思いでは済まされない重大な体験をした。人の路において絶対に起こしたりやってはいけない行為はいけないこととして、これからの子供達へ特に伝え続ける重要性を囚人Gさんから強く告げられたことを忘れるわけにはいかない。
Gさんとの会話時間も少なくなり淋しそうな表情が残るなか自分達との慰問時間中何度も笑顔を見せてくれたことが何より慰問者の心の救いとしてとっても嬉しく思った。Gさんがもっと自由に話したくても話せない心の辛さが痛む程胸に感じながら…。
1967年エルバ島刑務所慰問の体験談である。そして、Gさんが日本に帰国以後今日もおそらく元気で明るい生活を営まれていることを信じ、共に彼の健康を祈っているひとりなのです。
この収容所が世界的に有名な理由は終身刑者の多いことであり、その囚人たちの中で一人の人間として生きていくこと自体Gさんにとっては毎日が恐怖感と向き合う生活で、時には生きる希望を失う程であると云う彼は入所当時一点として、生活の変化に対応不便が多く他の囚人らとのコミュニケーションがとれず苦しみ、精神的な疲れに悩まされたという。
また、獄中では度々囚人達の口論や喧嘩が絶えず、その様な囚人とは目も合わせぬよう部屋の隅で小さく過ごす日も多々あったと…。しかし囚人らでの小さな出来事でも獄中では大事件に膨らんだり無理やりその事件に取込まれたり、また闇討ちにも終身刑者達は自分より刑の少ない囚人に対し無暗にも罪を背わせる行為に走り事件を起こし、その上獄中での殺人までに至る時もあるという。
それらの事件に少しでも加担したりするとその囚人の刑期が長期化し厳しさが増す。そして獄中での人間関係には生命への判断や理性感、論理感等到底不可能な世界であると…。また、前期のように終身刑は自己の刑を知った上で尚悪事を広げ短期間受刑者を長期間受刑者に仕立てる事を楽しむようにしている病的囚人も存在し、その様な最悪囚人には刑務的にも已むを得ず(暗室)独房入りを余儀なくされ、尚、身心に回心なき囚人には凶悪者として特別囚刑者として意図的か少しづつ体力低下に関する人工的処置を与えその後重刑重患者として切り替えられ家族へは病変通達理由を出して時を待つと云うのである。
僕はGさんの話を聞いている内に肩すじが寒くなり体が硬直する思いで苦しかった。自分たちの想像も出来ない世界にいる人々の生命の葛藤を少しばかり覗き見したとでも云うべきか…。獄中での善悪が混沌としている核の部分には深く厳しく考えさせられた時であったし、それらに対して何か疑念さえ感じてしまった。
僕はエルバ島訪問当初から怖い所だろうと常に想像していたもののこの度の慰問は単なる社会勉強等と単純な思いでは済まされない重大な体験をした。人の路において絶対に起こしたりやってはいけない行為はいけないこととして、これからの子供達へ特に伝え続ける重要性を囚人Gさんから強く告げられたことを忘れるわけにはいかない。
Gさんとの会話時間も少なくなり淋しそうな表情が残るなか自分達との慰問時間中何度も笑顔を見せてくれたことが何より慰問者の心の救いとしてとっても嬉しく思った。Gさんがもっと自由に話したくても話せない心の辛さが痛む程胸に感じながら…。
1967年エルバ島刑務所慰問の体験談である。そして、Gさんが日本に帰国以後今日もおそらく元気で明るい生活を営まれていることを信じ、共に彼の健康を祈っているひとりなのです。
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2006年08月24日
エルバ島囚人収容所では、数年振りに日本語が話せるGさんと我々はやや緊張気味ながら2人の看守の前で自由な会話を始めようとした。
その前に日本の土産を渡すことになった。するとGさんはとても明るい笑顔で喜びを表現されお礼をされた。どの様な理由で収容されているにせよ明るい表情がまるで少年のようで我々訪問者も嬉しく感じた。
しかしそれも束の間、厳しい空気が漂うなかG囚人との会話がはじまる。看守への通訳は神父さんの堪能なイタリア語である。Gさんは事件発生から収容までの状態とエルバ島での厳しい獄中生活等、2時間以上にわたる話しぶりで、それを聞いていると暗いトンネルのような孤独感、屈辱感、そして多くの苦闘体験にも係らず、本人からは殺伐とした雰囲気が感じられないぶん、淋しさや悲しさの表情が見えるように思った。
さて、1950年代後期頃Gは日本ヨーロッパ航路、日本貨物船船員としてイタリア、アンコーナ港アドリア海に入り、約1ヶ月ぶりの上陸でもあった。長期に渡る船中での労を労うはずが飲酒量過剰で他の船友達との間で口論になり1人の男性への殺人事件に加わってしまったという。咄嗟の事なので詳細は覚えていないと・・・しかし外地イタリア国での殺人事件は法律的見地から非常に重大な事件となる。つまり、カトリック国の法律に従う裁判で日本の刑法とは違って常に厳しかったのだと云う。
Gは言葉もほとんど理解出来ず初回裁判には特別にイタリア語辞書一冊の持込を認められ、それをポケットに入れての初裁判から数回にわたり判決に至る長い期間中も言葉も混乱する中、日本人弁護士もいない当時日本大使館領事部通訳も初回のみで、それ以外は自分自身と一冊の辞書頼りでの裁判であったと云う。当時のイタリアではほとんど一般日本人在住者が少なく誰一人と協力する人もなかったと・・・Gさんにとって我々に話すこの重大な出来事の中で幾つとなく絶句する時もありいかに多くの屈辱に堪えてこられたであろう。
彼が殺人犯に加わったとはいえGさんの一言一句から想像を絶するに
その前に日本の土産を渡すことになった。するとGさんはとても明るい笑顔で喜びを表現されお礼をされた。どの様な理由で収容されているにせよ明るい表情がまるで少年のようで我々訪問者も嬉しく感じた。
しかしそれも束の間、厳しい空気が漂うなかG囚人との会話がはじまる。看守への通訳は神父さんの堪能なイタリア語である。Gさんは事件発生から収容までの状態とエルバ島での厳しい獄中生活等、2時間以上にわたる話しぶりで、それを聞いていると暗いトンネルのような孤独感、屈辱感、そして多くの苦闘体験にも係らず、本人からは殺伐とした雰囲気が感じられないぶん、淋しさや悲しさの表情が見えるように思った。
さて、1950年代後期頃Gは日本ヨーロッパ航路、日本貨物船船員としてイタリア、アンコーナ港アドリア海に入り、約1ヶ月ぶりの上陸でもあった。長期に渡る船中での労を労うはずが飲酒量過剰で他の船友達との間で口論になり1人の男性への殺人事件に加わってしまったという。咄嗟の事なので詳細は覚えていないと・・・しかし外地イタリア国での殺人事件は法律的見地から非常に重大な事件となる。つまり、カトリック国の法律に従う裁判で日本の刑法とは違って常に厳しかったのだと云う。
Gは言葉もほとんど理解出来ず初回裁判には特別にイタリア語辞書一冊の持込を認められ、それをポケットに入れての初裁判から数回にわたり判決に至る長い期間中も言葉も混乱する中、日本人弁護士もいない当時日本大使館領事部通訳も初回のみで、それ以外は自分自身と一冊の辞書頼りでの裁判であったと云う。当時のイタリアではほとんど一般日本人在住者が少なく誰一人と協力する人もなかったと・・・Gさんにとって我々に話すこの重大な出来事の中で幾つとなく絶句する時もありいかに多くの屈辱に堪えてこられたであろう。
彼が殺人犯に加わったとはいえGさんの一言一句から想像を絶するに

